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「本当はビール瓶で殴られていた」日本の司法解剖が相撲部屋の暴行死を見逃した根本原因

プレジデントオンライン / 2021年11月4日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gorodenkoff

大学病院などで行われている「司法解剖」は、きちんとやるには40万円ほどの費用がかかる。ところが警察などは12万円ほどしか支払われていない。国際ジャーナリストの山田敏弘さんは「大学が費用を泣き寝入りして負担しているケースもあり、これでは適切な死因究明はできない」という——。

※本稿は、山田敏弘『死体格差』(新潮社)の一部を再編集したものです。

■犠牲者からサリンを検出できなかった地下鉄サリン事件

千葉大学法医学教室の岩瀬博太郎には、日本の法医学に失望した忘れられない事件がある。1995年3月に発生した地下鉄サリン事件である。

事件の当日、東京の地下鉄の構内でオウム真理教によるテロ事件が起きた。猛毒ガスのサリンが電車内に散布され、乗客や地下鉄の職員など14人が犠牲になった。

遺体の一部は東大の法医学教室に運ばれた。当時助手だった岩瀬は、事件の翌日に東大の地下にある解剖室で、被害者の司法解剖を補助した。

その日の解剖室はそれまで経験したことがないような物々しい雰囲気だった。解剖室には科学捜査研究所(科捜研)の所長をはじめ、警視庁捜査一課の捜査官や検察官など総勢30人ほどが所狭しと集まり解剖に立ち会った。執刀医の岩瀬はすし詰め状態の解剖室で、立ち場所を確保するのにも苦労するくらいだったという。

この事件では、日本の法医学に対して愕然とすることがあった。遺体からサリンを検知する検査ができなかったことだ。そのための機材がなかったのである。それどころか、日頃から、青酸カリや覚せい剤を検知する検査すらできないことも分かった。

オウム真理教によるサリン事件は、世界のテロリズム史に残るような重要な事件であった。実際に、今でも化学兵器が人類に対して使われた例を取り上げる欧米の記事や文献にはサリン事件が紹介されることが多い。そんな人類にとって未曾有のテロ事件が起き、世界から注目されているにもかかわらず、日本でもっとも優秀な頭脳が集まる東京大学の医学部で、被害者からテロに使われた化学物質をきちんと検査できなかったのだ。

事件発生直後、現場の残留物からは科学捜査研究所がサリンを検出していたが、被害者の遺体からは確認できなかった。

結局、岩瀬の師匠でもある当時の東大法医学教室の高取教授が、サリン検出の研究に使用するという名目で得た文部科学省科学研究費(文部科研費)を申請し、それでようやく獲得したおよそ1000万円を利用して、ガスクロマトグラフィー(GC-MS)という薬物分析装置を購入し、サリンの検出を行った。岩瀬は分析を担当したが、それから1、2年ほどをかけて、サリンを遺体から検知するのに成功している。

岩瀬は言う。

「あの時、世界を揺るがすようなテロ事件が起きて、現場で化学物質が使われていたのに、なんで薬物検査のための機械を持っていないんだ、普段から薬物検査もできないしおかしいだろ、と思いましたね。この経験から、東大時代にはもっと近代的に死因究明をやっていかなければいけないと痛感していた」

検査の種類だけでなく、マスクなどの備品から始まり検査機器まで、死因を究明する態勢は日本ではまだまだ整っていない現実を日々感じていた。

岩瀬は、東京大学の法医学教室で10年近くを過ごし、2003年に地元である千葉県の千葉大学法医学教室の教授となった。教授としての選考に臨んだ際には、「これからは解剖という実務によって資金を獲得し、いろいろな検査を行える体制を整えなければいけないのです」と主張した。

■「警察手帳をかざしながら無銭飲食」

千葉大学の教授になった岩瀬は、法医学界の窮状を改善すべく働きかけを始めた。

当時、法医学者が抱えていた根本的問題はたくさんあったが、ここでは三つに絞って紹介したい。

一つ目は司法解剖の費用。司法解剖とは、警察が発見された異状死体に事件性があると判断した場合に、裁判所からの令状を取って大学の法医学教室に依頼する解剖のことだ。

司法解剖をきちんと行えば、千葉大学では薬毒物検査などを含め40万円くらいはかかるという。だが当時、司法解剖に必要な経費は一銭も大学に支払われていなかった。執刀した医師に「司法解剖謝金」という形で解剖一体につき7万円ほどが支払われていたが、あくまで謝金という扱いだったという。

岩瀬は以前に、そんな状況について、「警察手帳をかざしながら無銭飲食されているようだ」と表現していた。解剖室の管理や備品などの費用はすべて大学側が泣き寝入りして負担していたのである。

二つ目は、検視の体制だ。日本では、明確な病死以外の死は異状死と呼ばれるが、そうした異状死体の解剖方法には、事件性が考えられる場合の司法解剖、事件性はないと見られるが死因が不明な場合に行う調査法解剖(新法解剖)、または行政解剖がある。問題はその前段、事件性があるかないかを判断する検視を行うのは、医学的な専門知識のない各地の警察官ということだ。

さらに、検視に立ち会って死因を判定するのは法医学者ではなく警察医。それはほとんどの場合、開業医などのいわゆる一般の医者(臨床医)だ。警察官や一般医は、遺体外表の所見と死亡状況のみでほぼ判断しており、妥当な医学的検査がまったくといっていいほど行なわれていない。その弊害によって、日本では数多くの犯罪死を見逃してきた。

警察庁が2011年に公表した「犯罪死の見逃し防止に資する死因究明制度の在り方について」という資料によれば、1998年から11年までに発覚した死亡ケースで、犯罪を見逃した件数は43件にも上る。これはのちに発覚したケースのみであり、ある県の捜査関係者は「実際はもっと多いと考えていい」と筆者に語ったことがある。

■プロである法医学者に仕事の機会を与えなかった日本の死因究明制度

日本で近年、見逃し案件として象徴的な例とされているのが、2007年に発覚した時津風部屋の暴行事件である。17歳の新弟子だった力士が、巡業先の愛知県で稽古中に心肺停止になり、搬送先の病院で死亡した。医師は、その死因を急性心不全と診断したが、警察が心筋梗塞などのことを指す虚血性心疾患と書き換えていた。

その後、当時の時津風親方が新弟子の親に稽古中に死亡した旨を報告し、火葬すると伝えた。親がそれを断ると、火葬されることなくあざだらけの遺体が返されたという。それに驚いた親が、独自に新潟大学医学部法医学教室に解剖を依頼。結局、ビール瓶などで暴行されて死亡したことが明らかになり、時津風親方や兄弟子らが有罪判決を受けている。

割れた瓶を持っている手元
写真=iStock.com/Syntag
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Syntag

最近でも、京都府で発覚した、連続青酸殺人事件がある。

2013年、京都府内の自宅で死亡した男性(75)から司法解剖によって青酸化合物が検出され、夫を保険金目当てで殺害した容疑で翌14年に妻の筧千佐子が逮捕された。

筧は警察に対して罪を認め、それをきっかけに、過去に筧と婚姻や内縁関係にあった男性たちが多数不審死していることが判明した。不正に相続した遺産は合計10億円にものぼったという。

事件は京都から大阪府、兵庫県にまたがっており、筧は2007年から13年までの4人に対する殺人罪3件と強盗殺人未遂罪1件で死刑の判決が言い渡されている(最高裁判所は2021年6月の上告審判決で被告側の上告を棄却し、死刑が確定した)。

これら4件以外でも、筧と内縁関係にあった男性などが何人も不審死をとげており、筧も青酸化合物を飲ませたことを認めているケースもあった。だがそれらの事件では、きちんと死因究明されていなかったことなどもあって、殺害を裏付けることはできないままだった。また捜査段階で不審死が判明しても、死亡時に解剖をするなどしてきちんと死因究明を行なっていなかったために病死と結論づけられており、嫌疑不十分で起訴することはできなかった。最後の男性が死亡して司法解剖によって事件が発覚するまで、数々の犯行は見逃されてきたのだ。

近畿地方を拠点にしているある法医学者は、「筧の事件以降、大阪の警察は見逃し事件にかなり敏感になっています」と語っている。もちろん、そうあるべきである。

だが、これは日本の法医学者の能力の問題ではない。解剖したが見逃したという話ではないのだ。すべての原因は、死の真相を突き止めるプロである法医学者に仕事の機会を与えなかった日本の死因究明制度にあると言えるのではないだろうか。

筧千佐子の事件でも、それぞれの死亡者の死因が究明されていれば、もっと早く犯行を食い止められたかもしれない。この事件で殺害された人たちは、現行の制度の不備の犠牲者だとも言えるのだ。

■地域によって明確な差がある遺体の解剖率

法医学者が抱えている根本的な問題の三つ目が、地域格差だ。地域の大学などの状況によって、解剖率や解剖の質が変わってしまうことである。

解剖率だけを見ても、その差は歴然だ。すでに述べた通り、東京と広島では大きな差があるが、それ以外でも解剖率のばらつきは顕著になっている。たとえば2019年の九州だけを見ても、福岡県は7.7%、佐賀県は8.8%、長崎県は10.8%、熊本県は4.6%、大分県は3.3%、宮崎県は4.4%、鹿児島県は6.7%だ。その明確な差がわかってもらえるだろう。

千葉県では当時から、異状死体の解剖はほとんどを千葉大学の医師が1、2名で担当してきた。一方で、東京23区には監察医制度があるため、監察医務院に出入りする何人もの法医学者が解剖を行う。司法解剖も都内のいくつかの大学が担当できる体制がある。しかし地方に行けば、異状死体を解剖できる法医学者が1人しかいない地域もあり、どうしても解剖をせずに済ませるケースが出てくる。そうなれば、犯罪見逃しの可能性が生じてしまうのは言うまでもない。

こうした状況を変えるべく、岩瀬は警察や官僚などに話を持ちかけてきたが、なかなか取り合ってもらえない状況が続いた。

■実名告発で「無銭飲食」状態に改善の兆し

そんななか、岩瀬は千葉大学で教授になってしばらくして、民主党・細川律夫議員の政策担当秘書だった石原憲治と知り合った。石原は当時について、こう振り返る。

「岩瀬さんとは2004年に初めて会いまして、その時初めて、法医学界の実態を知ったのです。岩瀬さんから、国会でも状況を改善するために動いていただけないでしょうか、と。それが発端です」

この両者の出会いをきっかけに日本の法医学界は、少しずつ変わっていくことになる。ちょうどそのころ、岩瀬は、警察などと仕事をする日常業務へのリスクを覚悟で、週刊誌で法医学の実態を実名で告発した。記事が出ると警察からチクチクと言われたり、冷たい視線を感じたりもしたが、その勇気ある行動が問題の周知に役立ったことは確かだった。

石原も細川議員とともに、国に対して死因究明制度や法医解剖などについての質問主意書を提出するなど動き出した。そして民主党の法務部門会議の中に死因究明ワーキンググループを立ち上げた。

そのワーキンググループでは、当時の東京都監察医務院院長、法医学者、歯科法医学者、法中毒学者、法解剖でトラブルに巻き込まれた犯罪被害者などからヒアリングが行われた。その甲斐あって、2006年からはワーキンググループが「死因究明小委員会」に格上げされ、日本の法医制度を改革する「死因究明法案」の提出に向けて政治が動き始めたのだった。

こうした動きを受け、変化が出始めていた。国の司法解剖の予算に、1体につき2万円の薬毒物検査費が2005年から加算されるようになったり、翌年には司法解剖にかかわる検査経費が初めて予算化されたのである。警察による「無銭飲食」状態が改善を見せ始めたのだ。

そして2007年には、民主党が法案を提出。石原は、「野党案ということで、審議には至りませんでしたが、自民党や公明党などにも、この問題について知ってもらうきっかけにはなった」と話す。

岩瀬も当時、政治が動くことで状況が改善されていく状況に手応えを感じていた。法医学の窮状が変わるかもしれない、という期待を持ったのは言うまでもない。

この潮流は、日本の政界で与野党が逆転し、2009年に民主党政権が誕生することでさらに進展した。

2011年に岩瀬は内閣府の推進会議の委員として、新しい死因究明制度を作るべく議論を重ねた。そこから、2012年には「死因究明等の推進に関する法律」(死因究明等推進法)と、「警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査等に関する法律」(死因・身元調査法)が作られ、審議の末に成立した。

■解剖の呼び名と予算の流れが変わっただけの新法

しかし、である。

岩瀬はこの2法についてこう嘆く。

「委員として同意もしてないのに時間切れを理由に同意したことになって、あの2法ができたんです。最も大事な部分で、法医学側の意見は聞き入れてもらえなかった。びっくりですよ」

岩瀬や法医学会は、新しい法律を議論するにあたり、新しい解剖制度を作る以前に、死因究明を専門的に行う機関として死因究明医療センターという海外の法医学研究所にあたるものを設立すべきであると主張していた。

だが国は、それは難しいと判断し、新しい解剖制度は設けるが、専門機関については死因究明等推進法の中で、体制整備を「推進する」という言葉を盛り込むだけでお茶を濁した。死因究明等推進法は、死因究明の基本的な考え方を示すだけの理念法にとどまっている。

もう一つの死因・身元調査法は、制度を実際に変える実施法として翌2013年に施行されたが、法医学の現場を混乱させた。なぜなら、人員と設備の整備もせずにこれまでになかった新しい解剖制度、いわゆる、「調査法解剖」を新設したからだ。調査法解剖は、新法解剖とも呼ばれている。

改めておさらいすると、異状死体が発見されたとき、犯罪の可能性が高い、または犯罪の疑いがあるときには司法解剖が行われる。これには裁判所の令状が必要だが、遺族の承諾は必要ない。

犯罪性はないが、公衆衛生上必要な死因究明を目的とする場合は行政解剖が行われる。この解剖は、監察医制度のある地域では遺族の承諾なく実施できるが、監察医制度のない地域では遺族の承諾のもとに実施される。

ただ問題は、日本では解剖を歓迎しない文化が昔からあり、遺族の承諾を取れないケースが少なくないことだ。そうなると犯罪が埋もれてしまうケースも出てくる。そこで新たな解剖制度として、調査法解剖(新法解剖)が加わったのである。この解剖は、犯罪性はないが、主に死因究明や身元を明らかにするために行われるもので、警察署長の権限で遺族の承諾もなく行うことができる。

行政解剖は公衆衛生目的なので自治体が所管しているが、司法解剖と新法解剖は予算も含めて警察庁が担う。

だが、専門機関ができないままで新しい解剖制度ができても、呼び名と予算の流れが変わるだけに過ぎなかった。蓋を開けてみると、警察が担当する解剖が一つ増えただけだったのだという。

■40万円かかる司法解剖に12万円しかしはらわない警察庁

しかも、調査法解剖は、新たな弊害を生んでしまっている。

この法律を作るにあたり、当時、警察庁の金高雅仁・刑事局長が、神奈川県のある解剖医のところに視察に行った。

神奈川県は日本で他の追随を許さないほど極端に多くの解剖を行っている地域だからだ。神奈川県では1人の解剖医が信じられないほどの解剖数をこなしているのである。神奈川県のやり方は、法医解剖で本来必要とされる、写真や血液、臓器の保管を含めた証拠保全の面や客観性の面などから医学界では長く物議を醸している。

ところが、刑事局長は、そこで大量に実施されている解剖の手際にいたく感心したようだ。10万円程度で短時間に大量の解剖を請け負っているそのやり方を基準にして、調査法解剖を行うよう指示したという。

「死因・身元調査法が施行になってから、われわれ大学に警察庁が12万円ほどの安い値段で解剖(調査法解剖)を依頼してくるようになったんです」

そう岩瀬は言う。

すでに述べたとおり、きちんと司法解剖をするには40万円ほどは必要になる。

「どうしたら12万円で、適切な死因究明ができるのか」

山田敏弘『死体格差』(新潮社)
山田敏弘『死体格差』(新潮社)

これは千葉県だけではない。日本中、多くの県が同じように、12万円ほどでやっているのが現状だ。ちなみに、調査法解剖では、県によってはそれにいくらか値段を上積みしているところもある。例えば、岩瀬のいる千葉県では、千葉県警の努力によって、なんとか30万円になるよう足りない分を県が支払っているのが実態だ。それでも完全な司法解剖はできないのだが。

岩瀬の失望は大きい。

「せっかくできた法律です。当初はなにか期待感はあったが、もうほとんどなくなってしまいました。残念ですが」

2012年にできた理念法の死因究明等推進法は時限立法だったために、2014年に失効した。その後、政策秘書だった石原は、岩瀬のいる千葉大学に籍を置き、政治から死因究明制度を改善できるよう働きかけを続けている。

そして2019年には、死因究明等推進計画が閣議決定され、新たに「死因究明等推進基本法」が成立した。同法は2020年4月に施行。ただこれも理念法に過ぎず、何か実効性があるものではないとの評がもっぱらである。この先も状況の改善を期待できるような動きは、いまのところ、ない。

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山田 敏弘(やまだ・としひろ)
国際ジャーナリスト
1974年生まれ。米マサチューセッツ工科大(MIT)元フェロー。講談社、ロイター通信、ニューズウィーク日本版などに勤務後、MITを経てフリーに。雑誌、TV等で幅広く活躍。著書に『ゼロデイ 米中ロサイバー戦争が世界を破壊する』(文芸春秋)、『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)、『世界のスパイから喰いモノにされる日本 MI6、CIAの厳秘インテリジェンス』(講談社+α新書)など。

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(国際ジャーナリスト 山田 敏弘)

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