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「出女だけでなく"入り女"もダメ」江戸時代の関所が女性には異様に厳しかった本当の理由

プレジデントオンライン / 2021年11月11日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RichLegg

江戸時代、日本各地には「関所」があった。関所には、江戸にいる大名の妻子や母が逃亡するのを防ぐという機能があったが、実はそうした「出女」だけでなく、江戸に向かう「入り女」も厳しく調べられていた。歴史作家の河合敦さんは「そこには幕府の意外な思惑があった」という――。

※本稿は、河合敦『関所で読みとく日本史』(KAWADE夢新書)の一部を再編集したものです。

■男性に「関所手形」は必須ではなかった

江戸時代、関所に入った旅人たちは、どのように通過していったのだろうか。女性は特殊なので、まずは男性の場合について述べていこう。

関所内はけっこう混雑していて、入ってからもしばらく待たされることが多かった。いよいよ、呼び出しを受けると、取り調べの場である面番所の前へ向かう。

関所の役人たちが縁側奥の部屋にずらりと並んでいるのがはっきり見えてくると、笠や被りものを脱ぎ、手前で下座する。

さて、関所を通過するときには「関所手形」を見せる必要があると思っている方も少なくないと思うが、実は、男性には関所手形(証文、切手とも)は必須ではなかった。

とはいえ、江戸時代の人々が旅行や出張する場合、「往来手形」のほうは原則必要だった。

■必ず持っている必要があった「往来手形」

そう、関所手形と往来手形は違うものなのである。

往来手形のほうは、いまで言う免許証や保険証、パスポートなど、いわゆる身分証明書にあたるものといえる。往来手形には、名前と住所と年齢、檀那寺、旅行の目的、「横死した場合、どこに連絡し、どんな葬り方をするか」といったことが記載されていた。

往来手形の発行元は、農民や町人の場合、村の名主(庄屋)や町の家主、檀那寺、あるいは奉公先や勤め先の主だった。藩士は、藩庁から発行してもらった。

往来手形は身分証であるとともに、旅の途中に万一のことが起こったとき、保護を受けるためのものであったのだ。

いずれにせよ、関所手形と往来手形は別物なのである。

■幕府が暗に関所近くの旅籠屋に特権を付与

この関所手形について、研究者の渡辺和敏氏は次のような指摘している。

男性は「制度的には関所手形は不要であった。しかし通過する際に関所役人から厳しく取り調べられることもあるので、居住地の名主や旦那寺、時には関所近くの旅籠屋などで関所手形を書いてもらったり、自分で書いたりすることもあった」(『東海道交通施設と幕藩制社会』愛知大学綜合郷土研究所)。

なんと、関所手形を関所近くの旅籠屋に作成してもらったり、時には自分で勝手に書いたりしたというのだ。

とくに、関所近くの旅籠屋や茶屋が関所手形を発行していたことに関して、渡辺氏は、

「関所では男性の通行に関所手形が不要であるが、関所近在の旅籠屋などが故意に誤った情報を流して旅行者から金銭を集めていたのかも知れないし、実際に購入した関所手形を見せることにより関所の取調べが簡単に済んだ可能性がある」(前掲書)と記している。

これもすごい話である。とらえかたによっては、関所の役人が近隣住民と結託しておこなった詐欺まがいの商法ではないか。

これについて渡辺氏は、「関所側がすでに慣例化しつつあった近在の人々による旅人への関所破りの斡旋を止めさせるため、暗に関所手形の販売という特権を付与していた可能性も否定しきれない」(前掲書)と推測している。

■女性には「女手形」が必要だった

いっぽう女性が関所を通過する場合は、そう簡単ではなかった。江戸方面から関所を通って西へ向かう女性のことを「出女」と呼ぶが、江戸幕府は出女を非常に厳しく臨検した。謀反をたくらむ大名の妻子などが密かに逃亡してくる可能性があるからだ。

そのため女性の場合は、往来手形のほか、関所手形が必要だった。この女性の関所手形を「女手形」と呼ぶ。

女手形は、江戸時代の元和期(1615~24年)にはすでに存在していたことがわかっている。

■日本最古の「女手形」に書かれていたこと

渡辺和敏氏によれば、元和元(1615)年9月のものが最古だとする。以下、それを紹介しよう。

女六人、厩橋より三州迄参候、是ハ西尾丹波御理候間、無相違可通候、以上。

彦九兵衛 印(『東海道交通施設と幕藩制社会』)

この女手形は、六人の女性が上野国厩橋から三河国へ向かう際、幕府の代官である彦坂九兵衛光正が、新居関所に対して発行した女手形である。渡辺氏は、上野国群馬郡に知行地を持っていた西尾丹波守忠永が、自らの出生地である三河国西尾に女たちを赴かせるため、幕府に依頼したのではないかと推察している。

ただ、この時期にはまだ女手形の形式がしっかり定まっていない。のちに女手形には、通過する人数、乗物の有無、出発地と目的地に加え、「禅尼・尼・比丘尼・小女・髪切の区別を明記しなければならな」(『館蔵図録Ⅰ 関所手形』新居関所史料館)いということになった。

といっても、いま述べた女性の区別がわかりにくいので、簡単に捕捉説明しよう。

まず禅尼だが、これは夫を亡くした後家や姉妹などで髪を剃り落とした女性をいう。尼は、普通に剃髪した女性のこと。比丘尼とは、伊勢上人(伊勢国宇治山田の尼寺・慶光院の住職)や長野善光寺の弟子、あるいは身分の高い人物の後家の使用人、そのほか熊野比丘尼などの女僧。髪切とは、髪の長短によらず、髪の先を切りそろえている女性。小女とは15、6歳までの振袖を着ている女子をさす。

ただ、当初は女性の個人的なことを書き込むことは少なく、もし書き入れたとしても、怪しい者ではないとか、人身売買の対象ではないといった程度であった。しかし、寛政八(1796)年からは、貴賤関係なくすべての女手形に、通過する者の身分を書き入れることになったのである。

■「出女」のみならず、「入り女」にも厳しいチェックをするワケ

では、地方から江戸へ向かう女性(入り女)については、どのように対処したのだろうか。

女性の通行を許している関所は、この「入り女」についても女手形の提示を求め、しっかり検閲することが多かった。

だが、ここで疑問が生じる。江戸にいる大名の妻子や母が逃亡するのを防ぐため、「出女」を厳しくチェックしたのはよく理解できる。が、大名の統制策とは無縁なのに、どうして「入り女」の通過まで幕府は規制したのだろうか。

さらにいえば、新居関所では「関所周辺の女性が一旦関所以東へ旅立ち、期限内に再び帰っていることが明らかな場合に限って、関所奉行が手形を発行していた。こうした手形を『通手形』といった」(『館蔵図録Ⅰ 関所手形』)とあるように、関所の近隣に住む女性についても、関所を越えるには女手形を必要とした。素姓や身元ははっきりわかっているのに、だ。

歌川広重の「東海道五十三次」に書かれた荒井(新居)宿
(写真=The Sandiego Museum of Art collection/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
歌川広重の「東海道五十三次」に書かれた荒井(新居)宿 - (写真=The Sandiego Museum of Art collection/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

このため「関所所在地の新居宿では、関所を隔てた浜名湖(今切渡船路)対岸の村々との縁組はほとんど皆無であった」(『東海道箱根関所と箱根宿』岩田書店)ことが判明している。

■なぜ幕府は、女性の移動に目を光らせたのか

このように江戸幕府は、江戸から出ていく女を関所に監視させるだけでなく、女性一般の移動を関所によって強く制限していたわけだ。いったいなぜか。

その理由の一つは、各地域の人口を維持するためであった。地域の女性が他所へ移動してしまえばどうなるか。子供を生むのは女性ゆえ、当然、結果として人口は減ってしまう。それが農村であれば、農業生産力にも影響をおよぼすだろう。だから幕府や諸藩は、女性を土地にしばりつけようとしたのである。

河合敦『関所で読み解く日本史』(KAWADE夢新書)
河合敦『関所で読みとく日本史』(KAWADE夢新書)

これに加えて渡辺和敏氏は、幕府が元和年間に人身売買を禁止したにもかかわらず、17世紀後半までの借金証文に、借主が貸主に対して自分の女子を取られ、売ってもかまわないという「人身売買に関連するような文言が書かれた」ものが「各地に多く残っている」こと、さらに女手形の文中に「売買もの」ではないという記述が散見されることから、「逆に社会的に『売買もの』も存在していた可能性」を指摘し、関所が大名の妻子(人質)の逃亡の防止や人口減少の防止に加え、女性の人身売買を検閲する機能があったのではないかと論じている。

女手形には、発行者の印を押すことになっていた。だから各関所には、幕府の留守居役や京都所司代などの発行者の印影(判鑑)がすべて保管されてあり、通過時に、女手形の印形との照らし合わせがしっかりなされた。印の擦れなども含めて入念なチェックだったという。

「敵の侵入を防ぎ、怪しい者を通さない」。これが関所の第一の役割だが、時代によって、また為政者の思惑によって、関所は多様な役目・機能を持たされていたのである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史家
1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院卒業。高校教師として27年間、教壇に立つ。著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など。

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(歴史家 河合 敦)

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