「住宅ローンが0円になるね」脳腫瘍で余命14カ月の32歳夫が開頭手術前に見せた最後の笑顔
プレジデントオンライン / 2021年10月23日 11時15分
■子煩悩で料理上手なイクメン夫の浮気・うつ病を疑う
中部地方在住の白井和美さん(仮名・30代・既婚)は、看護系の大学時代、同級生の友人から、同い年で国家公務員だという男性を紹介される。それが現在の夫だ。
2人は8年間付き合い、2007年に結婚。翌年3月、大学病院の看護師をしていた白井さんは退職して家庭に入り、実家から高速道路をつかって1時間ほどの夫の実家から車で15分ほどのところに新居を建築。2年後に長女、その3年後に次女を出産した。
白井さんの夫は、料理も掃除も洗濯も、何でも率先してやってくれる人だった。娘が生まれた後は、おむつ替えはもちろん、着替えや爪切り、入浴や食事の世話など、自分からどんどんやってくれるイクメン。白井さんが夜泣き対応で朝がつらいときには、白井さんのために朝食を作ってから仕事へ行ってくれた。
「夫は本当にいい旦那さん、いいパパでした。料理もプロ級の腕前で、煮物、揚げ物、中華、イタリアン、何でも作れちゃいます。たぶん、こんなに何でもやってくれる人はなかなかいないんじゃないかな……と思っていました」
夫は娘2人を溺愛し、言葉が話せるようになった長女が「パパ買って~」とねだると、自分の小遣いをはたいて何でも買ってあげていた。
ところが、そんな幸せな生活が一変する。
2014年5月。夜勤から帰ってきた夫を白井さんが玄関で迎え、いつも通りに「おかえり~!」と言ってキスをしようとしたところ、「いや、そういうのいいや……」と夫は冷たく拒否。そのまま夫はソファーに横になり、またたく間に寝入ってしまった。
「夫は、行ってらっしゃいとおかえりなさいのキスは欠かさなかったし、いつも夜勤明けは、帰ってくるなり趣味のサーフィンに出かけていたのですが、その日から急にサーフィンにも行かなくなり、別人になったかのようでした」
ソファーで横になっている夫に白井さんが話しかけても、無視するか面倒くさそうに「うん」と言うだけ。翌朝、夫は仕事の時間になると起き、無言で仕事に行った。
白井さんは浮気かうつ病を疑い始めた。
■救急搬送
夫の態度が急変した翌日、おかしいと思った白井さんは、「何なのその態度?」「好きな人でもできたの?」と問いただした。
しかし夫は、白井さんが話しているのが聞こえていないかのように、帰宅するなりソファーに横たわり、そのままスーっと眠りに入ってしまう。
雪が降っても海に行くほどサーフィンが大好きな夫だったが、ここのところ仕事に出かける以外はソファーで横になってばかり。さすがに心配になった白井さんは、「調子悪いの? どこか痛いの?」「病院行ったほうがいいよ?」などと話しかける。だが夫は、「うるせ~な~! わかってるよ! 黙ってろよ!」と声を荒らげる。夫が白井さんにこんな言葉遣いをするのは初めてだった。
さらに夫は、音に敏感に反応するようになった。
掃除機の音や、当時4歳と1歳の娘たちの声に反応し、「うるせ~な~!」と怒る。そして耳を塞ぐように頭を抱えて、ソファーにうずくまり、眠る。
夫の態度が急変して3日目。その日は夫の仕事が休みだった。相変わらずソファーで眠る夫を前に、白井さんは何度も声をかけたが、夫は「うるせ~な~!」と怒るだけ。いよいよおかしいと思った白井さんが、「病院予約したから車に乗って!」と言っても「黙ってろよ!」と怒鳴って動こうとしない。
白井さんは、近くに住む義母と義姉夫婦に連絡する。到着した義母や義姉夫婦に手伝ってもらい、夫の両脇を抱えて車に乗せようとしたところ、夫はさらに攻撃的になり、抵抗する。そこで白井さんが、「じゃあ、救急車を呼ぶよ?」と言うと、それまで暴れていた夫が急におとなしくなり、「うん」と答えた。
「振り返ると、あの時点で夫は、もうすでに自分の思った言葉を正常に発することができなくなっていたのだと思います。本当は少し前から、『何か変だからすぐに救急車を呼んで』と言いたかったのではないかと。私がもっと早く気づいてあげていれば……」
救急車が到着し、救急隊員が「歩けそうですか?」と訊ねる。白井さんが、「たぶん無理だと思います。ずっと横になったままなんです」と答えると、夫はムクっと起き上がり、「あ、すみません。ありがとうございます。ちょっとトイレ行っていいですか?」と言ってトイレを済ませ、自分の足で救急車に乗り込んだ。
このときの白井さんは、「なんだ、普通じゃん。大したことないんだ。良かった」と思っていた。
■検査結果
義母と義姉夫婦に娘たちを預け、白井さんは救急車に同乗。病院に着いた後、夫は全身の検査を受け、その結果が出るのを2人で待つ。しばらくして名前が呼ばれ、医師から検査結果を聞かされた。
「頭部のCTで、前頭葉に脳腫瘍のような影がみつかりました。MRIを撮ってみないと詳しいことはわかりませんので、検査入院していただけますか」
すぐに白井さんは思った。
「脳腫瘍は、良性にしろ悪性にしろ、開頭手術が必要だ。前頭葉だと、攻撃的になってしまう可能性が高い。子どもたちに暴力を振るわれたらどうしよう……」
実は白井さんは、看護師として大学病院の脳神経外科に3年、手術室に5年いたのだ。「これは、運命なの? この夫と一緒になるために看護師になったの? 夫は本能的に、脳腫瘍に詳しい看護師の私を選んだの?」などという考えが頭の中でぐるぐる回った。
帰宅すると白井さんは、脳腫瘍について調べた。長女が幼稚園に行き、次女が昼寝している間と、夜2人が寝付いてからの時間を使い、調べられるだけ調べた。
その結果、脳腫瘍でも
・手術で後遺症が残ることもあるが、良性なら心配することはない
・悪性でも、グレード3までなら予後は良い
・グレード4だった場合、手術で取り除いても、3年生存率はかなり低い
ということがわかる。やがてMRIの結果が出た。
「悪性の脳腫瘍でした。しかも悪性度が一番高い、グレード4の神経膠芽腫です」
医師は言った。白井さんは大きなショックを受けた。
「その夜、子どもたちを寝かせてから、涙が枯れるほど泣きました。どの資料を見ても、何度調べ直しても、悪いことばかり出てきて、ショックと絶望で眠れませんでした……」
■名医探し
白井さんが「神経膠芽(こうが)腫」について調べたところ、
・浸潤性の腫瘍なので、手術では100%取り除く事は不可能
・手術しても必ず再発する
・再発したら数カ月で亡くなる
など、恐ろしいことばかり出てきた。
脳のがんは、他の臓器のように、全て取り除くことはできない、と言われる。取れば取るだけ機能が失われるからだ。白井さんは絶望に打ちひしがれ、娘たちがいない間は、泣いて暮らした。
しかしその翌日、白井さんは突然ハッとする。「泣いている場合じゃない。こうしている間にも夫の余命は削られていく……」
それから白井さんは、脳腫瘍の名医探しを始めた。ネットで見つけたアメリカの医師にも思い切ってメールを送った。だが、「予後が良い脳腫瘍しか手術をしない」「神経膠芽腫は難しいです」などと断られ続ける。
だが4日後。自宅から高速を使って2時間ほどの距離だが、ようやく夫を受け入れてくれる名医とその病院を見つけた。
まずは白井さん一人で、名医の診察室を訪れる。すると白井さんを見るなり、夫の病状の概要を伝えてあった名医は言った。「ご本人はどこですか?」。白井さんが、「自宅です。こちらに連れてくるのは難しくて……」。そう答えるか答えないかのうちに、「すぐに連れて来てください。一刻も早く入院させないといけません。いつ命を落としてもおかしくない状態です」と名医は言った。
白井さんはすぐに、自宅で夫や娘たちを見ていてくれている義母に連絡。タクシーを手配して自宅に向かわせ、夫を病院まで搬送。
「ビックリしました。こんなに大きな脳腫瘍は久しぶりです」
脳は頭蓋骨で覆われているため、腫瘍による圧の逃げ場がなく、命を司る脳幹という部分が圧迫されると死に至ることもある。現状、夫の脳幹はかなり圧迫されている状態のため、このままではいつ亡くなってもおかしくないと名医は言う。
「もし手術をしなければ、余命は4カ月。残念ですが、手術をしても、平均余命が14カ月と言われている、とても難しい病気です」
気が付くと、白井さんの頬を涙がつたっていった。
「わかってはいました。たくさん調べていましたから。覚悟もしていました。でも、祈っていました。奇跡が起こることを。名医なら何とかしてくれるんじゃないかって……。まだ夫は32歳。4歳と1歳の娘の、とっても優しい子煩悩なパパ。そんな人が、急に『死んでしまうかも』と言われても、当時の私には信じられませんでした」
■インフォームドコンセント
夫の手術は、5日後に決まった。主治医は白井さんだけに、次のポイントを説明した。
・神経膠芽腫は浸潤性のため、100%再発すると言われている。だが、手術でなるべくきれいに取り除き、その後、放射線療法や抗がん剤治療をすることで、再発を遅らせることは可能
・夫の脳腫瘍は左右前頭葉にある。前頭葉を大きく失うと、自発性や理性が失われるため、攻撃的になったり、怒りっぽくなったりする。さらに情報の整理ができなくなり、相手が言っていることを理解する力がなくなる
・水道の蛇口を捻って、水を出すことはできるが、止め方がわからなくなる。ガスコンロの火をつけることはできても、消し方がわからなくなるなど、1人での留守番は難しくなる。
白井さんは言った。
「まだ1歳と4歳の娘がいます。パパには、1日でも長く生きていてもらいたいです。どんな障害が残っても、生きているだけでいい。長く生きられることを優先してください!」
この後、主治医は、夫の病室へ行き、「今から大切なお話をします。恐らくご主人は5分で記憶を失ってしまうと思いますが……」と前置きしてから話し始めた。終わった後、白井さんが夫に「今の話分かった?」と訊ねたところ「うん。よかったじゃん。住宅ローンがゼロになるじゃん」と答えた。
「全部理解した上で冗談を言ったのか、理解できなかったのかはわかりません。でも、何だかほっこりして、2人で笑ってしまいました」
しかし5分ほど経つと、「うるせーなー」と言って夫は横になってしまった。
■開頭手術後の急変
手術当日の朝、娘たちを連れて夫の病室へ行くと、夫は手術着に着替えていた。それまで、娘たちが近づくのも嫌がっていた夫が、娘たちを膝に乗せて笑う。この日撮った写真が、夫らしい笑顔の最後の写真となった。
8時間ほどで終わると言われていた手術は、11時間後に終了。
手術室から出てきた夫は、頭にテープや包帯をまかれ、まだ会話ができる状態ではない。白井さんは、とりあえず手術が無事に終わり、ほっとして帰宅した。
翌日、白井さんは長女を幼稚園に預け、次女を連れて車を2時間飛ばし、夫に会いに来た。
「どう? 気分悪くない?」と声をかけると、夫は「うん……キモい」と言って、咄嗟にテーブルにあった尿検査用の紙コップを掴み、中に嘔吐。
白井さんは思わず吹き出した。夫も少し笑ったが、表情は乏しい。だが、自分で普通に座り、吐きそうになったら汚さないように紙コップに吐いた夫を見て、白井さんは安堵を覚えた。
「手術の翌日にこんなに元気だなんて、やっぱり若いから回復力半端ないな」と思いつつ、白井さんは長女のお迎えに間に合うように帰宅。しかしその夜、娘たちを寝かしつけていると、主治医から連絡が入った。
「ご主人の状態が急変し、すぐに手術をしないと危険な状態です。手術してもよろしいですか?」
白井さんは、「はい、お願いします」と答える。
「何が起こってもおかしくない状態です。すぐに病院に来てください」
そう言われた白井さんは、義母に連絡。娘たちのことは義姉が見ていてくれることになり、義母と2人、タクシーで病院へ向かう。主治医の説明によると、夫は前日の手術後に脳がむくみ、脳幹が圧迫されたために、「開頭外滅圧術」を行ったという。頭蓋骨を外したままの状態にして、脳内の圧を逃がし、これ以上脳がむくまないように、約1カ月間ICUで、薬で眠らせた状態にして、脳を休ませることに。
また、夫は脳浮腫により、右後方に脳梗塞を起こしてしまったという。この場所は視野欠損が起こる場所なので、左目の視野が半分くらいになってしまう可能性が高く、失語症を発症する恐れもある。
白井さんは、ICUで眠る夫の身を案じ、祈るばかりだった。(以下、後編)
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ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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