「有名料亭と大勝負」伝説の店・京味が東京デビューのときに作った"野菜弁当"の中身
プレジデントオンライン / 2021年11月12日 11時15分
※本稿は、野地秩嘉『京味物語』(光文社)の一部を再編集したものです。
■「東京で食べられる唯一の京都の味」
東京での仕事に慣れてきた頃、仕込みを終えた午後から、西は挨拶回りに出かけるようになった。映画館での時間つぶしには飽きていたし、ありがたいことに、祇園のお茶屋の女将がお客さんのリストを渡してくれたのである。西はスーツを着て、自分の客、そして、女将の客の元を訪ねて歩いた。
「初めまして。今度、新橋に小さな店を出しました」と手土産を持参して、挨拶して回る。挨拶を受けてくれた客は少なくとも一度は店を訪れてくれた。
京都で西のファンだった客も店を訪ねるだけでなく、応援もしてくれた。彼らは多くの友人、知人に「東京で食べられる唯一の京都の味だ」と京味を紹介した。また、東京に暮らしていて、京都旅行の際、西の料理を食べてファンになった人たちもさまざまな友人知人を連れて現れるようになった。
ある日、京都にいた頃の客が画家の梅原龍三郎を連れてきた。すると梅原は作家の志賀直哉を紹介してくれた。朝日新聞の記者も食通で知られる作家の獅子文六を連れてやってきた。作家の阿川弘之も現れ、平岩弓枝も訪れるようになった。
京味は一流の文化人が集まる店として、ひっそりとではあるが、知る人ぞ知る店になっていったのである。そして、紹介で訪れた銀座にあったセレクトショップ、サンモトヤマ社長の茂登山長市郎は西の料理を気に入ったらしく、大声で叫んだ。
■「オレのところに請求書まわせ」
「健ちゃん、オレが毎日、客を送る。もし、払わなかったら、オレのところに請求書まわせ。必ず払ってやる」
茂登山は言葉通り、週に二度も三度もやってきて、数多くの財界人、文化人、食通を紹介してくれた。
当時、日本でトップだった都市銀行の頭取も西の料理にほれ込んだひとりだ。彼は店に足を運ぶだけでなく、役員会の昼食に出す弁当を作らないかと言ってきた。正確には役員会に出す弁当を決める選考会に出ろということだった。
選考会に出るもう一方は東京の有名料亭だった。片や、西の店はできたばかりのカウンター割烹である。
「やらせていただきます」
役員会の弁当は三十人前。毎月、一度とはいえ、京味にとっては大きな固定収入だ。なんといっても信用につながるし、役員たちが食べに来てくれるかもしれない……。
それから西は毎日、頭をひねって、ああでもない、こうでもないと弁当の中身を考えた。せっかくの厚意だから、なんとしても勝ち取りたい……。
「そうか」
ひとつのアイデアが浮かんだ。それは……。
■肉料理はあえて使わない
会議や打ち合わせで仕出しの高級弁当を食べたことのある人は少なくないと思われる。値段の高い弁当であればあるほど、和食、洋食を問わず、高級食材ばかりが詰まっているのが通例だ。雲丹、鮪のトロ、イクラ、高級牛肉、海老、蟹……。そんな高価な弁当も一度は嬉しい。
しかし、毎月、鮪のトロと松阪牛のステーキが入っていれば、見ただけで味がわかってしまう。それに高級食材は冷めた弁当で食べるよりも、酒と一緒に店でつまみたい。まさか役員会で日本酒を酌み交わすわけにはいかないから、珍味よりも、ご飯が進むおかず、体にとってやさしいおかずを入れた方がいいんじゃないか。
――野菜料理で行く。素朴な味、懐かしい味の弁当にする。むろん、素材はいいものを厳選する。しかし、酒のつまみではなく、ご飯のおかずを入れる。
西は牛肉ならばステーキではなく、薄い牛肉をカリカリに焼いたものにした。根菜をたくさん使った筑前煮を入れた。ご飯も毎月、季節に応じた炊き込みご飯を詰めることにした。
選考会の日、数人の役員はふたつの店の弁当を味見した。もちろん、頭取も味見をするひとりだった。
結果は京味。西がくふうした松花堂弁当に決まったのである。
■弁当は京味のファンを広げることにつながった
採用が決まると、三十人分の漆塗りの弁当箱を新調し、出前に使う軽自動車も買った。そうして、弟子と一緒に毎月、自ら都市銀行の本店まで弁当を配達し、給仕したのである。
「うん、これはいい」
初回から大好評で、銀行の重役たちは残さず平らげてくれた。回を重ねると、秘書が「今月のご飯は何ですか?」と西に訊ねてくるようになった。
役員会の弁当は京味のファンを広げることにつながった。重役たちは争って京味に予約を入れるようになり、友人知人、取引先を連れてくるようになり、どんどん輪が広がっていったのである。
開店から二年が経った。さまざまなことがあったけれど、京味はようやく満席が続く店になった。
忙しくなってからも、西は相変わらず神戸から鮮魚、京都から野菜を航空便で運ばせていた。めったにはないことだけれど、台風が来た時などは飛行機が欠航する。そんな時は鮮魚店の宮田さんか青果店の古嶋さんのどちらかが魚と野菜を抱えて新幹線に乗って東京駅まで持ってきてくれた。
■上京3年目で手狭な店を引っ越すことにしたが…
西が東京にやってきてから三年が過ぎた。
その年、一九六九年は全共闘の学生が、東京大学の安田講堂を占拠し、警視庁機動隊が封鎖を解除するという事件があった。投石があり、それに対して放水が行われ、人と人がぶつかり合う安田講堂攻防戦だった。学生運動が高揚した時期の大きな事件である。
世の中が騒然とした時代であっても京味は毎日、必ず席が埋まるようになっていた。西は三十二歳。料理人としてはこれからが勝負という年齢である。
ひとつ心配だったのは店が手狭なことだった。新しい店を探すことにしたけれど、あまり遠くに行くわけにはいかない。新橋から遠い場所に引っ越したら、せっかくの常連客が来てくれなくなるかもしれない。
店のことをどうしようかと悩んでいたある日、ふと、思い出したことがある。常連客のひとりが新橋にビルを二棟持っていると言っていたことだ。
西は常連客の事務所を訪ねて、相談した。「どちらかを貸してもらえませんか」
「あー、貸すことはできないが、あんたになら売ることはできるよ」
場所は新橋三丁目。妻の実家からも遠くないところで、地下一階、地上四階のビルだった。
■担保を持っていなければ「ダメです」
しかし、家を買うのとビルを買うのでは金額の桁が違う。借金をするにしても当てはなかった。
西は役員会に弁当を運んでいる都市銀行の支店に出かけていって担当者に頭を下げた。だが担保は持っていない。
「ダメです」担当者はけんもほろろに断った。
「どうしよう……」考えあぐねた西は頭取に思い切って相談することにし、本店へ出かけていったのである。
頭取は「京味さん、いつもお弁当をありがとう」と迎えてくれた。
「頭取、実は店を新しくするので、新橋のビルを買いたいんです。お宅の銀行にお金を貸していただきたいんです」
「そう、担保はありますか?」
「ありません。この体だけです」
西の「体だけです」という答えを聞いた頭取はうつむいて、じっと考え込んだ。
「わかりました。お店に帰って待っていてください」
■店の前に立っていた男は…
西がとぼとぼと店の前まで帰ってくると、男がひとり立っていた。
「ご主人、私は支店長です。担当が失礼をいたしました。購入希望のビルを見ました。融資の手続きを進めます」
目を白黒させた西がぼうっと立ち尽くしていたら、支店長がこう付け加えた。
「頭取が保証人という融資、私自身、初めてのことです」
京味は新しい店に引っ越した。カウンターだけでなく、テーブルの個室、座敷もある。西が亡くなった後も、二〇二〇年の一月まではそこで営業していた。
思えば、誰ひとり友人知人のいない東京に出てきて、わずか三年で一国一城の主になったのだった。
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ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。noteで「トヨタ物語―ウーブンシティへの道」を連載中(2020年の11月連載分まで無料)
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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