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「なぜ細木数子は視聴率女王になったのか」テレビが絶対に触れない"魔女"の来歴

プレジデントオンライン / 2021年11月17日 15時15分

タレント・占術家の細木数子氏が大相撲モンゴル巡業のエンフバヤル大統領主催歓迎晩さん会に出席(=2008年8月26日、モンゴル・ウランバートル)写真=時事通信フォト

■死ぬまで性への執着を持ち続けていた

細木数子が亡くなった。享年83だった。

彼女が亡くなった翌日のスポーツ紙は、各紙大きな扱いで、「『地獄に堕ちるよ』『大殺界』『ダメ出し』ズバリ発言連発『視聴率女王』」(日刊スポーツ11月11日付)「大物にも臆せず『ズバリ』『六星占星術』で“ご意見番”占い師」(スポーツニッポン同)と、テレビをも席巻し、数々の足跡を残した“女傑”だったとしている。

実は、私は、細木とは多少因縁がある。

往事茫々、記憶は定かではないが、細木と最初に出会ったのは、彼女が経営していた渋谷か赤坂(銀座ではなかった)のクラブだったと思う。

私が30代の初めだから、1970年代の前半だっただろうか。私は週刊現代編集部にいたが、知り合いの黒幕を自称している男に連れられて行った。

派手な電飾がキラキラしている店内は、音楽もうるさくて、隣の女の子との会話も途切れがちだった。

そこで連れが紹介してくれたのがママの細木数子だった。

彼女は私より7歳年上だから当時40歳を超えていた。華やかといえば聞こえがいいが、ケバいキャバレーのオバちゃんというのが第一印象だった。

名刺を渡して、うるさい店は嫌いなのですぐに出たと思う。

その後、彼女から電話が何度かかかってきたのだろう。一、二度顔を出したと思うが、私の好みの店ではないので、足が遠のいた。

■ずいぶんやつれた表情で「おカネがないのよ」

こんなことがあった。細木の弟に細木久慶というのがいた。何をしているのかはよく知らなかったが、この男が政治に出たいと考えていた。

細木から頼まれたと記憶しているが、弟を衆院選に出馬させたい、ついては新自由クラブで公認してくれないだろうかというものだった。

当時、金権政治を批判して自民党を飛び出した河野洋平や山口敏夫たちがつくった新自由クラブが注目されていた。

私は河野代表や山口幹事長と親しかったから、口をきいてくれないかというのだ。

私は山口幹事長に話をもっていった。私からの頼みということで党内で検討してくれたが、公認は難しいので推薦になったと思う。

細木久慶は1976年の衆院選に東京4区から立候補したがあえなく落選した。

その後、どれぐらいたってからだったか。細木から呼び出されて昼間、赤坂の指定された場所に行ったことがあった。

以前のクラブではなく、やたらだだっ広い喫茶店のような店だったように記憶している。

華やかなクラブでの細木しか知らないので、ずいぶんやつれて疲れているように見えた。

別にこれという相談があるわけではなかった。彼女はひとり語りのように、「おカネがないのよ」と繰り返していた。

ど派手なクラブのママが、店を閉めて、やたら広いだけの空間で、カネがなくて暇を持て余しているようだった。

もちろん私にカネの目当てもなければ、出資してくれるような人間も知らないので、頑張るようにいってそこを辞した。

彼女の人生の中で、一番落ち込んでいた時期ではなかったか。

■大借金を抱えた島倉千代子の“恩人”として再会

次に会うのは、歌手の島倉千代子が付き合っていた眼科医のひどい仕打ちに耐えかねて裸足で逃げ出し、細木に拾われたと騒がれた時だった。

細木には私のほうから連絡したと思う。

細木の家に行くと、彼女の横にやくざ風の男がいた。なかなかのやさ男で、その時は、細木より年下ではないかと思った。

堀尾昌志という暴力団「二率会」の幹部で、名刺をもらったと記憶している。細木がいうには、「真夜中の乃木坂あたりを車で通りかかったとき、トボトボと歩いているお千代を偶然見つけて助けたのよ」、まったくの善意で島倉を救ってやりたい、島倉の抱えている莫大な借金問題を何とか解決してあげたいと考えていると、まくし立てた。

その後、島倉千代子にもインタビューした。

一緒に暮らしていた眼科医の彼女への非道、彼が事業につぎ込んだ借金の裏書をさせられたため莫大な借金を抱えていること、細木と堀尾への感謝を述べた。

そのインタビューは週刊現代に載った。

細木と堀尾が、島倉を管理する事務所を立ち上げ、彼女の地方公演などの収入を自分たちの懐に入れ、しゃぶり尽くしているという話が漏れ聞こえてくるのは、少し後からである。

1982年に細木は最初の占い本『六星占術による運命の読み方 あなたの人生は12年周期で揺れ動く』をごま書房から出し、ベストセラーになる。

私にも贈ってきたが、占いに興味のない私は、読まずに本棚に突っ込んだ。第一、彼女が占いをやるなど、それまで聞いたことがなかった。

■陽明学者・安岡正篤と“40歳差同居”

そして、1983年に“事件”が起こる。高名な陽明学者である安岡正篤は歴代の首相たちが指南を仰ぐ人物であった。

「平成」という元号も、安岡が考案したといわれている。朝日新聞デジタル(2019年3月16日 7時00分)は、「埼玉県嵐山町にある安岡正篤記念館。安岡氏の足跡を紹介するパンフレットには、いまも『「平成」の考案者』の文字が躍る」と報じている。

その安岡と細木が一緒に暮らしていると噂になったのだ。安岡85歳、細木45歳。

年のせいでやや認知気味とはいえ、それまで清廉潔白といわれて生きてきた日本の宝のような人物が、なぜ、清濁併せ呑んできた女性に惚れたのか。

私は月刊現代編集部にいたが、旧知の細木に会いに、TBSの裏にあった彼女のマンションへと出向いた。

モダンなマンション
写真=iStock.com/ewg3D
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ewg3D

印象としては、豪壮マンションではなく意外に地味な建物で、彼女がいた部屋もとりたてて華美ではなかったと記憶している。

部屋の向こうにもう一つ小部屋があり布団が敷いてあった。そこに安岡が寝ているようだ。

きっかけは知人の紹介だったようだが、以前から安岡を尊敬しているといっていた彼女だから、口車と40歳年下の色香を駆使して、老人を虜にしたのだろう。

雑誌屋は直截である。「安岡さんは年だからできはしないだろう?」と聞くと細木は、一緒に寝てあげると喜ぶのよというようなことをいって含み笑いをした。

細木は結婚するといっているが、彼女の狙いは、安岡が所有している貴重な掛け軸や日本画を手に入れることなのではないか。彼女の家を辞した後、そう思った。

■テレビに映し出された彼女の“変貌”

安岡をどのように同意させたのか、婚姻届を彼女が提出した。だが、安岡の親族や弟子たちの猛反対にあい、別れる条件として大量の蔵書と値打ちのある書画、骨董などを手に入れたと、後日報じられたが、真偽のほどは分からないし、興味もなかった。

それからだいぶたったある夕刻、上野にほど近い一葉記念館を見ての帰り、竜泉の小さな居酒屋に入って手酌で飲んでいた。店の隅の上にあるテレビがついていた。顔を上げるといきなり細木の顔が大写しになった。

さては何か事件でも起こしたのかと見ると、彼女が「そんなことしてると地獄に堕ちるわよ」と、若い女性タレントに説教しているではないか。

思わず盃を落としそうになった。どうやら占い師から文化人になったらしいが、テレビには興味がないから知らなかった。

歯に衣着せない毒舌で、あっという間にお茶の間のカリスマになり、その知名度を生かして講演会や、“信者”たちに墓を売りつけているという噂が流れてきた。

東西線の神楽坂の駅から下って大久保通りと交差する角に細木の事務所があった。たまには覗いて見ようかと思っていたが、今更会って話すことなどないと、行かずにいた。

■細木数子の人生を追った『魔女の履歴書』

スポーツ紙やテレビはまったく触れていないが、2006年5月から、私の古巣である週刊現代でノンフィクション・ライターの溝口敦が、細木の人生を暴露する連載『細木数子 魔女の履歴書』を始めた(後に講談社+α文庫から出版。以下『魔女』)。

編集長はコワモテで知られる加藤晴之。溝口は長年暴力団を取材してきた、その道のプロである。

亡くなるまで一緒にいた堀尾昌志だけではなく、彼女の周囲には暴力団や元暴力団の人間が多くいる。

20代で一時は3つのクラブを所有していたといわれるが、そのカネはどのようにして手に入れたのか。彼女の人生を丹念に取材して、細木という女性が辿ってきた本当の人生を描こうというのである。

慌てた細木は、『魔女』によると、連載が始まってすぐに講談社の社長を相手取り、6億円余りの賠償請求訴訟を起こした。しかも、裏では暴力団最高幹部に頼んで、溝口に連載を止めるよう圧力をかけたというのだ。

そんなことで溝口が怯むはずがない。かえって彼の闘志に火をつけてしまったようだ。

その連載からいくつかのエピソードを紹介してみよう。

■喫茶店、クラブ、バーと立て続けに開くが…

細木は渋谷区円山町で1938年に民政党院外団の壮士(政治ゴロといわれたそうだ)だった父親と母親の8人兄弟の4女として生まれたと、彼女の自叙伝では書いているようだが、実際は父親の愛人の子どもで、妻妾同居していたと『魔女』では指摘している。

東京・渋谷の百軒店でおでん屋を営む母親に育てられたと本人はいっている。この地域は昔は青線地帯といわれ、戦後、ワシントンハイツから多くの米兵が遊びに来て、街娼と遊ぶ町だった。

16歳でミス渋谷になったともいっているが、これは商店会の催し物のようなものだったらしい。17歳で高校を中退して、東京駅近くに喫茶店「ポニー」を開店する。

現在のカネで200万円にもなる開店資金は自分で貯めたといっているが、『魔女』によれば、かなりいかがわしいことをして稼いだそうだが、ここでは割愛する。

その後、新橋駅近くのビルに「クラブ潤」をオープン。19歳(年齢はサバを読んでいて22歳だったそうだが)で銀座のクラブ「メルバ」の雇われママになる。

そこから銀座に「かずさ」という自前のクラブを持ったという。この頃に静岡の眼鏡店の後継ぎと結婚するが、3年半後に離婚している。

離婚後に銀座にバー、クラブを立て続けにオープンした。だが好事魔多し。クラブに顔を出していた男に騙(だま)され、赤坂に陶板焼きの店「艶歌」を莫大な借金をして買ったが、その男がカネも従業員の給料も持ってトンずらしてしまったのだ。

■経営者だったのに占いをどうやって覚えたのか

その後、「艶歌」をサパークラブにして、そこの常連になったのが、私が島倉の件で会った堀尾で、小金井一家八代目総長(二率会会長代行)だったという。堀尾の実質的な姐さんになったことで、細木の暴力団人脈が形成されていったと『魔女』は書いている。

私が細木に初めて会ったのも「艶歌」だったのだろう。

先を急ごう。細木は占いの本を多く出し、ギネスにも載るぐらい売れていると豪語していたが、その占いはどこで覚えたのか。

『魔女』によれば、「神・心理占星学会」会長の神という女性からだったという。神は『魔女』の中で、「彼女が本格的に占いを勉強したことはなく、私からの聞きかじりか、私が貸した資料の誤った引用です」と語っている。

タロットカード
写真=iStock.com/Petchjira
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Petchjira

ごま書房の元関係者も、細木が持ち込んできた原稿は完全ではなく、占いを知らない編集部も作成に協力したから、プロから見れば間違いもあるでしょうといっている。

だが、「艶歌」をディスコに模様替えしたようだが赤字はかさむばかりだったようだ。カネに窮していた細木は金のなる木「島倉千代子」と出会う。1977年に島倉の興行権を握り、蓄財していく。

彼女を知るきっかけは赤坂に住んでいるフィクサーといわれた安部正明だという。彼の家には錚々(そうそう)たる人間たちが出入りしていて、その中には美空ひばりも島倉もいた。細木や堀尾も出入りしていたようだ。

島倉と一緒に暮らしていた眼科医が不渡りを出して蒸発してしまった。彼の手形の裏書をしていたため、島倉が3億円ともいわれる債務を引っかぶってしまったのである。

■「お酒よ、お酒。お酒で“殺した”のよ」

そこに細木が言葉巧みに入り込み、島倉と安部を離反させ、島倉を手中に収めたというのだ。細木は私にもいったように、尾羽打ち枯らしていた島倉と偶然出会い、善意で助けているとマスコミに吹聴していたが、細木は島倉を3年間同居させ自分の管理下に置き、荒稼ぎをしていた。

一方で、堀尾が島倉の債権者たちを口説いて、借金を圧縮してもらったという。『魔女』によると、その間に細木は10億円近く稼いだのではないかといわれているそうだ。

まさに「色と金儲けこそ人生」という彼女らしい“凄味”を感じる。

1983年、安岡正篤と出会う。彼女と親密だった男が安岡を招いた食事会を催し、そこで知り合ったといわれているそうだ。当時の安岡は年のせいか、やや認知症気味だったというが、高名な学者も、女ざかりの色香に迷ったのだろうか。

『魔女』の中で、ある女性に細木は、どうやって安岡をたぶらかしたのかを問われ、

「お酒よ、お酒。家じゃ飲ませてもらってないようだから、わたしが好きなだけ飲ましてる。お酒で“殺した”のよ」

その女性が細木のところを訪ねると、四畳半の部屋に吉田松陰や山本五十六などの掛け軸をおさめた箱が50個ほど積まれていたというが、安岡の資産の一部だろう。

安岡に結婚誓約書を書かせ、晴れて結婚するが、その直後に安岡は死去してしまう。彼女は安岡の初七日に籍を抜き、その礼として安岡の蔵書1万2000冊をもらったという。だが、細木はそれを韓国の「檀国大学校」へ寄贈してしまう。

■女傑か、それとも稀代のトリックスターか

私が細木について多少知っているのはここまでで、テレビに出て毒舌を吐き、視聴率の女王になっていたころは、興味もなく見もしなかった。

溝口は『魔女』の中で、いたずらに不安感や恐怖感を与える占い師を番組で重用するテレビ局は社会的責任の自覚がないと批判している。

細木は週刊現代の連載を止めるために暴力団幹部を使ったことを溝口に暴露され、観念したのか、裁判所の和解提案に応じた。実質的な敗訴である。2008年にテレビからの引退を表明した。

テレビに出ていなくても、“信者”たちを集めて講演料や命名料、墓などを押し売りしていると週刊誌などで何度か報じられた。

貧しい中で育ち、腕一本で成り上がった女傑か、多くの男をたぶらかし、見よう見まねで覚えた占いを武器にテレビ界の寵児にまでなった稀代のトリックスターか。評価は分かれると思うが、私にとっては、人生の一瞬、袖すり合っただけだが、忘れがたい女性の一人ではあった。冥福を祈りたい。(文中敬称略)

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、近著に『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦)

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