「だから日本企業は世界で勝てない」アップルが未熟な技術をさっさと商品化する理由
プレジデントオンライン / 2021年11月25日 15時15分
■仮想空間は「遊び」を超えてより実用的に
2021年10月にFacebook社が社名を「Meta(メタ)」に変更したように、この1、2年、急速に注目を集めているのが「Metaverse(メタバース)」である。オンライン上に巨大な仮想空間を設営し、参加者はCGによる「アバター」としてメタバースにログインし、メタバース内のオフィスで仕事をしたり、ゲームをしたりといったさまざまな体験をすることができる。近年のVR技術の急速な発達により、仮想空間におけるアバターの活動領域はリアル(現実世界)に近づき、単なる「遊び」ではなく実用的な意味を持ちつつある。
メタバースは視覚メインの仮想空間と理解されているが、そのリアリティを高めていくためには視覚だけでなく、五感すべてを仮想的に再現することが理想となる。
研究ターゲットのひとつが聴覚である。「音の立体化」と「音の定位」という2つの要素技術を組み合わせることで、被験者に音響的な仮想空間体験を提供するもので、本稿では「音響AR(Augmented Reality=拡張現実)」と呼ぶ。この5年ほどの間にNEC、ソニー、Appleなどで立て続けに、音響ARについての技術成果の発表と実装が行われている。
■Appleの新たな音響技術は「完成度が低い」
Appleは2020年、「ダイナミック・ヘッド・トラッキング・サウンド」と呼ばれる新技術を発表し、2021年9月から傘下のApple Musicへの実装を開始した。
ダイナミック・ヘッドトラッキング・サウンドとは、ヘッドホンやイヤホンを装着したリスナーの姿勢を検知し、音源の位置をリスナーの顔の向きに応じて定位させる技術である。
しかし実際にこの技術を使った対応コンテンツを視聴してみると、その完成度は低いと言わざるを得ない。
頭を動かしてから音源の擬似位置がそれに合わせて修正されるまで、10秒近いタイムラグがあるのだ。
メタバースで使用するとしたら実用には程遠く、また純粋に音楽鑑賞用として考えると、「音源をバーチャルに定位させることが、音楽を楽しむ上でどれほど意味があるのか」という根本的な疑問がある。
まるでAppleは何らかの理由で未完成の技術を強引に実装し、この分野に参入しようとしているかに見える。
ここでは音響ARの歴史を整理しつつ、Appleが音響ARに参入してきた意味について考えていきたい。
■「音の立体化」と「音の定位」とはなにか?
一口に「音の立体化」と「音の定位」と言われても、研究者以外には何を意味するのか分からないだろう。
スピーカーやヘッドホンは左右2つのユニットから異なる音を出し、リスナーはそれによって音源がどの位置にあるのかを聞き分けることができる。
ただし従来のステレオシステムでは音源が左右どのあたりにあるかは分かっても、縦方向(上下)や前後方向の位置までは聞き取れない。
原理的には3点測量のように2つではなく3つのポイントで捉えないと、立体的に「そこに音源がある」という判断(これを「定位」という)はできないのだ。
しかし実際には人間は2つの耳だけを使って、音源が前にあるか後ろにあるかを確実に知ることができるし、音源の上下も明確に認識することができる。
それには耳の非対称な形状が関わっている。
■耳たぶ、外耳孔、鼓膜などを使って位置を把握
外部から来た音はまず耳に当たり、そこで反射して耳の穴(外耳孔)に入り、鼓膜に達する。
耳の形が非対称であることで、前から来た音と後ろから来た音、上からきた音と下からきた音で反射の仕方が異なり、音が変わる。例えば後ろから来た音は耳たぶによって遮られるが、前から来た音にはそれがないので、はっきり判別することができる。
ある音源から音が出ているとき、その音をどう変化させれば、人間は「この音はこの方向から来ている」と判定するのか。これについてはすでに定式があり、「頭部伝達関数」と呼ばれている。
この関数に従って音を変化させることで、ヘッドホンをつけた被験者に対して前後左右上下、こちらが意図した通りに音源の位置を感じさせることができる。
これが「音の立体化」技術である。
■体の動く方向で音の出方を変える高度なもの
「音の定位化」はこの「音の立体化」技術を発展させたものだ。
定位化では、聞き手がどちらの方向を向いているかに応じて音の出方を変える。
![アップルのAirPodsを装着した右耳](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/d/250/img_ed37e676aa08f72a08112e4a864f7cf8402875.jpg)
現実世界では、左側から車の音がしたので顔をそちらに向けると、今度は音が正面から聞こえてくることになる。これをヘッドセットで擬似的に再現してやるのだ。
自分の動作により音の出方が変わることで、人はまるで自分がその場にいるようなリアルさを感じることができる。
ただし音の定位化を行うためには、リスナーの顔や身体の向きをリアルタイムに検知し、それを音の出方に反映させなければならない。これはかなり高度な技術である。
それを可能にしたのが、物体の向きや移動を正確にトラッキング(追跡)できる「9軸モーションセンサー(9軸センサー)」だった。これをヘッドセットに内蔵させれば、装着した人の動きをリアルタイムで捕捉できる。
ワイヤレスヘッドホンやワイヤレスイヤホンの普及、9軸センサーの小型化、情報を処理するCPUの高速化などの技術進歩により、ようやくここ数年、音の立体化と定位化が可能になってきた。
■ソニーはいち早く「立体化×定位化」を進めていたが…
2017年にはNECが「音響AR」技術を発表している。これは、例えば対応ヘッドセットをつけて壁に貼ってあるポスターの前を通りかかると、真横から声が聞こえてくる。あわててポスターを振り返ると、今度は正面から音が聞こえてきて、まるでポスターに話しかけられたとしか思えない体験ができる、というもの。
プレスリリースの「観光ナビゲーションや案内サービスに活用が可能」という提案から分かるように、NECでは音響ARにGPSなどの場所特定技術を掛け合わせて、リアルの空間における新しい音響体験の創出を目指していたようだ。
ソニーも早くから音響ARに取り組んできた企業である。こちらは「Sound AR」と呼称しており、2018年11月にそれを体験できるデバイスとして、オープンイヤータイプのヘッドセット「Xperia Ear Duo(エクスペリア・イヤー・デュオ)」を発売、イベントでSound ARを体験できるコンテンツも披露している。
しかしソニーはその1年後の2019年10月、定位化を除いて立体化のみを実現する「360 Reality Audio(サンロクマル・リアリティオーディオ)」を発表。この技術を導入した楽曲の提供をAmazon Music HDなどの音楽配信で進めはじめた。
それまで立体化と定位化を組み合わせた技術開発をしておきながら、わざわざその後から立体化のみの技術発表と実装を始めたのは、どのような意図からだろうか。
■あくまで「音楽を聴く技術」を優先させたか
ひとつには、独自に技術開発を進めることで業界内で孤立しないよう、他社との連合を優先したのだと考えられる。
360 Reality Audioの特徴は、国際標準であるMPEG-H 3D Audioに準拠していることだ。自社だけでなく他のレコード会社とも提携し、ヘッドホンだけでなく据え置き型スピーカーの対応製品も発表している。
もうひとつは「音楽鑑賞において重要なのは音の立体化であって、音の定位化は必ずしも必要ない」と判断したということだろう。
音の立体化技術を適用すると、例えばボーカル曲を聴いても、あたかもライブスタジオで歌い手を目の前にして聞いているかのような臨場感が味わえる。一方、音源が外部に定位されていることは、そこまで劇的な効果はない。
音の定位化を実現するには、9軸センサーを内蔵したヘッドセットやリアルタイムでセンサー情報を処理するための強力な演算素子が必要となる。不要な高コスト化を避けて音の立体化のみにしぼり、その普及に注力していく方向にシフトしたのだと考えられる。
つまりソニーは経営判断として、「音楽を聴くこと」に特化したマーケティングを選んだのだ。
■Appleはなぜこれほど急いで機能をリリースしたのか
ではなぜAppleは、ソニーとは真逆の判断をしたのか。
音響ARに関してAppleは、ソニーやNECに比べ後発である。音の立体化に着手したのは2020年のことで、独自技術ではなく比較的以前からある音の立体化技術「Dolby Atomos(ドルビーアトモス)」を採用、「空間オーディオ」と称して、最初は映像配信で、続いて楽曲配信のApple Musicで対応コンテンツの提供を始めた。
1年後の2021年8月、今度は音の定位化技術である「ダイナミック・ヘッド・トラッキング・サウンド」を発表、間をおかずApple Musicで対応コンテンツの提供を始めた。
この結果、技術的に先行していたソニーが見合わせた楽曲配信への定位化技術導入を、後発のAppleが先に行う形になったのである。
ダイナミック・ヘッド・トラッキング・サウンドに対応しているのは今のところAirPodsシリーズのみだが、そのAirPodsにしても、もともとヘッド・トラッキング機能を前提とした製品ではない。ハードウェア側に準備がないまま、あとからソフトウェア的にトラッキング機能が追加されたことになる。それを可能にしたこと自体、驚くべき成果ではあるのだが、やはり拙速な印象は否めない。
Appleはなぜこれほど急いで音の立体化、定位化の実装を進めたのだろうか。
![2019年10月1日、オレゴン州ポートランドのダウンタウンにあるアップルストア](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/2/670/img_62834dd66c02177e6d47faa6d2578533416705.jpg)
■「先行の利」と有望市場を独占したかった?
Appleがこのタイミングで楽曲配信に音の定位を持ち込んだ理由のひとつとして、メタバースでの利用が視野にあったことは間違いないだろう。
このまま音の定位化に参入せず放置すれば、将来が期待されるメタバースでの音響技術において他社の後塵を拝することになる。「遅れをとってはならない」という焦りがあったのではないか。
別の推測として、Appleには「音の定位」という未知の体験を提供することでApple Musicユーザーの興味を引き寄せ、利用者から大量のフィードバックを受けて技術開発を優位に進めていく狙いがあるのかもしれない。フィードバックを使って技術を育てていく意図があるのだとすれば、早期参入は必須ということになる。
もうひとつ考えられるのは、Appleが音の定位という新規分野で、いち早くトップシェアを押さえることを優先した可能性である。
Apple Musicがダイナミック・ヘッド・トラッキング・サウンドに対応したことで、Appleは音の定位技術の利用者数で、360 Reality Audioのソニーを抜き去り、圧倒的な1位となった。
ユーザー目線では「『音の定位』に関してはAppleが世界のトップ」と認知されるだろう。同時に技術育成に必要なフィードバックの数でも、新技術開発のベースとなる市場シェアにおいても、ソニーを引き離したことになる。
そこには「先行の利(実際には後発なのだが)を活かして、メタバースという未来の有望市場をいちはやく独占する」という戦略的な意図が隠されているのではないか。
■「未完成のものは出せない」体質が明暗を分けた
技術的に見ればAppleの定位化技術であるダイナミック・ヘッド・トラッキング・サウンドは、ソニーやNECなどの先行技術を凌駕しているわけではない。
リスナーの動作から音源定位化までのタイムラグの大きさでは、ソニーやNECのほうがAppleより小さい。
とはいえソニーにせよNECにせよ、ディレイはやはりゼロではない。それだけ定位化に必要な演算処理が膨大で、リアルタイム処理には限界があるのだろう。
これは想像になるが、おそらくこの”不完全さ”こそ、日本勢が自信を持って音の定位化技術の普及に踏み切れなかった要因ではないだろうか。日本企業は「クオリティありき」体質で、完成させる前の技術を市場に出すなど問題外だからである。
■日本企業の負けパターンが繰り返されるのか
一方のAppleは「定位化はユーザーにとって未知の体験であり、リリースする価値はある」と割り切り、未完成であることは承知で市場に出したのだろう。
未熟な技術でもまず世に出してマーケットをつくり、フィードバックを受けながら完成度を上げていって、先行企業として独占状態を築く。典型的なシリコンバレーのIT企業の戦略である。
この戦略性の差が、保守的な日本の電器メーカーと時代の先端を走るGAFAMとの違いといえる。
残念ながら音の定位化技術においても、これまで何度も繰り返されてきた日本のハイテク企業の負けパターンが繰り返されるのだろうか。それとも技術で先行する日本勢が巻き返し、Appleを差し置いて本命であるメタバースへの導入にこぎつけるのか。
音響技術に関心を持つ者にとって、これから数年は目の離せない転換期となりそうだ。
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(Screenless Media Lab.)
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