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「なぜ日本は絶対に負ける戦争に突入したのか」戦争で負けないためにやるべきだったこと

プレジデントオンライン / 2021年11月30日 11時15分

1941年12月、ハワイの真珠湾を攻撃する前に、空母から離陸する準備をする日本の飛行機。 - 写真=GRANGER/時事通信フォト

■約8倍の国力を有するアメリカに宣戦布告

1941年12月8日、ハワイの真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊に、350機の日本海軍の攻撃機が奇襲を開始した。太平洋戦争の開戦である。

しかし、なぜ日本は日中戦争の泥沼にはまる中、天然資源の最大の輸入国であり、約8倍の国力を有するアメリカに対する負け戦を始めたのだろうか。日本人にとって特別な意味を持つ戦争である、この太平洋戦争の原因について、国際関係理論(international relations theory)は興味深い示唆を与えてくれる。

リベラリズムの視点からすると、戦前の日本の国内体制は未成熟な民主主義で、好戦的な軍人に文民政府がハイジャックされた結果、非合理的な拡張主義的戦争が起きたということになる。

ドイツの哲学者カントは『永遠平和のために』で、平和の条件として、民主主義(共和政)、経済的相互依存、国際制度の3点を挙げたが、少なくとも、当時の日本はそのうちの一つの条件(この際、民主主義)を十分に満たしていなかったということである。

■石油全面禁輸で「戦争をするしかない」と考えるように

政治学者のジャック・スナイダー(Jack Snyder)が的確に指摘しているように、早熟な民主主義国の日本が現状打破的な政策を明示的に打ち出したターニングポイントが満州事変(1931年)であり、そこから太平洋戦争にいたる日本の拡張主義的政策がエスカレーションしていったのである。

また、リベラリズムによれば、逆説的だが、経済的相互依存も太平洋戦争の一つの原因になっていたといえる。

政治学者のデール・C・コープランド(Dale C. Copeland)は貿易期待理論(trade expectation theory)というリアリズムとリベラリズムを混合した理論を提示する中で、「日米間の戦争は……高度な依存状況のもと、次第に増していく悲観的な貿易の見込みという一つの主な原因に駆り立てられていた」と結論づけている。

すなわち、石油等の天然資源の大部分をアメリカから輸入していた日本は、アメリカからの石油全面禁輸を受けて、経済的相互依存について暗い見通しを抱くに至り、戦争をするしか国家の生存を確保することはできない、と考えるようになったというわけである。

■帝国主義化が太平洋戦争の原因なのか

コンストラクティヴィズム(構成主義)の視点からすると、明治維新以降、日本は「社会化(socialization)」によって、西洋列強の帝国主義を内面化するに至り、その一つの帰結が太平洋戦争だったということになる。

江戸幕府による鎖国政策が続いた後、ペリーの黒船来航を契機として、日本は国際システムの社会化の波にさらされることになった。当時の国際政治では権力政治がスタンダードな規範であり、西洋列強は帝国主義を掲げて、アジア・アフリカ等の非西洋圏の国々を次々と植民地化していった。

その結果、植民地を保有して、領土を拡大していくことが国際的地位の確立にとって重要となり、日本も脱亜入欧、富国強兵を掲げて、先進的な西洋列強の帝国主義を模倣していったのである。

このようにして、リベラリズムとコンストラクティヴィズムは太平洋戦争の原因について、各々興味深い説明を提供してくれるが、戦争の原因について、これまで最も多くの研究を残してきたのはリアリズムである。

リアリズムは、トゥキュディディディス、マキャベリ、ホッブズ、モーゲンソー、ウォルツ、ミアシャイマーと連なる国際政治学におけるもっとも有力なパラダイムである。

リアリズムにおいては、国際システムのアナーキー(無政府状態)、権力政治(権力をめぐる闘争)、部族主義(tribalism:個人でなく集団が主要単位)といった考え方が前提とされる。そこで、本稿ではこのリアリズムの視点から、なぜ日本は太平洋戦争に踏み切ったのか、という重要な問いを再考していきたい。

■戦前にとりえた3つのオプション

1937年に盧溝橋事件が勃発すると、近衛政権はそれをエスカレーションさせて、終戦の1945年まで続く日中戦争の泥沼にはまった。これにより、日本は中国への進出を本格化させたのだが、同時に、中国国民党を支持するアメリカと外交的に対立することになる。

1940年、フランスがヒトラーに敗れた後、日本はその機会に乗じて仏領インドシナへの支配を拡大した。この時、日本がとりうる戦略には、大別すると、3つのオプションがあった。

ナチスによる火災後のオラドゥール・シュル・グラヌの村の一部の遺跡
写真=iStock.com/gemadrun
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gemadrun

第一のオプションは北進、すなわち、対ソ侵攻である。既に満州の国境沿いでは、ノモンハン事件として知られる、日本軍とソ連軍の間に軍国主義的な衝突が起きていたため、日本のエリートたちは、満州の国境沿いで日ソ戦争が再び起きるのではないかと心配していた。

もっとも、こうした懸念が1940年から1941年に松岡外相により追求された四国協商構想(日本、ドイツ、ソ連、イタリア四国の間の協商)の背後にあったのだが、1941年6月22日にヒトラーがソ連に対して不可侵条約を無視して侵攻を始めたことで、日本の対ソ和解の戦略的意義は事実上失われることになる。

第二と第三のオプションは実際に採用されたものである。第二のオプションは、南進して、日本が必要とする石油を持つオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領することである。

第三は、対米開戦という最もリスクが高いオプションである。それでは、なぜ日本は約8倍の潜在国力を有するアメリカに対する、勝ち目のない戦争に踏み切ったのだろうか。以下では、太平洋戦争の起源をめぐる、①国際システムの三極構造、②脅威に対するバランシング、③ログローリングと「帝国の幻想」、という三つのリアリスト的説明を紹介したい。

■アメリカ・ソ連・ドイツの三つ巴になっていた太平洋戦争前夜

1920年代におけるワシントン体制下の相対的安定期の後、ソ連は大幅な軍拡(1928~1935年)を図り、1933年にドイツでは現状打破志向のヒトラー政権が誕生した。

1935年になると国際システムは、現状打破の極(独・ソ)が現状維持の極(米)に対して、優位でかつ不安定な三極構造に変化する。すなわち、太平洋戦争に至るこの時、国際システムの相対的パワーの分布についていえば、アメリカとソ連とドイツが三つ巴の状況にあったのである。

新古典派リアリストのランドール・シュウェラー(Randall L. Schweller)によれば、国際システムにおける三極構造(tripolarity)は本質的に危険である。なぜなら、三極構造においては、二極が手を組んで、残りの一極を攻撃するインセンティブが高いからである。

このことを論証したシュウェラーの著書『致命的な不均衡(Deadly imbalance)』は、そのタイトルからして、まさに三極構造の危険性を的確に表していよう。なお、シュウェラーは、①国際システムの三極構造と、②ヒトラーの現状打破的動機が組み合わさって、第二次世界大戦が勃発したと論じている。

国際システムの三極構造の下、日本は日独防共協定(1936年11月25日)と日独伊防共協定(1937年11月6日)を締結して諸外国に対して、国際協調路線を捨てて枢軸陣営へ参入した印象を強く与えていく。

■太平洋戦争を決定づけた日独伊三国同盟

その後、日本の東亜新秩序声明(1938年11月)および北部仏印進駐(1940年9月)、アメリカの日米通商航海条約廃棄通告(1939年7月)および石油と屑鉄の輸出許可制(1940年7月)を経て、日独伊三国同盟(1940年9月27日)、日ソ中立条約(1941年4月13日)が締結され、真珠湾奇襲に至る。

ここで注目したいのは、日独伊三国軍事同盟が形成された時点で、国際システムは日本、ドイツ、イタリアの枢軸国側と、アメリカ、イギリス、フランスの連合国側に明示的に二分されたということである。

このことから、国際システムの構造レベルで考えたとき、太平洋戦争の回帰不能点(point of no return)の一つは、日独伊三国軍事同盟が締結された時点にあったと考えられる。つまるところ、システムレベルでいえば、①三極構造が本質的に不安定であることに加えて、②1940年の時点で、国際政治の勢力図が枢軸国側と連合国側に明示的に分かれたことが、太平洋戦争の原因と考えられるのである。

■アメリカという脅威に対抗するための同盟締結

他方、国内の指導者たちの認識に視点を移せば、日本のエリートたちは、国内経済を維持するために、原材料・資源へのアクセスを維持することに苦心していた。世界恐慌で日本の貿易が減少すると、日本人はこのままでは将来が暗いと心配した。

この点をもってコープランドが、貿易に関する将来の悲観的な見込みが、太平洋戦争の主な原因だったと論じていることは、冒頭に示した通りである。この経済的苦境を打破すべく、日本は「大東亜共栄圏」構想を提唱して、アジアの地域覇権を掌握しようとした。

地球儀
写真=iStock.com/fpdress
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fpdress

日本の指導者たちは、この地域覇権を確立するというグランド・ストラテジーによって、太平洋の主要な海軍力を持つ英国や米国などの西側諸国からの脅威に対抗できると考えたのである。

こうした点について、リアリストの川崎剛は、スティーブン・ウォルト(Stephen Martin Walt)の脅威均衡理論(balance of threat theory)に基づいて、当時の日本はアメリカという脅威にバランシング(balancing)を図っていたのだと説いている。バランシングとは、敵国に対して、同盟形成や軍事拡張などを通じて対抗することを意味する。

たとえば、松岡外相は日独伊三国軍事同盟締結に向けて、国内の反対派を説得するために、9月14日の大本営政府連絡懇談会で以下のように説いている。

独伊と英米と結ぶ手も全然不可能とは考えぬ。しかしそのためには支那事変は米のいうとおり処理し、東亜新秩序等の望みはやめ、少なくとも半世紀の間は英米に頭を下げるならいい。それで国民は承知するか、十万の英霊は満足できるか。かつまた仮りに英米側につくと、一時は物資に苦しまぬが、前大戦のあとでアンナ目に会ったのだから、今度はドンナ目に合うかわからぬ。いわんや蔣は抗日でなく、侮日排日はいっそう強くなる。ちゅうブラリンでは行かぬ。すなわち米との提携は考えられぬ。残された道は独伊提携以外になし。

ここから読みとれることは、松岡外相は英米という脅威に対してバランシングするために、独伊と同盟を締結することを主張していた、ということである。

■国内的な要因を論じる「防御的リアリズム」

もっとも、歴史的に見れば、太平洋戦争の起源は国際システムレベルのみならず、国内的にも見出すことができるかもしれない。

日本は東アジアに重点を置き、ヨーロッパの問題には深く関与しておらず、1920年代に議会民主主義を発展させたが、1930年代になると、軍部と好戦的な文民が政府において大きな力を占めるようになり、彼らの帝国主義的な拡大政策は、広く大衆の支持を得た。

ここで重要なことは、戦争は、国際システムの構造的要因——相対的パワーの分布、同盟関係など——のみならず、国内要因によっても引き起こされるということである。

場合によっては、システムレベルから考えたら、非合理的な国家行動が、国内における様々な歪み——軍国主義、陸海軍間抗争、官僚政治、誤認識、その他——によっても引き起こされる。こうした点を論じるのが、リアリズムの一派、防御的リアリズム(defensive realism)である。

■民衆の前で「帝国の幻想」を語った近衛文麿

防御的リアリストのスナイダーは、戦前の日本では好戦的なエリートが「帝国の幻想(myth of empire)」を喧伝し、陸軍と海軍の間で予算獲得をめぐるログローリング(logrolling)がなされていたと論じている。

たとえば、1937年9月11日、日中戦争が拡大していくなかで、近衛首相は日比谷公会堂で行われた国民精神総動員大演説会で、以下のような「帝国の幻想」を誇張して、満員の聴衆に向け国民一丸となり戦うことを求めている。

東洋百年の大計の為にこれ(中国——筆者注)に一大鉄槌を加へまして、直ちに抗日勢力の依(よ)つて以(も)つて立つ所の根源を破壊し、徹底的実物教育に依(よ)つてその戦意を喪失せしめ、然(しか)る後に於(おい)て支那の健全分子に活路を与へまして、これと手を握って俯仰天地に愧(は)ぢざる東洋平和の恒久的組織を確立する必要に迫られて来たのであります。

以上、なぜ日本が太平洋戦争という負け戦に踏み切ったのかというパズルに、リアリズムの視点——①国際システムの三極構造、②脅威に対するバランシング、③ログローリングと「帝国の幻想」、から答えてきた。

ところが、ここで読者の中には、第二次世界大戦で日本が勝つシナリオはあったのか、あるいは対米戦争を回避する手立てはあったのだろうか、といった素朴な疑問を抱くものもいるかもしれない。

こうした問いに答えるのが、政治学者のリチャード・ネッド・ルボウらが提示する「反実仮想(counterfactual thought)」という方法論である。そこで、最後に、この反実仮想に基づき、第二次世界大戦の帰趨(きすう)について想定されるオルタナティブを一つ考えてみよう。

■太平洋戦争を回避できるシナリオはあったのか

すなわち、対米戦が回避されたというシナリオである。これはリアリズムでいえば、「同盟分断理論(wedge theory)」が想定するものであり、日本が同盟分断戦略(wedge strategy)——敵対同盟国間に楔を打ち込む——をとって、アメリカと他の連合国(英仏蘭)の間の分断を図ったというシナリオである。

たとえば、南進や対中進出をするにあたり、英米可分論——アメリカとイギリスを分断できるという戦略的前提——に立ち、アメリカとの直接的な対決を忌避していれば、第二次世界大戦に対するアメリカの介入を防げて、これにより、日本はアジアにおける地域覇権を確立できたかもしれない。

植民地主義を長年とっていたイギリス、オランダ、フランス等の伝統的な西欧列強に対して、アメリカという国際政治における後発の大国には反植民地主義のイデオロギーが根付いていた。さらにはアメリカには、西半球の地域覇権を維持しつつも、他国とは積極的にかかわらないという孤立主義の伝統もあった。

この反植民地主義と孤立主義が蔓延(まんえん)する国内政治・社会的状況の下、真珠湾奇襲のような日本からの直接的な攻撃なくして、イギリスの植民地支配を擁護するために極東の地で日本と戦争することに、アメリカの国民がどこまで賛意を示したのかは疑わしい。

具体的にいえば、インドシナをはじめとする伝統的西洋諸国の植民地を日本が攻撃していったからといって、アメリカの指導者は旧大国の植民地を守るために、コストのかかる対日参戦に向けて国民を説得することはできなかった可能性があるということである。

■植民地の勢力拡大に焦点を当てていれば「勝者」になっていた可能性も

そこで、仮に日本がこの同盟分断理論のロジックに基づき、アメリカとイギリスの間に楔を打ち込む形で、西洋列強の保有する植民地にもっぱら焦点を当てた形で勢力拡大を図っていたら、第二次世界大戦は日本に有利な形で終わった可能性もある。

その際、イデオロギー的な観点で、アメリカの第二次世界大戦介入を抑止するならば、大東亜共栄圏構想における政治的大義——アジアを西欧列強の支配から解放する——を強調するのが有効な政治的レトリックになったであろう。

実際、これが近衛の提唱した大東亜共栄圏構想の中核にある思想の一つだったのだが、日本はこの思想を同盟分断戦略と接合することに失敗したのである。

つまるところ、国際システムにおける勢力均衡という観点からすると、第一次世界大戦がそうであったように、第二次世界大戦の帰結にもアメリカの参戦というものが、決定的な重要性を持っていた。

とりわけ三極構造のもとで、熾烈(しれつ)な独ソ戦により独ソ両国が消耗していく状況においては、国際システムにおけるアメリカの相対的パワーはますます大きくなっていた。

フランクリン・ルーズベルトと飼い犬の像
写真=iStock.com/Yuliya Padina
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yuliya Padina

歴史家のウォーレン・キンボール(Warren F. Kimball)が「ジャグラー(Juggler)」と呼ぶように、巧妙な政治的手腕を有していたフランクリン・ルーズベルトは、このことを一定程度自覚していたため、日本の真珠湾奇襲に乗じて、第二次世界大戦への「裏口からの参戦(back door to war)」を図ったのであろう。

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伊藤 隆太(いとう・りゅうた)
広島大学大学院 人間社会科学研究科助教
コンシリエンス学会学会長。博士(法学)。2009年に慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科前期および後期博士課程修了。同大学大学院研究員および助教、日本国際問題研究所研究員を経て今に至る。政治学、国際関係論、進化学、歴史学、思想、哲学、社会科学方法論など学際的な研究に従事。主な著作は、『進化政治学と国際政治理論 人間の心と戦争をめぐる新たな分析アプローチ』(芙蓉書房出版、2020年)、『進化政治学と戦争 自然科学と社会科学の統合に向けて』(芙蓉書房出版、2021年)。

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(広島大学大学院 人間社会科学研究科助教 伊藤 隆太)

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