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「五輪でしかマイナー競技を報じない」スポーツファンをしらけさせるマスコミの過激な勝利至上主義

プレジデントオンライン / 2021年11月9日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/alphaspirit

東京オリンピック・パラリンピックでは、さまざまなマイナースポーツに脚光が当たった。しかし、大会後の報道はピタッと止まってしまった。神戸親和女子大学の平尾剛教授は「日本のスポーツ報道はメダルや勝利に固執している。それはスポーツをつまらなくするばかりか、過度な勝利至上主義を視聴者に植えつける恐れがある」という――。

■大谷翔平の活躍とオリンピックの報道の違い

球団公式サイトには身長6.4フィート、体重210ポンドとある。約195cm、約95kgだ。いや、あの体格はどう見ても95kgではない。おそらくこれは入団したころの体重で、いまは100kgを優に超えているように見える。国際規格のラグビー選手にも比肩するそのからだは、手脚が長く、顔も小さい。まるで映画や漫画の世界で描かれるヒーローのようなフォルムである。

誰のことかはすでにお察しだろう。そう、エンゼルスの大谷翔平選手である。

まるでフィクションの世界から抜け出てきたかのような大谷選手は、打者と投手の「二刀流」に挑んでいる。次々とホームランを量産し、160km/時を超えるストレートを投げ込む。それだけでも驚きなのに俊足で盗塁までするのだから、規格外にもほどがある。

この夏、出勤途中の車のなかで大谷選手の活躍をよく見聞きした。信号待ちで停車するや否やテレビ画面を見ると、ホームランを打つ瞬間のフォームに釘付けになった。複雑な軌跡を描く変化球をいとも簡単に打ち返す。その打球はまるでピンポン球のように軽々とスタンドまで飛んでゆく。常人離れした巨躯が気持ちよさそうにバットを振る姿が爽快で、そのしなやかな動きにはつい目が奪われてしまう。

ご存じの通り、今夏は東京オリンピック・パラリンピックが開催されていた。7月23日に開催したとたんに各メディアではオリンピック関連の話題で持ちきりとなった。ニュース番組内のスポーツコーナー、あるいはバラエティ番組内でも取り上げられ、開催期間中のメディアジャックはすさまじいものがあった。

日本人選手の活躍に歓喜するキャスターの、いささか感情的に過ぎる声色がとかく耳についた。番組内で紹介される試合の一部を切り取った映像からは、歓喜を隠そうともしない実況の甲高い声が耳に障り、勝利が決まった瞬間の絶叫には、思わず耳を塞ぎたくなった。

実況の役割は試合の進行を伝えることで、その成り行きを努めて冷静に語るのが常だったはずだ。にもかかわらずこれほどの身贔屓と、それにともなう感情の表出が露わになったのはいつからなのだろう。

オリンピック関連の報道は実にやかましかった。大谷選手の活躍を伝えるニュースと比べればそれは顕著で、オリンピック反対論者として心穏やかに観られないというバイアスを差し引いたとしても、このやかましさは度を越している。

この違いはどこにあるのか。それは表出される「感情の違い」にある。

■勝敗にクローズアップせざるを得ないオリンピック報道

確かに大谷選手の活躍を伝えるニュースも情緒的である。ホームランを打った瞬間に実況は叫び、キャスターの息遣いは弾む。

エンゼルスタジアム正面玄関
写真=iStock.com/USA-TARO
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/USA-TARO

一見したところ、オリンピック報道のそれと変わりはない。なのになぜやかましく感じないのか。

それは、それにともなう感情の質が違うからである。勝敗という結果を中心としたオリンピック報道と、そこに至るプロセスで発揮されるパフォーマンスに焦点化した報道では、表出される感情のトーンが明らかに異なる。

ここには開催期間が17日間のオリンピックと、数カ月にわたって試合が続くメジャーリーグの違いがある。

ほぼ毎日、各競技でメダリストが誕生するオリンピックに対し、メジャーリーグではその日の試合結果と個人記録を淡々と伝えるだけでよい。ホームラン王になるかもしれない、あるいはベーブ・ルース以来の「2桁勝利、2桁ホームラン」を達成するかもしれない期待を抱きつつ、記録達成への歓喜はのちに訪れるリーグ終焉まで先送りにされる。まだ終わっていないというタメがきくので、おのずと感情の表出には節度が保たれる。

だが日ごとに勝者が量産されるオリンピック報道ではどうしても勝敗という結果をクローズアップせざるを得ない。試合が終われば勝者には祝福を、敗者にはねぎらいを伝えたくなるのは人の性である。だからここぞとばかりに感情が溢れ出す。

■「勝者への礼賛」には食傷気味

当の選手たちもまた、戦い終えたことへの安堵感と高揚感が込み上げる。勝者なら達成感を爆発させ、敗者なら底知れぬ悔しさがその胸に渦巻く。感極まるその姿に多くのスポーツファンは心を揺さぶられるわけで、私もまたその一人である。

ただ、あまりにこういうシーンばかりを繰り返されると私はなぜだか辟易としてくる。慌てて言葉を継ぐが、選手を否定するわけではない。満面の笑みや頬を伝う涙には感動するし、勝敗をめぐる一喜一憂もまたスポーツの醍醐味ではある。でも、どうしても違和感が拭えない。他者の感情の起伏に長らく晒されたときの疲弊感が湧き、ついそこから逃れたくなる衝動に駆られるのだ。とくに「勝者への礼讃」には食傷してしまう。

大谷選手の報道からこの「疲弊感」を覚えることはなかった。結果が出るのはまだ先で、いまは道半ばであるという「経過観察」にすぎないことからくる感情の自制が働いているからだろう。勝利に先立って、淡々と自らのパフォーマンスに集中するその姿が私の目には実に清々しく映った。

■メディアが無意識的に拡散するイデオロギー

無観客開催とされた今夏の東京オリンピックは、ほぼすべての人たちがメディアを通じて観戦することとなった。たとえ観客を入れて開催されていたとしても、入場チケットを持たない大半の人たちはテレビや新聞、雑誌やインターネットなどのメディアを通して観戦しただろう。

日本国旗と金メダル
写真=iStock.com/atakan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/atakan

メディアとスポーツはいまや切っても切り離せない。試合会場に足を運ばずとも自宅や移動中の電車内など好きな場所で、あるいは録画された映像を好きな時間帯に観戦できるのは、メディアを通じるからである。メディアを抜きにしたスポーツ観戦は、いまやもう考えられない。

メディアとスポーツが手を組んだ「メディアスポーツ」がもたらす影響について、ジャーナリストの森田浩之氏は次のように指摘している。

『メディアスポーツにはパワーがある。権力と呼んでもいい。ここでいう権力とは、マードックのような人物が多くのメディアを支配し、力を振るっているということではない。まして、メディアが政治的なイデオロギーによって勝手な視点で報道したり、情報を操作しているという話でもない。ここでいうメディアスポーツの権力は、それよりはるかに複雑で、ある意味ではるかに手ごわい。それは送り手がイデオロギー・価値観を私たちに語っていることを意識していないためであり、その権力が見えにくいものであるためだ』

前稿で述べた「スポーツ・ウォッシング」をはじめとする内容は、ここでいう「政治的なイデオロギーによって勝手な視点で報道したり、情報を操作しているという話」に当たる。つまり意図的に行使される権力のことである。

だが森田氏はそれよりもさらに複雑で、はるかに手ごわい「見えない権力」に警鐘を鳴らしている。送り手としてのメディアが無意識的に拡散するイデオロギーや価値観こそ、警戒しなければならないというのである。

■決勝進出を「メダル確定」と言い換える報道に違和感

一口にメディアスポーツといってもさまざまな報じ方がある。

たとえばニュース番組のスポーツコーナーでは、放送時間が限られているため試合経過を詳細に伝えることができず、どうしても勝敗にスポットライトを当てざるを得ない。誰が、どのチームが勝ったのか、それを端的に伝えるのがスポーツニュースなのだから、構造的にそうなるのは致し方ない。スポーツ新聞などもまたそうである。

ただ、先にも述べたように、勝敗をめぐる端的な報道に繰り返し触れていると、いささか飽きてくる。自国中心的でいささか感情的な語り口の実況や解説に加え、国別に獲得したメダル数を表にして示す、あるいは決勝進出を「メダル確定」と言い換える報道、また限られた紙面での情緒的な言葉の羅列に、私はどうしても違和感を覚える。

■勝敗を競う中で偶発的に生まれたストーリー

もちろん勝敗以外にスポットライトを当てた報道もあるにはある。

たとえば東京オリンピックだと、陸上男子走り高跳びの決勝でムタズエサ・ダルシム選手(カタール)とジャンマルコ・タンベリ選手(イタリア)が金メダルを分け合ったと報じられた。両選手は決着するまで競技を続ける、いわば延長戦の「ジャンプオフ」を断り、大会側と協議してメダルを分け合うことにした。陸上競技の選手が金メダルを分け合ったのは、1912年のストックホルム大会以来109年ぶりだという。

また新種目のスケートボードのパーク女子決勝では、着地に失敗して涙を見せる岡本碧優(みすぐ)選手に、ライバル選手たちが素早く駆け寄り、抱擁した。担ぎ上げられた岡本選手の写真がSNSを中心に話題になったから知っている人も多いはずだ。

さらに男子マラソンでは、ゴール直前にナゲーエ選手(イタリア)が後ろを走るアブディ選手(ベルギー)を何度も振り返り、「ついて来い」と励ましのジェスチャーを繰り返した。ともにソマリア難民のふたりは互いに鼓舞しながらそのままゴールし、それぞれ銀メダルと銅メダルを獲得した。

これらは勝敗を競い合うなかで偶発的にでくわした場面にスポットライトを当てた報道だ。各選手は、メダルを競い合うライバルにもかかわらず相手を慮った行動に出た。叩きのめさないといけない相手につい感情移入してしまった彼らの心には、ともに勝利を目指す者同士としての「共感」が芽生えたのだ。

■悔しさと感心が芽生えた宿敵との対戦

敵対するものへの共感という、曰く表現し難いこの不思議な感情は私にも経験がある。

現役時代のある時期、全国優勝を目指すうえでサントリーサンゴリアスはどうしても勝たなければならない憎き相手だった。練習でも、常に彼らを敵と見立てて取り組んでいた。引退してからしばらくたってもそのジャージを見るだけで闘争心が湧くほどに、この敵視は身に沁み込んでいた。

これほど激しく敵対していたにもかかわらず、いざ試合が始まると違った。いまだから言えることだが、目の前で繰り広げられる卓越したプレーにはたとえ試合中であってもつい拍手を送りたくなるのだ。

トライを奪われたとき、腹の底から悔しさが湧き上がるのと同時に、それに至る一連のプレーに感心している自分がいた。相手を感嘆する気持ちは心にスキを生む。だから慌てて打ち消して、その後のプレーに備えるわけだが、二律背反するこの感情はいまでもはっきり憶えている。

■勝敗をめぐる一時的な熱狂を作り出すだけのメディア

敵対する相手に親和的な感情が湧くのは、フェアネスを貫き、互いに必死になって勝利を追求するプロセスでしか生まれない。複雑な心中を抱えながら競争に全力を傾けるなかで選手は充実感を覚え、それが観る者の心を揺さぶる。

二人のスイマーが握手
写真=iStock.com/Robert Daly
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Robert Daly

私はここにスポーツの本質があると考えている。いまはここをクローズアップする報道が少なく、速報性を優先し、勝敗ばかりを追う報道に終始している。冒頭で述べた、私が感じる「やかましさ」の原因はここにある。

スポーツ界からすれば、その発展の契機となるオリンピックはなくてはならないだろう。とくにマイナースポーツにとっては、その認知度を高め強化費を確保するためには必要不可欠である。オリンピックがなければ注目を集められないマイナースポーツの持つ現実は無視できない。

だが、いざオリンピックが終わればほとんど報じられなくなる。開催期間は競争を煽るような報道で世間の耳目を集めながら、閉幕後はまるで興味を失ったかのように報じない。

勝敗をめぐる一時的な熱狂を作り出すだけでは、競技人口の増加などの裾野を広げる継続的な発展は望めない。一部の選手たちを持ち上げ、その勝敗を中心とした報道に終始するだけではバランスを欠くのだ。

先に述べたマラソンやスケートボードのようなストーリーをもっと報じなければ、スポーツ自体がつまらないコンテンツになり下がるのは火を見るより明らかである。

■安売りされる感動はもういらない

いまのメディアスポーツは、勝敗の行方を軸とした報道によってスポーツの本質を覆い隠し、「勝利至上主義」という価値観を無意識的に拡散しているように思える。森田氏が「見えない権力」と呼ぶこの刷り込みに、私もまた警鐘を鳴らしたい。なぜなら、ことさら勝者を礼賛するムードは、競争主義を助長する「勝利至上主義」を社会に波及させる恐れがあるからだ。

勝敗をクローズアップした報道に終始するメディアスポーツは、ともすれば強者と弱者の分断を肯定する思考様式を強化する。これは競争を是とする新自由主義を加速させかねない。報道する側にその自覚がないだけに恐ろしく、だからそれを受け取る側の私たちは十分に警戒しておく必要がある。弱肉強食の論理である「勝利至上主義」に染まらないよう、静かに抵抗し続けるべきだろう。

競争とはあくまでも方便であり、競い合いを通じて互いに切磋琢磨することが本来の目的である。ともすれば分断を生じさせる競争は、だから丁寧に扱わなければならない。

どうしても競争を免れないのがスポーツではあるが、実のところその本質は、勝利を目指すプロセスにおいて偶発的に出来する敵味方の区別を超えた「共感」やパフォーマンスそのものにある。これらを毀損しないために、メディアスポーツの特性を十分に理解した上でスポーツを楽しむ視点が、いま、求められている。これ以上スポーツが矮小化されるのを、私は黙って見過ごすことができない。

安売りされる感動は、もういらない。

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平尾 剛(ひらお・つよし)
神戸親和女子大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。

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(神戸親和女子大教授 平尾 剛)

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