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「日本は貧乏が似合っている」立川談志が生前にこの言葉を繰り返していた真意

プレジデントオンライン / 2021年11月21日 12時15分

談志と筆者。筆者の真打昇進披露パーティーにて - 撮影=ムトー清次

■談志の言葉の数々は予言だったのではないか

今年の11月21日で、わが師匠談志がこの世を去って丸10年です。

思えば、今から10年前の2011年は、談志、ビンラディン、カダフィ大佐、金正日と、独裁者4人が消えた年でありました(笑)。

ま、冗談はともかく、私ことこの度不肖の弟子として、没後10年の晩秋に合わせて、『不器用なまま、踊りきれ。超訳 立川談志』(サンマーク出版)、『天才論 立川談志の凄み』(PHP新書)を出版させていただきました。

前者は「過去の談志の発言集をデータベースに、もし談志がいまも健在だったら、こんなことを言っていたはずだ」という観点から談志の言葉を思い切り「超訳」してみました。

後者は「前座修業クリアに他団体の3倍近く要しながらも、その後回復運転し、トータル14年で真打ちに昇進した自分のドキュメンタリーから浮かび上がってきた談志の天才性についての論考」です。

2冊に共通するのは、「談志の言葉の数々は予言だったのではないか」という観点です。

日本は、先進国で唯一給料の上がっていない国になりました。平均賃金では韓国に既に抜かれています。平成元年は世界4位だった国民1人当たりGDPは18年には26位まで転落し、アジアでも香港やシンガポールに大きく引き離されてもいます。

「日本は貧乏が似合っている」。生前談志がサイン色紙に頻繁に記していた言葉ですが、まさに似合うという形に収まったという感じがします。

■「栄華を極めて国はほろびる」

ここで談志の少年期を想像してみましょう。

育ち盛りのあの忌まわしい戦争体験が後の談志の人生にも多大なる影響を及ぼすことにもなりました。今年で入門がちょうど30年になる私ですが、今振り返るとまだバブルの余波というか、景気の良さが残っている入門当初の時期に「日本は貧乏が似合っている」「あの頃は国中が貧乏だった」と、頻繁につぶやいていたものです。

「日本は貧乏が似合っている」なんて、一見「みんなで貧乏になって廃れてしまえばいい」などという過激で厭世的な主張なのかと誤読されがちですが、決してそうではありません。これもよく言っていた「貧乏で国はほろびない。栄華を極めて国はほろびるんだ。ローマ帝国を見よ」というセリフを補助線に「超訳」すると、好景気で浮足立っている人たちに対する冷ややかな目線が光ってくる感じがします。

「バブルが残したものは何か? 金持ちになって何をした? 海外へ女遊びに行ったぐらいだろ」とも落語会のマクラでも揶揄(やゆ)していました。「俺たちは戦後の焼け野原からあそこまで立ち直ったんだ」とキラキラしたまなざしで、悲惨な環境から復興してゆくこの国の底力を見届けた談志からしてみれば、裕福な場所からではなく「貧乏というマイナスなスタート地点から出発すべきだ」という現代人への叱咤(しった)激励にも聞こえてきませんでしょうか。「俺がお前にしてやれる親切は情けをかけないことだ。欲しけりゃ取りに来い」という言葉も前座の後半期によくいわれたものでした。

■「自作の持ち帰り容器を持ち歩く」談志ドケチ伝説

そして、戦後の貧しい時代に生まれた談志は非常にケチでした。

袋に入ってるミカン
※写真はイメージです(写真=iStock.com/design56)

前座の入門当初、談志がなめかけていたのど飴を、もうなめ終えたものだと思って捨ててしまったことで怒鳴られたことがありました。「バカ野郎、なんてことするんだ。まだなめられたのに」と、のど飴を喉から手が出るほどに惜しんでいたものです。

私の真打ち昇進パーティーの会場で出されていたピラフは「談志パック(談志の絵と「食べ物は大切に」などと書かれたオリジナル容器)」に入れて持ちかえり、炒め直しては食べ続けていましたっけ。滞在先のホテルに置かれていた小さな石鹸を「ミカンを入れるオレンジ色の網」に詰めて大事に使っていたものです。まさに「ネット(網)」を当時から駆使していたのです(笑)。

もうここまでくると、ケチというマイナス評価を通り越して、談志のキャラにまで昇華してもいました。

■不快感を自分の力で解決するのが「文化」

「しわい屋」というケチを自慢する落語があります。

あるケチな男が「1本の扇子を10年持たせる方法がある」と言って「半分だけ広げて5年あおぎ、次の5年でそれを畳んで残りの半分を広げて使う」と主張します。言われたケチな男も負けてはいません。「俺はそんなことしない。扇子はそのまま動かさない状態で顔を方を動かす」。

談志は「こいつは見事だ。不快感を自分の力で解決している。文化そのものだ」と絶賛していました。

談志は、文明と文化を次のように定義し、生涯を通してアンチ文明の立場でした。「不快感の解消を自分の手でやるのが文化で、お金で他人や機械にやってもらうのが文明だ」と。

つまり、江戸時代とはそもそも文明が未発達で、文化に頼らざるを得なかった時代でもあったのです。そんな環境だからこそ、落語のような大衆娯楽が生まれたのだと考えていました。だから、貧乏に戻ることは、現代人が文化を取り戻す良いきっかけになるといえるわけです。

もちろん談志とて現代人です。多少の文明の恩恵は享受しつつも、「なんとかして文明の思い上がりを食い止めよう」と文化人としての気概を、落語を通じて訴え続けていたような感じでした。芸人ゆえの茶目っ気があふれていましたから、徹底して文明批判を貫くような活動家的なポジションでは決してありませんでした。

■文明社会のなれの果て

ところで、このまま文明がアクセル状態を続けてゆけばどうなるのでしょう?

いまや地球環境が悲鳴を上げています。

崩れる氷河
写真=iStock.com/Don Mennig
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Don Mennig

富と成功の象徴としての億万長者が利用するプライベートジェットのCO2排出量は、長距離バスの10倍、高速列車の150倍とまで言われています。

そう考えて見つめてみると、「SDGs」が叫ばれるはるか以前から談志はこの現況を笑いと共に訴え続けていたのかもしれません。マルクスが再評価され、ピケティが注目され、斉藤幸平さんの『人新世の資本論』がベストセラーになったりと、こういう時代を談志は想像していたのかもしれません。天才にはきっと見えていたはずです。

■フェミニストだった談志

「男が勝手に作ってダメにした社会を、直してゆくのは女だろう」。

立川談慶『不器用なまま、踊りきれ。超訳 立川談志』(サンマーク出版)
立川談慶『不器用なまま、踊りきれ。超訳 立川談志』(サンマーク出版)

これも談志を代表する名言の一つでした。

談志はかなりのフェミニストでした。20年以上前ですが、当時前座の分際で結婚した私でした。前座というのは修行期間の身分ゆえ、いわば結婚するのはご法度に近いことです。私はこっそり結婚して、ほとぼりが冷めたら談志にカミさんを紹介しようなどと姑息(こそく)なことを考えていたのですが、カミさんはとても気丈でした。

「あとで師匠に『なんであの時に言わなかったんだ!』と言われるのは嫌だから、どんなに怒られてもいいから挨拶に行きたい」という彼女の声に押される格好で根津のマンションへ向かいました。夏場のことでした。談志はランニングと短パンで寛いでいたのですが、カミさんの姿を見かけるとすぐ奥の部屋に戻り、ポロシャツを上に着て応対してくれたものです(無論、結婚に関しては「身分をわきまえろ! 馬鹿野郎」と激怒されましたが)。

その後も、カミさんのお礼状への返信には、直筆で「何かあったら力になります」と墨痕鮮やかに印してくれました。

立川談慶『天才論 立川談志の凄み』(PHP新書)
立川談慶『天才論 立川談志の凄み』(PHP新書)

二人のお子さんや御内儀さんからは「パパ」と呼ばれていました。家父長制の延長線上に位置すべき徒弟制度を前提とする落語家としてはとても異例のことだったはずです。

「男にできて女にできないことはない。運転は男のほうがうまいなんてウソこけで、女には経験がないだけだ。大概どこの家も亭主がだらしなくて、カミさんがしっかりしているものだ」とも言っていました。

まさに「LGBT」という言葉の先駆けのような思考を持っていたのです。女性蔑視発言などで窮地に追いやられた森元首相と同世代の人の考え方とはとても思えませんよね。やはり革新的な思考だったのです。だからこそ、「落語は人間の業の肯定だ」という落語への歴史的な定義を施したばかりではなく、それまでの落語のスタイルや存在意義までも変えるような革命をやってのけたのでしょう。

■地球と女性を大切に

そんなバランス感覚と先見性があったからこそ、談志からしてみれば、男性が「勝手に作ってダメになった社会」をきちんと立て直してゆくのは女性だろうというのは予言ではなく、「未来への提言」にすら思えて来ます。

以上、まとめて「超訳」すると、もし談志がここにいたのならば、「地球環境を大切にしろよ。人間さえいなけりゃこんないい星はない。そして、もっともっと女性を大事にしろよ。それから談慶のバカの書いた本、買ってやってくれよな」と、優しい言葉を残してくれていたはずです。天才の言葉、いまこそ噛みしめましょう。

「落日」の後は「朝日」です!

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立川 談慶(たてかわ・だんけい)
立川流真打・落語家
1965年、長野県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。ワコール勤務を経て、91年立川談志に入門。2000年二つ目昇進。05年真打昇進。著書に『大事なことはすべて立川談志に教わった』など。

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(立川流真打・落語家 立川 談慶)

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