「007最新作の舞台になったが…」岸田政権誕生で北方領土返還がさらに遠のいた理由
プレジデントオンライン / 2021年10月19日 10時15分
■「日本とロシアが領海侵犯で英政府に抗議」という場面
岸田政権発足と並行して公開された映画007シリーズの25作目『No Time To Die』は、日系4世のキャリー・フクナガ監督の趣向からか、「日本」がしばしば登場する。
ラミ・マレック演じる悪役は、能面を愛用し、要塞のアジトを枯山水や盆栽、畳で飾り付け、お辞儀や土下座のシーンもある。要塞の島は「日本とロシアが領有権を争う小さな島」という設定で、北方領土の歯舞諸島に当たりそうだ。
終盤では、細菌兵器を培養する要塞を攻撃するため、英軍のミサイル艦が島に接近し、「日本とロシアが領海侵犯で英政府に抗議」という場面がある。実際の撮影は、デンマークのフェロー諸島で行われた。
007第1作の『ドクター・ノオ』が封切られたのは、米ソ冷戦華やかなりし頃の1962年だった。冷戦の落とし子でもあるジェームズ・ボンドが、戦後の冷戦構造が微動だにしない「北方領土」を舞台に躍動するのは象徴的なシーンかもしれない。映画は、戦後76年を経ても日露間に領土問題が存在することを世界に想起させた。
■宏池会の先輩・宮澤外交の大失敗
筆者の私見では、過去76年の北方領土問題の歴史で、日本に有利な形で解決できた唯一のチャンスは、ソ連邦崩壊直後の1992年だった。
新生ロシアのエリツィン初代大統領は、スターリン外交を否定し、圧倒的な経済力を誇った日本の経済援助に期待し、北方領土問題の早期解決を働きかけた。92年の日本の国内総生産(GDP)は、ロシアの42倍だった(現在は約3倍)。
92年3月、ロシア側は「歯舞・色丹の返還交渉、国後・択捉の帰属交渉の同時協議」という非公式提案を提示したが、これは旧ソ連・ロシア側が戦後出してきた最も柔軟な解決案だった。
しかし、当時の宮沢喜一首相は外務省に交渉を委ね、モスクワを訪れることもなかった。「4島一括返還」にこだわる外務省ロシアスクールは、本格交渉を行わず、千載一遇のチャンスをみすみす逃してしまった。
北方領土交渉の現状は冷戦後最悪と言っていい。安倍晋三氏とプーチン大統領の首脳交渉が破綻した後、ロシアは昨年「領土割譲禁止」の憲法改正を行うなど強硬姿勢を強めている。
外交はタイミングがすべてであり、今日の北方領土問題の混迷は、絶好機に何もしなかった宮澤政権に責任がある。
岸田文雄首相は昨年出版した著書『核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志』(日経BP)で、宮澤を「宏池会の先達」とし、親米ハト派の宏池会外交を継承する意向を示したが、「宮澤対露外交の失敗」は肝に銘じるべきだろう。
■外相時代は経産省主導の外交に不快感
岸田首相は対露外交で、安倍氏の「2島」路線から、国是の「4島」に戻す意向を示唆している。
安倍氏は2018年、シンガポールでの首脳会談で、歯舞、色丹2島の引き渡しをうたった1956年日ソ共同宣言を基礎にした交渉で合意し、事実上の2島路線に転換したが、ロシアはこれに応じず、独り相撲に終わった。
岸田氏は就任前後から、「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結するのが基本的な方針」と主張し、安倍氏の外交努力を評価しながら、「56年宣言」には言及していない。
10月8日の所信表明演説では、「ロシアとは、領土問題の解決なくして、平和条約の締結はない。首脳間の信頼関係を構築しながら、平和条約締結を含む日露関係全体の発展を目指す」と述べた。
7日に行ったプーチン大統領との電話協議について、岸田氏は「シンガポール合意を含め、両国間の諸合意を踏まえて取り組むことを確認した」と記者団に説明。日ソ共同宣言にこだわらず、他の合意も含めて交渉する姿勢を示した。
安倍政権下で4年8カ月外相を務めた岸田氏は、安倍首相に忠誠を尽くしながら、官邸主導のナイーブな対露融和外交には批判的だった。特に、今井尚哉首席秘書官ら経済産業省出身の官邸官僚について、「問題は首相周辺。正直、ちょっと違う世界の人間がいる」と不快感を周囲に漏らしていたという。(『消えた四島返還 安倍政権 日ロ交渉2800日を追う』北海道新聞社編、2021年)
これは、外交主導権を官邸に奪われた外務官僚の見解でもあり、岸田政権で対露外交は再び外務省主導になりそうだ。
■現地メディアは「酒豪」と親近感を覚えているが…
岸田新首相について、ロシアのメディアは経歴から人柄まで詳しく報じており、米国などより強い関心を示した。
ロシアのネットメディア、「Lenta.ru」は、「岸田首相は日本政界有数の酒豪で、モスクワでのワーキングランチで、ウオッカのグラスを何度も飲み干した」と書いた。
外交誌「ディプロマット」は「岸田、ラブロフ両外相は日本酒とウオッカで飲み比べの競争を何度か行った。岸田氏はアルコールでコミュニケーションを円滑にする外交力を持つ」と書いた。ロシアは世界有数の酒豪国だけに、親近感を覚えるらしい。岸田氏の愛読書がドストエフスキーの『罪と罰』と報じたメディアもあった。
ただし、ロシアは岸田氏が「2島」から「4島」に転換しつつあることに警戒的だ。「論拠と事実」紙は、岸田氏は4島返還を目標に掲げており、日本人の中にも「大胆」「過激」とみなす人がいると指摘した。
「モスコフスキー・コムソモーレツ」紙は、「岸田政権は、ロシアに融和的だった安倍政権の政策とは違う。政治対話を続けても、新しいイニシアチブが東京から打ち出されることはない。日露関係は冷え込み、しばらく停滞する」とのオレグ・カザコフ極東研究所研究員のコメントを伝えた。
ロシアは現在、プーチン大統領が高揚させた愛国主義と第2次世界大戦の戦勝神話がピークに達しており、「4島」に言及するだけで交渉に応じないだろう。この点では、安倍外交に影響力を持った鈴木宗男参院議員(日本維新の会)も「56年宣言を基礎とする交渉のラインを変えたら、ロシアは乗ってこない」と指摘している。
■日ロ関係の進展は期待できない
岸田首相が親米派で、「日米同盟が基軸」「自由で開かれたインド太平洋」「クアッド(日米豪印)の枠組み重視」を外交公約に掲げていることも、日露交渉には障害となろう。
ロシアはクアッドを「アジアのNATO(北大西洋条約機構)」を作る試みと非難し、とりわけ友好国のインドが米側陣営に入ることを憂慮している。
極東研究所のワレリー・キスタノフ日本研究センター所長は「独立新聞」で、岸田氏は敵基地攻撃能力の保有に前向きで、外交面でタカ派になると予測。領土問題でも強硬姿勢で、日露関係の進展は期待できないと述べた。
前出のカザコフ氏も、「岸田氏は日米同盟やクアッドの枠組みで外交路線を推進する。安全保障問題に関心を強めるため、日米安保体制の強化や中国の脅威が主要テーマになる」と分析した。日米同盟重視の岸田外交は、中露枢軸重視のプーチン外交とは合致しないとの見立てだ。
■「組員」同士の対立は避けなければならない
ただし、「人の意見を聞く」ことを身上とする岸田氏は、慎重でバランス感覚があり、ロシアとの関係悪化を回避するだろう。
岸田首相は、安倍政権が設置した露経済分野協力担当相(経産相が兼務)を存続させた。総裁選では、高市早苗候補が主張した「米国の中距離ミサイルの日本配備」「防衛予算のGDP比2%への増額」に同調しなかった。米軍ミサイルの日本配備も、ロシア側が厳しく牽制するテーマだ。
こうみていると、日露関係や領土交渉は岸田政権でも停滞が続きそうだ。「組長」である米中の抗争が激化すれば、「組員」の日露も連動して対立するだけに、日露は関係悪化を防ぐ安保対話を続けるべきだろう。広島県選出の岸田首相は国際政治の「仁義なき戦い」を避けねばならない。
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拓殖大学海外事情研究所教授
1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社に入社。バンコク、モスクワ、ワシントン各支局、外信部長、仙台支社長などを経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『北方領土はなぜ還ってこないのか』、『北方領土の謎』(以上、海竜社)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミア新書)などがある。
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(拓殖大学海外事情研究所教授 名越 健郎)
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