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「"ふつうの小学校生活"は家庭環境と居住地域によって異なる」無視されてきた"教育格差"の実態

プレジデントオンライン / 2021年10月27日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

日本の教育に格差はあるのか。早稲田大学准教授の松岡亮二さんは「どんな環境に生まれたかは、学歴とその後の人生に関連している。日本は『緩やかな身分社会』といえる」という――。

※本稿は、松岡亮二『教育論の新常識』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■「教育格差」と「学歴格差」は違う

まず、言葉を定義するところからはじめよう。「教育格差」とは、本人が変えることのできない初期条件(「生まれ」)によって、学力や学歴など教育成果に差があることだ。一方、「学歴格差」は、最終学歴によって処遇が異なることをいう。たとえば、(有名)大卒の学歴が潜在能力の高さを示すシグナルと解釈されて、希望する企業や官公庁に就職しやすかったり、組織内部でも昇進コースに配属されやすかったりすることだ。

2000年代以降「教育格差」も話題になってきたが、多くの人が身近な話題として感じてきたのは戦後の長い期間メディアで取り上げられてきた「学歴社会」だろう。ただ、このようなメディアの報じ方や人々の感じ方は、必ずしも社会の実態を反映しているわけではない。

■「生まれ」と最終学歴

これまでの調査結果が(多少の変動を伴いながらも)一貫して示しているのは、戦後日本社会には常に「教育格差」があり、また、同時に、「学歴格差」があることだ。「生まれ」は本人の学歴を通して収入を含む社会的地位に変換されていることになる。「生まれ」によって(平均的には)最終学歴が異なり、学歴確定後の人生の可能性が制限されているのである。前近代のように身分がそのまま世襲されるわけではないが、「生まれ」・学歴・その後の人生に関連がある日本は、「緩やかな身分社会」といえる。

「教育格差」が社会問題として指摘されるようになったのはバブル経済崩壊後である1990年代後半、一般的にメディアなどで浸透するようになってきたのは2000年代で、その後半になると「子どもの貧困」も頻繁に取り上げられるようになった。換言すれば、低成長期になってから「子どもの貧困」を含む「教育格差」が社会問題として認識されるようになってきたわけだ。ただ、高度経済成長期やその後のバブル崩壊前までの安定成長期であっても、「生まれ」によって学歴達成に違いのある「教育格差」は存在してきた。一部の研究者を除いては、注目してこなかっただけだ。

■教育格差は戦後に育ったすべての世代において存在する

たとえば、図表1にあるように、父親が大学を卒業しているかどうか(父・大卒)という単純な「生まれ」の区分だけでも、本人が大卒になったかという結果に大きな格差があることがわかる。2015年時点の20代男性であれば、父が大卒であると80%が大卒となったが、父が非大卒であると35%に限られる。このような格差の傾向はすべての年齢層で確認できて、2015年時点の70代でも見られる(父・大卒だと56%、父・非大卒だと19%が大卒になった)。「教育格差」は2000年代以降だけの話ではない、本稿の読者全員が育つ過程で存在したのだ。すなわち、「いつの時代にも教育格差があった」、それが戦後日本社会である(女性についても同様。詳しくは拙著『教育格差』〔ちくま新書〕を参照)。

父親の学歴による子の最終学歴(画像=『教育論の新常識』)
父親の学歴による子の最終学歴(画像=『教育論の新常識』)

近年話題になっている「子どもの貧困」は「教育格差」の一部であり、経済安定成長期の1970、80年代に15歳であった世代にも存在した。貧困「率」は上昇していてそれ自体注目されるべき点だが、1970、80年代は15歳の人口規模が大きかったので、「子どもの貧困」状態下にある子供の人数はそう変わっていないし、現在貧困下にある子供たちよりも(さらに)物質的に恵まれていなかった。

それにもかかわらず、少なくとも『読売新聞』と『朝日新聞』は2008年になるまで「子どもの貧困」についてほとんど報じていない。このメディアに見過ごされた時期に貧困下で育ったと思われる子供たちの学歴達成は、同時期の他の子供たちと比べると明確に低く、学歴によって処遇が異なる「学歴社会」であることも変わっていない。

■「平等」な義務教育は幻想

「いや、義務教育があるじゃないか、機会は全員に与えられているはずだ」、という声もあるかもしれない。確かに、日本の義務教育制度は「平等主義的」として海外の研究者にも評価されてきた。実際のところ、学習指導要領や地方への財政的支援(国庫負担金)などによって、日本のどの地域であっても一定の教育が保障されている。ただ、「生まれ」の影響を打ち消すにはあまりに不十分なのが実態だ。この点を、近年の信頼できるデータで確認しよう。

「国際数学・理科教育動向調査」(TIMSS)の2015年調査の分析結果によれば、小学校入学時点で、親の(短大卒以上の)大卒者数によって児童間に読み書きと算数の基礎学力の格差がある。小学校4年生の算数についても、たとえば、親の大卒者数で児童間に大きな学力格差が存在する(平均50・標準偏差10の国内偏差値でみると、親の大卒者数0~2の順で、各層の平均は46、49、54。偏差値60以上の割合は各層で7%、12%、26%)。

■「ふつうの小学校生活」は家庭環境と居住地域で異なる

学校教育と親和性の高い両親大卒層(大卒者数2)は日本中の小学校に均等に住んでいるわけではないので、学校間格差も大きい。両親大卒割合が90%の小学校がある一方、0%の学校も同じ国内に存在し、この割合は各学校の平均的な学力と一定の相関関係がある(係数0.57)。

98%の児童は公立校に通っているので、これらは一部の国私立校だけが恵まれているという話ではない。そう、標準化された制度下における公立小学校であっても、社会経済的文脈は学校によってまったく異なり、公立学校間でも明確な学力格差があるのである。「この学校の子供たちは勉強がよくできる」と言うとき、それは間接的に両親大卒割合が高いという「生まれ」を称揚している可能性があるのだ。

小学校で確認できる格差は学力だけではない。詳しくは前掲の拙著『教育格差』で示しているが、個人間・学校間で、親の子に対する大学進学期待、習い事、通塾、学習努力(時間)、メディア消費時間、そして、親の学校関与について、格差を確認できる。制度として標準化されていても、どんな「生まれ」の家庭に育った児童が集まっているかによって、まったく異なる「ふつうの小学校生活」があるのである。「生まれ」(家庭環境)と居住地域によって相対的に有利・不利な教育環境が地層のように細かく折り重なっているのだ。

■義務教育は「学力格差」を縮小できていない

児童の「生まれ」と関連する様々な学校間格差という現実の前では「機会均等」は幻想に過ぎない。実際のところ、「扱いの平等」に基づく現在の制度では学力などの格差を埋めることはできていない。これは中学校に進学した後も同様だ。この点は、政令指定都市であるさいたま市以外で実施された「埼玉県学力・学習状況調査」のデータで確認できる(調査の詳細は、本書の19章)。公立小中学校に通っている小4から中3までの子供たちを毎年追跡し、同じ物差しで測ることで学力変化を明らかにできる学力調査だ。

松岡亮二『教育論の新常識』(中公新書ラクレ)
松岡亮二『教育論の新常識』(中公新書ラクレ)

親の学歴は調べられていないので「家庭の蔵書数」を文化的資源の代理指標として、小学校6年から中学校3年までの同年齢の集団を分析すると、まず、6年生のときに国語の学力格差がある。そして、家庭の蔵書数別のどの層であっても中学1年、2年、3年と前年より学力を向上させているが、格差そのものは大きくも小さくもなっていない。教科を数学にしても、他の年齢集団や異なる対象学年(たとえば小4~6)にしても、大まかな傾向は変わらない。

学力格差は平均的には拡大も縮小もせず、維持されている。先を走っている集団と同じ速度で走っているだけでは、いつまで経っても追いつくことはできない。格差が平行移動しているだけなのだ。

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松岡 亮二(まつおか・りょうじ)
早稲田大学准教授
ハワイ州立大学マノア校教育学部博士課程教育政策学専攻修了。博士(教育学)。東北大学大学院COEフェロー(研究員)、統計数理研究所特任研究員、早稲田大学助教を経て、同大学准教授。著書『教育格差:階層・地域・学歴』(ちくま新書)は、1年間に刊行された1500点以上の新書の中から「新書大賞2020」(中央公論新社)で3位に選出された。

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(早稲田大学准教授 松岡 亮二)

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