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「飛行機雲は"飛行機の通った跡"を示していない」なぜ人は知ってるつもりで答えるのか

プレジデントオンライン / 2021年11月3日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Lya_Cattel

毎日使っている硬貨や紙幣でも、そのデザインを正確に描ける人はなかなかいない。なぜなのか。教育心理学者の西林克彦さんは「スムーズに日常生活を送るため、われわれの知識は『知ってるつもり』になりやすい」という——。

※本稿は、西林克彦『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■「飛行機雲は航跡を示している」と多くの人が思っているが…

「知ってるつもり」。これがわれわれの持ってる知識の大部分のありようです。職業としてその領域に関係しているとか、深く興味を抱いているといったことがない限り、多くの知識は「知ってるつもり」の状態にあります。

こころみに小さな例を挙げてみましょう。「飛行機雲」とよばれるものがあります。エンジンの排気中に水ができ、それが上空の冷たい空気で凝結し飛行機の後ろに雲状になるというのは、聞いたことがあると思います。少なくとも、それに近いことは聞いたことがあるでしょう。しかし、ここで問題にしたいのは、飛行機雲の生成過程ではありません。もっと簡単なことです。

飛行機雲は飛んでいる飛行機の「飛行してきた跡だ」と言われたらどうでしょう。多くの人がうなずくだろうと思います。飛行機雲は、その飛行機が飛行してきた航跡を示しているのだと思っているでしょう。私も別に深くも考えもせず、そうだと思ってきました。

その日は上空の風が強かったのでしょう。飛行機雲がみるみるうちに押し流されていくのがわかる状態でした。飛行機は北から南に飛んでおり、飛行機雲は強い西風で東の方向に流されていました。飛行機雲は目に見えてどんどん流されているのですから、飛行機は、いま見えている飛行機雲の線をたどって飛行してきたはずがないと、気づいてしまいました。飛行機が実際に飛んできたコース(点線)と飛行機雲の関係は【図表1】のようになっているはずです。

飛行機雲と実際の飛行経路
出典=『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』

飛行機雲に沿って飛行していたと思い込んでいましたが、そうではなく点線に沿って飛行してきたとすると、機首はどこを向いているのだろうかと気になってきました。最初は、機首は点線の方向を向いているのだと単純に考えました。しかし、あんなに強い横風が吹いているのだから、点線方向に機首を向けて飛べば、風で東の方向に流されてしまい、点線通りには飛行できません。西からの横風に少し向かう感じで飛行しなければ、点線のようには飛行できません。

■機首は進行方向を向いているとは限らない

【図表2】に飛行機の機首の向きと、横風と、飛行機の実際に飛行する方向とを図示しました。飛行機は機首方向の推進力と横風の合成方向に飛行するのです。そうか、飛行機は必ずしも機首の向いている方向に飛んでいるわけではないのだなと、当たり前のことなのですが、初めてその時実感しました。そして、【図表2】を見ればわかると思いますが、面白いことに飛行機の機首は飛行機雲の延長方向を向いているのです。

横風を受けている時の機首の向きと飛行方向の図表
出典=『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』

【図表2】のように考えて、空中を飛んでいる時のことは了解できました。ところが、飛行場に着陸する時にはどうなっているのだろうかと気になってきました。滑走路の延長方向からまっすぐ進入してきているはずなのですが、この時横風が吹いていれば、【図表3】のように、飛行機の機首は滑走路と少し違った風上の方向を向いているはずです。

横風を受けている時の飛行機の着陸
出典=『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』

この少し斜めになった状態で滑走路の延長上から降りてくることになります。ここまでは理解したのですが、飛行機は滑走路に斜めになっているわけですから、着陸した後、変な方向に滑走することになりはしないのかと気になってきました。

どうしても気になったものですから、横風着陸の時どうやっているのかを航空関係の人に聞きました。答えはあっさりしたもので、「降りる直前に機首を滑走路の方向に直す」のだそうです。「うまいものですよ」という話でした。離着陸の際、地上をテレビ画面で見せる飛行機が時折あり、直前まで少しずれていた滑走路のセンターラインが、着陸と同時にぴたっと真ん中に来るのを何回か経験し、なるほどいろいろ細かい技術で成り立っているものだと感心した憶えがあります。

■人は「知ってるつもり」になりやすい

われわれの知識は、ほとんどが「知ってるつもり」です。認知心理学や認知科学の領域で硬貨や紙幣のデザインを描いてもらうといった課題があります。日常よく目にし、使い慣れたものなのですが、特別に興味のある人は別にして、驚くほど不正確ですし、そもそも気にもしていないのが普通です。

また、ミシンを使っていろいろな作品を作れるからといって、その人がミシンの基本的な構造を理解していることはまずありません。上糸の針は上下しているだけですから、何かの工夫がなければ上糸は布から抜けてしまうはずです。ミシンには、普通の縫い物には存在しない下糸があります。布の下まで持っていかれた上糸は、針が戻っても布の下でカムに引っ掛けられてループを作っています。この上糸のループにボビンをくぐらせ下糸を通しているのです。この下糸のおかげで上糸は抜けないのです。ミシンはこんな複雑な仕組みになっているのです。

■なぜよくわかっていないことを「知ってるつもり」になるのか

われわれの頭の中にある「地図」も相当いい加減です。以前勤めていた大学で研究室から食堂までの略図を大学生によく描いてもらったのですが、かなり斜めに交わっている道路は直角になりますし、食堂とその交差場所との間にあるゆがんだ五角形の噴水池も、道路の直角に合わせて、きれいな長方形に描かれるのが常でした。そして、交差が直角でなく池が五角形であることを知るとビックリするのでした。

このようにわれわれの知り方は相当にいい加減です。いい加減なのですが、われわれはそれらのことを「知ってるつもり」でいます。

よくわかっていないにもかかわらず、なぜこのように「知ってるつもり」でいるのでしょうか。それに対する答えは比較的簡単かと思います。われわれの日常が問題の連続で、われわれはその解決を志向しているからなのです。

問題とか解決というと大げさに聞こえますが、日常の行動は問題解決の連続です。どこかで何時かに待ち合わせの約束をすれば、交通機関は何を使うか、所要時間を見積もって何時に家を出なければならないかといった問題を解決しなければなりません。食堂へ行きたいと思えば経路を選択しなければなりません。そして、昼食に何を食べるかも財布や体調と相談しながら決定しなければなりません。ミシンで作品を作製するとなれば、それに合わせた布や、各種の色の糸を用意しなければならないでしょうし、カットのための型紙を用意しなければならないかもしれません。

スマートフォンを操作している人
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

■スムーズな「問題解決」のために知識は問い直されることなく使われる

このような行動のすべてが問題解決です。次々と問題を解決しながら生活をしているわけですから、それがスムーズに行われるためには、解決の過程で使われる知識をいちいち点検するということにはなりにくいでしょう。知識の点検をしていれば、スムーズな流れにはなりません。

問題解決に使える知識は、解決の道具として使えればいいのであって、特段の問題を生じることがなければ、深く考えることなく、そういうものとして使うのが一般的なのです。

硬貨や紙幣はその金額が大事なのですから、他の硬貨や紙幣と区別でき額面が確認できればいいのであって、その細かいつくりやデザインまで気にすることは通常の生活の中ではまずありません。

ミシンを使うのにその縫うメカニズムはまず考慮されないでしょう。布をカットするのに構造や工夫を気にすることなくハサミを使うでしょう。右利き用の「通常のハサミ」を左手で使うとうまくカットできませんが、なぜそうなのか気にすることなく使っています。頭の中の地図が相当にいい加減でも、日常生活の中で取り立てて問題になるほど違っていなければいいのです。交差点は直角と意識されやすいですし、緩やかなカーブは無視されるのが普通です。目的地にたどり着ける程度のラフさで十分なのです。

われわれは日常生活で問題を次々とスムーズに解決したいわけで、その志向の中で知識は問題を起こさない限り、問い直されることなく使われます。「知ってるつもり」になりやすいのはこういう理由からなのです。

■かかる時間や手間が少ないほど問題の解決・処理はスムーズになる

問題解決の過程において、その中で用いられる知識をいちいち問い直すことをしない、精査しないというのは、ある意味で合目的的な態度であると言ってもいいかもしれません。

【図表4】に示すのは、認知心理学の建設を担った重要なひとり、ナイサーの挙げる面白い例です。文字の識別という知覚レベルの話ではありますが、簡単に見てみましょう。

異なる背景文字列での文字Zの探索の図表
出典=Neisser, 1967

(a)と(b)の2つの文字列があります。それぞれの文字列の中で「Z」を探してみて下さい。

(a)の方が断然楽に早く見つけられたと思います。1行の文字数は同じ6文字です。(a)と(b)では何が違うのでしょう。(a)に含まれる文字はターゲットの「Z」以外はすべて、文字の一部に曲線を含んでいます。それに対して(b)では直線ばかりでできている文字が背景に並んでいるのです。

「Z」は直線だけでできあがっている文字です。ですから、背景のある文字について調べている時に、その文字の一部にでも曲線が見つかれば、それはターゲットの「Z」ではないことになります。(a)では曲線が見つかった段階で、その文字をそれ以上探索する必要はなくなり、次の文字のチェックに進むことができます。背景の文字の探索を早く切り上げられるのです。

しかし、(b)では背景の文字に曲線部分がないのですから、曲線確認の段階で打ち切るというわけにはいきません。もっと探索を進めて、直線ばかりでできあがっているけれど、「Z」とは異なるというところまで確認しなくてはならないのです。(b)の場合には背景の文字が「Z」ではないと探索を切り上げるまでに、(a)に較べて時間がかかるのです。

当たり前ですが、解決の各過程を処理するのに時間や手間がかからなければ、問題の解決・処理はスムーズに行うことができます。これがこの簡単な実験から引き出せるひとつの意味です。

■知識の細かい確認や探索は行わないのが普通の状態

日常生活でも同じことです。金銭のやりとりの際、硬貨や紙幣は他の硬貨や紙幣と区別がつきさえすればいいのです。区別がつく程度にしか注意を払われないと言っていいでしょう。支払いをするのに、金額さえ合わせられればいいのであって、細かいところまで注意する必要はまったくありません。デザインや絵柄にさして注意を払っていないのはそのためです。目的場所に向かうのに地下鉄を使ってもその駆動方式がいかなるものか、その領域に特に趣味があれば別ですが、通常は気にもしません。単なる移動手段だと見なされていますし、通常はそれで問題はないのです。

問題解決への志向が強ければ、解決に要する要素過程のチェックに手間暇を掛けない、精査しないというのは合目的的な態度だといえましょう。われわれは日常の絶えざる問題解決の中で知識を用いていますが、その知識の細かい確認や探索は行わないのが、どちらかと言えば常態なのだと言えるでしょう。したがって、各種テレビ番組で蘊蓄(うんちく)ものが流行ったり、考えたこともないことを聞かれて答えに窮(きゅう)し「チコちゃんに叱られる」のが人気であったりするわけです。

われわれの知識は、それで間に合っているのであれば問題にはなりません。したがって、「知ってるつもり」であることが圧倒的に多いのです。

■誰しも社会のどこかの部分で何かに特化している

われわれの知識は「知ってるつもり」であることが圧倒的に多く、日常の多くはそれで間に合っているというのは紛れもない事実です。

では、われわれの知識はすべて「知ってるつもり」のレベルで構わないかというと、それはまったく違います。われわれは、ミシンやハサミの専門家、貨幣や紙幣に関わる技術者、各種交通機関の維持運営に関わる専門的な従事者、などなどの「専門的な知識」を持つ人たちのおかげがあって、「知ってるつもり」程度の知識で日常を円滑に送ることができているのです。ですから、社会が「知ってるつもり」程度の知識で動いているわけではありません。むしろまったく逆です。

また、われわれ自身も社会運営のどこかのセクションで何かに特化して労働したり活動したりしています。そのセクションで必要とされる知識のレベルは、日常生活での「知ってるつもり」などというレベルではないはずです。

■教育の場で教えられる知識も「知ってるつもり」になりやすい

われわれの日常的な活動は大まかなところ「知ってるつもり」の知識で間に合っていますし、また間に合わせているわけです。しかし、その知識ではどうも具合が悪そうだとなれば、日常生活においても当該知識の点検をしなければならなくなるでしょう。

西林克彦『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』(光文社新書)
西林克彦『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』(光文社新書)

また専門的に活動している領域で、新たな開発や隘路(あいろ)の克服に従事しなければならないかもしれません。そうなれば、必要に応じて常識レベルや専門領域での「知ってるつもり」を乗り越えなければなりません。

しかし、「知ってるつもり」から前に進むことは、簡単ではありません。自分の知識が不十分であっても、疑問を持っていないのですから最初のステップが踏み出せないのが普通です。

それに、世の中には「知ってるつもり」の知識が横行しています。白熱した議論や、探索の話し合いでお互いに相手や自分の考えをハッキリ確認している場ならともかく、普段やりとりする情報・知識の類いはまず「知ってるつもり」のものが大部分といってよいでしょう。

そして、残念なことに教育の場でも、そこで教えられている知識は、他との関連が薄く発展性のない「知ってるつもり」になりやすいものであることが圧倒的に多いのです。

教育界で、この頃とみに学習の浅い深いが問題になっています。知識は獲得するのですが、応用や活用において十分ではないと意識されるようになっています。知識の活用や自主的な活動や集団での討議といったことが従来からも強調されてきたのですが、どうも学びの質が不十分ではないかと意識されるようになりました。教育で得た知識で学習者が「知ってるつもり」になるようであれば、伸びていく学習者を育てているとはとても言えないでしょう。

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西林 克彦(にしばやし・かつひこ)
教育心理学者
1944年生まれ。東京工業大学理工学部卒業。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退、同助手。76年宮城教育大学教育学部講師。助教授、教授を経て2010年に退職し同大名誉教授。18年まで東北福祉大学教授。著書に『間違いだらけの学習論』『「わかる」のしくみ』(以上、新曜社)、『あなたの勉強法はどこがいけないのか? 』 (ちくまプリマー新書)などがある。05年刊の『わかったつもり』(光文社新書)は15万部のロングセラーに。

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(教育心理学者 西林 克彦)

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