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「愛する人が死んだとき、人はどうするべきか」ブッダが説いた5つの方法

プレジデントオンライン / 2021年10月27日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nattrass

愛する人を失ったとき、どうすればいいのか。福厳寺住職で登録者40万超のYouTubeチャンネルが人気の大愚元勝さんは「愛する人の死を受け入れるのには痛みが伴う。だが、お釈迦さまは死を真正面から見据えることが故人への最高の供養となると説いている」という——。

■死という事実を見据えることが供養となる

この記事に目がとまったあなたは、ひょっとしたら、愛する人を亡くしたことがある人かもしれません。

そして、その人の死をまだ受け入れることができない状況にある人かもしれません。

だとするならば、少し覚悟をもってこの記事を読み進めてください。

なぜなら、愛する人の死を受け入れるには、痛みが伴うからです。

けれども、その痛みを乗り越えて、愛する人の「死」を受け入れることができたとき、あなたの「生」が変わります。

愛する人を失った悲しみを癒やし、「死」という真実を真正面から見据えたとき、あなたの「生」に変容が起こるのです。

そしてその、あなたに起こる変容こそが、今は亡き、愛する人にとっての、供養となるのです。

■人々が逃れようとする死に挑んだお釈迦さま

私は「お寺の子」として育ちました。

私が初めて、お経本を持たされたのは、三歳のときでした。

初めて「葬儀」に連れていかれたのは、五歳のときでした。

以降、僧侶として、これまで2000人以上の方々の葬送に立ち会ってきました。

いま、あらためて思うことは、私たちの生に「確実」はない、ということ。

私たちの人生に「絶対」はありません。唯一あるとしたら、「死」だけです。

「死」だけが確実であり、「死」だけが絶対なのです。

さらに、死は平等です。

何一つ平等でない人生があって、死だけは平等です。

人種にかかわらず、性別年齢にかかわらず、国籍にかかわらず、社会的地位の高低にかかわらず、お金の有る無しにかかわらず、人格の善悪にかかわらず、すべての人が、等しく死んでいきます。

だからこそ人々は、死から逃れようとしてきました。

欲望を満たすことや、夢を追いかけることによって、死をはぐらかそうとしてきました。

そして、決して死なない、永遠なるものを想像してきました。

天国、極楽、神……。死の恐怖から逃れるために、死の不安を和らげるために、人々は、さまざまな幻想を創り出してきたのです。

しかし、今から約2500年前のインドに、その「死」をはぐらかすことなく真正面から見据え、挑んだ人物がいました。

お釈迦さまです。

■徹底して死から遠ざけられたお釈迦さまの幼少期

お釈迦さまは、永らく子に恵まれなかった釈迦族の国王、シュッドーダナと、母マーヤの間に生まれた待望の王子でした。

父、シュッドーダナ王は、それはそれは喜んで、盛大な祝宴をひらき、著名な占星術師に王子の将来を占わせました。

すると占い師は、「この子は将来、偉大なチャクラバルティン(国々を統治する者)になるか、ブッダ(世を捨てて、光明を得たもの)になるかの、どちらかです」と予言したのです。

さらに、母マーヤが、お釈迦さまを産んで間もなく、死んでしまうという悲劇が起こります。

気落ちした父、シュッドーダナにとって、王子の成長だけが頼りでした。

自分の王位を継がせ、当時林立していた国々を統治する、偉大な王になってもらいたいと、強く願ったのでした。

王にはそのために、絶対に阻止しなければならないことがありました。それは、占い師が予言した、我が子の将来についてのもう一つの可能性、「ブッダとなるべく出家してしまうこと」でした。

占い師は知っていました。「死」に気づいたもの、死の現実を受け入れたものには、根本的なシフトが訪れる可能性があることを。

そこで王子は、あらゆる贅沢と快楽を与えられ、徹底して「死」を知らされないように育てられました。

季節ごとの別荘が用意され、学問、武芸、あらゆる知的好奇心が満たされ、若くて美しい女性たちに囲まれた甘美な生活が、王子の日常でした。

その裏では、老いや死という現実を王子に悟られないように、徹底した配慮がなされました。

王子の生活空間に老人が入ることは許されず、王子が散歩する庭からは、枯れ葉や萎れかけた花などが取り除かれました。

王子の外出時には、その通る予定の道に横たわる、乞食や老人、病人や死者、死者を送る行列までもが、追い払われたといいます。

■29歳で出家することになった“ある出逢い”

しかし、そのような「生の現実」へのごまかしが、賢い王子にいつまでも通用するはずがありません。

立派に成人し、公務に出かける機会も増えた王子は、ある日その道中で、それまでの人生において、見たこともなかった、病人や、老人や、死人を目の当たりにしたのでした。

誰もがいつかはあのように、老い、病み、死んでいく。どんなに甘美な生活を楽しんでも、どんな大国の王になっても、どんな財宝に恵まれていても、それらは永遠に続くものではない。

激しく動揺した王子は、その後の外出時に、沙門(しゃもん)と呼ばれる、出家僧を見かけます。

沙門の品格と清らかさに満ちた、堂々たるありよう。

その御姿に心打たれた王子は、城を出る決意をします。29歳の年でした。

出家した王子は、ヨガのマスターに師事したり、あらゆる荒行、苦行に励んだりします。

ブッダのイメージ
写真=iStock.com/rudall30
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/rudall30

それでもなお、苦悩を離れられなかった王子は、自分の外に解決を求めて動き回るのをやめ、一本の大木の元に座して、自分の内側の苦悩と、徹底して向き合ったのでした。

そしてついに、ブッダ(目覚めたもの)となられたのです。35歳のときでした。

以降、80歳でお亡くなりになるまでの約45年間。ブッダが各地を旅しながら、先々で人々の悩みに答え、弟子に説いた教えが、仏教です。

■愛する人の死を受け入れる5つの方法

1,苦しみを離れたければ、現実を知る

仏教の根本には、いつも「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の真理があります。

諸行無常とは、「あらゆる事象が、死滅に向かって変化し続けている」という意味です。

諸行無常であるがゆえに、命は生まれた瞬間から死につつあります。

世界では、1秒間に2人が死亡している、と言われています。

老衰だけが死因ではありません。戦争で、病気で、事故で、震災で、人が亡くなったというニュースを、毎日のように見聞きしている私たちですが、その死はいつも他人事。

まさか自分の身に、自分の愛する人の身に、死が訪れるとは、夢にも思っていません。

それどころか、自分だけは死なないという態度で、現実を見ようともしない。

ブッダは、その態度を「無知」と呼び、「無知こそが苦しみを生む」と指摘したのです。

2,死の受容過程を知る

アメリカの精神科医に、エリザベス・キューブラー=ロスという人がいます。

彼女は『死ぬ瞬間』という本を著し、死に瀕した人々が、次のような5つの段階を経て、自らの死を受容していくことを論じました。

第1段階:(否認)死を否定し、周囲の人と距離を置くようになる
第2段階:(怒り)死が否定できないと自覚し、「どうして自分が」と怒りを覚える
第3段階:(取り引き)死から逃れるため、何かにすがって取引しようとする心理
第4段階:(抑うつ)死から逃れることはできないと悟り、抑うつ状態になる
第5段階:(受容)死を受け入れ、心に安らぎが訪れる

「わたし」とは記憶の塊です。生まれてから今までの、心身に刻まれた様々な記憶。

それが「わたし」です。だから永年寄り添った人の死は、「わたし」の一部が死ぬことを意味します。

それが突然やってきたとき、私たちの心は、ロスが示したように、激しく揺さぶられる可能性がある。

そう知っておくことは、愛する人の死を受け入れる上で、大いに役立つことでしょう。

■愛する人の死を受け入れる練習としての葬儀

3,葬送の儀式をしっかりと執り行う

私の大学院時代の恩師に、ティム・フォールシャムというイギリス人教授がおられます。

ティム先生は、僧として家々の年忌法要に周る私に同行し、「供養が遺族にもたらす効能」を研究なさっていました。

最近は随分、簡素化されてしまいましたが、今でも地方に行くと、伝統仏教寺院の檀家では、家族の死後、枕経、通夜、葬儀、49日、1周忌、3回忌、7回忌……と、50回忌まで法要を行うのが慣習です。

しかし、近年、とくに都市部では、一連の葬送儀礼を簡素化したり、一切行わない人まで出てきました。

そして学生時代の私も、僧の端くれでありながら、葬送儀礼の簡素化、合理化に大賛成でした。

しかし、ティム先生とともに調査する中で、葬送儀礼に、大きな効能があることを、あらためて見直させられたのです。

ティム先生によれば、日本のような一連の葬送儀礼が無い文化では、愛する人の死を受け入れられず、抑うつ状態のまま余生を終えていく人が少なくないといいます。

日本の葬儀
写真=iStock.com/akiyoko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/akiyoko

一方、日本伝統仏教の、一見面倒にすら思える、形を変えての儀式の繰り返しが、遺族にとっては、少しずつ「愛する人の死を受け入れる」練習となっている。

それは、四十九日のことを「大練忌(だいれんき)」と呼ぶことからも分かります。大練忌とは、「もう、あなたは故人のいなくなった日々を、大いに練習しました」という意味です。「もうあなたは悲しみをたくさん練習したのだから、そろそろ前を向いて、自分の人生を生きてください」という、遺族の現実生活復帰に向けて背中を押す儀式が、四十九日、大練忌なのです。

葬儀・法事などの一連の葬送儀礼は、死者のためではありません。愛する人の死を受け入れられずに苦しみ続ける、遺族のため。

儀式には力があります。そこで真摯に、手を合わせるものの心を浄化し、悲しみを癒やす力があります。決して派手でなくていい。自分で行う写経、念仏、読経でもいい。

ちゃんと供養することで、悲しみが癒やされてゆくのです。

4,積極的に自然と触れ合う

私は、愛する人を失った人に、積極的に野山に出かけることを勧めています。キャンプでも山歩きでも、そこらの公園への散歩でもいい。自然が私たちに、命の真実を教えてくれるからです。

植物の、土から芽が出て、茎が伸びて、葉っぱが生い茂って、花が咲いて、実をつけて、葉が落ちて、土に帰って、その土からまた新しい芽がでて、という循環。私たちも同じです。自然から生まれて、自然に帰るのです。そしてまた、次の命となって自然界を循環している。

今は亡き愛する人の命は今頃、この青い空や、大いなる川や、爽やかな風や、緑豊かな木々のように、大自然を循環しているのです。

5,死を否定せず、受け入れて生きる

あなたが愛する人の死を否定し続けるかぎり、あなたも故人も救われません。

あなたは死を恨み続け、故人は死んだことを、あなたに責め続けられているからです。

ブッダの父、シュッドーダナ王が、必死になって我が子に知らせないようにしたことは「死」でした。父シュッドーダナ自身が死を恐れていたからです。

でも、「死は恐れるべきことではない。いつかは必ず誰にも訪れることであり、自然なことである。恐れるべきことは、死ではない。まだ明日があると思っていい加減に生きること。過去にとらわれ、未来を憂いて、今をちゃんと生きないこと。なすべきことを成さず、怠惰に生きること。愚痴多く、他を恨んだり、批判したりして、自分を顧みないこと」

それが、死を受け入れ、死を完全に超えた、ブッダのメッセージでした。

■悲しみは簡単には癒えないけれども

もちろん、そんな簡単に悲しみが癒えるわけではありません。

でも、このブッダのメッセージを真に理解したならば、あなたの「生」が変わるはずです。

たとえ泣きながらでも、「なすべきことは、愛する人の死を嘆き続けることではない」と分かるからです。

あなたがあなたのために、そして故人のためになすべきことは、ちゃんと生きること。

遺族が健康に、明るく、仲良く、強かに生きること。それこそが故人にとって、最高の供養なのですから。

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大愚 元勝(たいぐ・げんしょう)
佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表
空手家、セラピスト、社長、作家など複数の顔を持ち「僧にあらず俗にあらず」を体現する異色の僧侶。僧名は大愚(大バカ者=何にもとらわれない自由な境地に達した者の意)。YouTube「大愚和尚の一問一答」はチャンネル登録者数29万人、5400万回再生された超人気番組。著書に『苦しみの手放し方』(ダイヤモンド社)、『最後にあなたを救う禅語』(扶桑社)、最新刊としてYouTube「大愚和尚の一問一答」のベスト版として書籍化した『人生が確実に変わる 大愚和尚の答え 一問一答公式』(飛鳥新社)がある。

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(佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表 大愚 元勝)

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