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「君の似顔絵にキスをしながら…」"堅物"の山本五十六が戦地から送った"手紙の内容"

プレジデントオンライン / 2021年11月5日 9時15分

匿名のカメラマンによる1941年12月7日の真珠湾の写真。個人蔵(アメリカ)。 - 写真=culture-images/時事通信フォト

真珠湾攻撃やミッドウェー海戦などを指揮した山本五十六は、どんな恋愛をしていたのか。その一端をうかがわせる「歌」が残っている。歴史・文学研究科で作家の福田智弘さんが紹介する――。

※本稿は、福田智弘『人間愚痴大全』(小学館集英社プロダクション)の一部を再編集したものです。

■ハーバードから帰国後に出会った新橋の芸者「梅龍」

うつし絵に口づけしつつ幾たびか 千代子と呼びてきょうも暮しつ
([なかなか会えないから]君の似顔絵にキスをしながら、今日も何度も君の名を呼んで過ごしている)

山本五十六(軍人)

山本五十六(軍人)
『人間愚痴大全』より(イラスト=アライヨウコ)
山本五十六(やまもと・いそろく)
1884年-1943年。新潟県出身。父が56歳の時の子なので五十六と名付けられた。中学を卒業して海軍兵学校へ進み、日露戦争に従軍。のちに連合艦隊司令長官となり真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などを指揮した。死後、元帥に列せられる。

「大日本帝国軍人」などというと、お堅いイメージがつきまとうかもしれない。しかし、真面目な軍人さんであっても、もちろん恋はする。

「若いうちは誰だって恋をするものだ」

という人もいるかもしれない。いやいや、人は40歳になっても、50歳になっても恋をするものだ。「大日本帝国連合艦隊司令長官 山本五十六」も、そんな一人の人間だった。

長岡藩士の子として生まれた山本は、海軍兵学校を卒業後間もなく、日露戦争に従軍。日本海海戦において重傷を負う。その後、32歳で海軍大学校を卒業。その2年後、士族の娘と結婚している。しかし、残念ながら、今回の恋の相手は、奥さまではない。

結婚した翌年からアメリカに行き、ハーバード大学に学んだ山本は、帰国して海軍大佐から少将へと出世を遂げる頃、一人の女性と出会った。「梅龍(うめりゅう)」という名の新橋の芸者だった。

送別会か何かのお座敷で、二人は初めて顔を会わせた。山本はあまりその手の席が得意ではなかったのか、一人むっつりしていた時に、軍の局長から「山本は堅物だから何とかしてやれ」といわれた梅龍が、山本の相手をしているうちに互いの心は通じ合った。

■二人の仲は13年続き、山本は60通以上の手紙を書いた

やがて山本は源氏名「梅龍」ではなく、本名の「千代子」さんに「妹として付き合いたい」と語ったという。

そして、二人は男女の仲になった。「堅物」の山本は

「妹に手を付けて済まぬ」

と謝ったという。その時、山本46歳。国際軍縮会議などにも出席し、どんどん出世を果たしていく最中にあった。相手の千代子は山本より20歳若かったから、当時まだ26歳である。

その後、山本は海軍中将から連合艦隊司令長官、そして海軍大将へと出世の階段を昇りつめていく。その間、千代子との仲は続いた。同時にその間、時局は戦争へと向かっていく。

1941年12月8日。山本の、いや日本を含む世界の運命の日がやってきた。その日山本が指揮をとり真珠湾攻撃が行われた。太平洋戦争の勃発である。

その後、戦局はますます緊迫してくる。山本自身も出撃した。その合い間を縫って千代子に手紙を書いたり、直接会ったりもしていたようだ。手紙では当時、病だった千代子の体を心配してもいる。そんな手紙の中に添えた歌がある。

「うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてきょうも暮しつ」

(似顔絵に口づけしながら、何度か『千代子』と呼んで今日も過ごしています)

この歌の翌年、山本は戦死した。二人の仲は約13年続き、山本は激務の中、60通以上の手紙を書いたという。

■女学校の教師となり、教え子と恋に落ちた

このまま老い朽ちてしまいたくない

島崎藤村(小説家)

島崎藤村(小説家)
『人間愚痴大全』より(イラスト=アライヨウコ)
島崎藤村(しまざき・とうそん)
1872年-1943年。長野県西筑摩郡神坂村、現岐阜県中津川市馬籠生まれ。本名、春樹。明治学院を卒業後、明治女学校、東北学院などで教鞭をとる。抒情詩集『若菜集』などを発表後、小説『破戒』『新生』『夜明け前』などを著す。

「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思いけり(後略)」

この抒情的な詩「初恋」でも知られる島崎藤村。のちに小説を書き、『破戒』『夜明け前』などの傑作を残している。

藤村が、女性に胸をときめかしたのは、無論、初恋だけではなかった。多くの恋を経験しながら傑作を書き上げてきた人物である。

大学を卒業後、女学校の教師をした藤村は、そこで恋に落ちた。相手は教え子。しかも、彼女には許嫁がいた。まだ20歳の藤村は道ならぬ恋に迷ったのだ。

やがて、この恋は学校内に知れわたってしまう。悲しみぬいた藤村は、職を辞し、漂泊の旅に出た。

その2年後、藤村の愛した教え子は、許嫁と結婚する。しかし、それからわずか3カ月後、病で急逝した。彼女は死ぬまで藤村の写真を持っていたという。

一方の藤村は、漂泊の旅の途中でも女性と関係を持ったのだが、それについては触れないでおこう。

■子供たちに伝えた、五十路での再婚の理由

教え子の死から2年後、藤村は詩集『若菜集』を刊行。その後も27歳で嫁を娶り、34歳で『破戒』を書き小説家としての地位を確かにした彼だったが、4年後、新たな悲しみに襲われる。妻が4人の子を残し、早世してしまったのだ。

悲しみに暮れながら執筆を続けた藤村。幼い子の世話のために、姪が家事手伝いに来てくれていたのだが、今度は、その姪と関係を持ってしまう。

罪の意識にかられた藤村は、やがてフランスへと旅立つ。現地で第一次世界大戦にも遭遇し、帰国した時には、彼はもう40代半ばになっていた。

こうしてさまざまな愛の形を経験した藤村も、やがて五十路を過ぎる。文芸に関する情熱も再び動き出し、雑誌『処女地』を創刊する。

と、同時に別の情熱も動きだした。同誌の編集に関わっていた加藤静子という女性と恋に落ちたのである。彼女は、藤村より24歳も年下であった。

藤村52歳、静子28歳の春。藤村は彼女に手紙を送った。

「わたしたちのLifeを一つにするということに心から御賛成下さるでしょうか」

プロポーズの言葉だ。藤村は、五十路を過ぎて、なぜ再び結婚しようとしたのだろうか。その心情は、のちに子どもたちに送った手紙の中に現れていた。

「とうさんもこのまま老い朽ちてしまいたくないからです」

静子は、4年間悩んだ末に、プロポーズを受け入れ、晩年をともに過ごした。

数々の恋愛を経験した藤村。教え子との愛からは『春』、姪との愛からは『新生』などの小説が産み出されてもいる。

■数多くの恋愛を経験した画家として有名

私ほど有名で、金持ちの男から去るのか?

ピカソ(画家)

ピカソ(画家)
『人間愚痴大全』より(イラスト=アライヨウコ)
パブロ・ルイス・ピカソ
1881年-1973年。スペイン出身の画家。美術学校教師の父を持ち、幼い頃から画才を発揮する。キュビスムの創始者ともいわれる。代表作として『アビニョンの娘たち』『泣く女』『ゲルニカ』などが有名。彫刻や陶器なども制作した。

生涯に8万点以上の作品を描いたというピカソは、数多くの恋愛を経験した画家としても有名だ。

最初の恋人とされるのが、23歳の時に出会ったフェルナンド・オリヴィエ。当時のピカソは、友人の自死の衝撃により哀愁を帯びた青を基調とした絵を描いていた。いわゆる「青の時代」で、画家としては芽が出ず、貧しい暮らしをしていた。しかし、オリヴィエと出会ったことで、色調に変化が現れる。愛をテーマとした優雅な「バラ色の時代」のはじまりである。

彼女との同棲が続く中、画風は、ピカソの代名詞ともなる独特なキュビスムへと移り、画家としても成功を遂げる。しかし、彼女との生活は7年で終わった。破局の原因は、ピカソが彼女の友だちであるエヴァ・グエルと交際をはじめたからだといわれている。

ところが、エヴァは間もなく病死してしまう。三十路を迎えたピカソはやがて、ロシア・バレエ団のバレリーナ、オルガ・コクロヴァと知り合い、翌年に結婚。ピカソは37歳になっていた。

■見事にピカソをふった女「ジロー」

しかし、ピカソの恋愛遍歴が終わったわけではない。46歳の時に17歳の少女マリー・テレーズ・ワルテルと知り合い、恋に落ちる。モデルとして完璧な顔と体を持っていたという彼女は、やがてピカソの子を宿した。

その後、ヨーロッパでファシズムが台頭している頃、55歳のピカソは写真家ドラ・マールと出会った。彼女は名作『泣く女』のモデルとしても有名だ。

さらに第二次大戦中に、22歳の画家フランソワーズ・ジローと出会い、恋に落ちた。この時、ピカソは62歳、ジローは22歳。やがてジローとピカソの間には二人の子どもも生まれた。

つまり、ピカソは、30代でオルガと結婚した後も、40代でマリー・テレーズ、50代でドラ・マール、そして60代でジローと恋に落ちたわけである。そして、何よりも普通でないのは、この4人との関係が、70歳になっても並行して続いていた、ということである。

福田智弘『人間愚痴大全』(小学館集英社プロダクション)
福田智弘『人間愚痴大全』(小学館集英社プロダクション)

70代の男性との五角関係。その舞台から降りたのはジローであった。別れを切り出した彼女に、ピカソは

「私ほど有名で、金持ちの男から去るのか?」

と愚痴をこぼしたという。それでもジローの決心は変わらなかった。後にも先にも、これほど見事にピカソをふったのは、彼女だけだったといわれている。

たくさんの女性を愛し、モデルにし、創作意欲をかき立ててきたピカソ。ジローにふられても、彼の愛の遍歴は終わらなかった。

80歳の年には、30代の女性ジャクリーヌ・ロックと、二度目の結婚をしてもいるのだ。

(福田智弘)

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