「3歳の息子は重石を付けて沈められた」流人になった源頼朝が伊豆で受けた酷い仕打ち
プレジデントオンライン / 2021年12月9日 10時15分
※本稿は、細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■頼朝がナンパ師であったことは間違いない
ヒマ人の頼朝が毎日することは、父義朝はじめ一族の菩提を弔うための読経(だけ)であった(『吾妻鏡』治承4年7月5日条)。金があってヒマで健康な男がやることは決まっている。
ナンパである。
幕府を開いてからの行状を見れば、頼朝がナンパ師であったことは間違い無い。
そして無粋な男ばかりの東国にあって、武士の世界ではトップクラスの血統で、都育ちで、その上「かわいそうな境遇」の頼朝は、さぞやモテたことであろう。
しかし、残念ながら、流人時代に頼朝が引っかけたことがわかるのは、2人である。
まず、今は温泉街で有名な伊東を本拠地とする伊豆最大の豪族伊東祐親の娘(俗に八重と伝える)。
頼朝は祐親が京都に出張中に八重に通じ、男子(俗に千鶴と呼ばれる)をもうけた。
そして安元元年(1175)9月、頼朝29歳の時、事件が起きる(寿永元年2月15日条)。
京都から帰って来た祐親は「伊勢平氏」への聞こえを恐れ、頼朝と八重を別れさせ、家臣に孫である千鶴の殺害を命じた。千鶴は簀巻きにされて重石を付けられ、生きたまま松川(伊東大川)の淵に沈められた(『源平闘諍録』など)。3歳だったという。
■最期まで解決しなかった八重の父との確執
祖父によって葬られた千鶴。この子を偲ぶ歌があるので、紹介しておこう(私はこの歌を『歴史読本』昭和56年10月号159頁に載っている中村吾郎氏作と思われるコラム「頼朝の悲恋」で知ったのであるが、元ネタがわからない。ご存知の方はご教示をお願いしたい)。
千鶴可愛や世が世であれば
六十余州の天下の跡目
誰をまつ川 流れも清く
お湯で賑う伊東町
頼朝は、またしても肉親を失った。
頼朝の悲しみと怒りも深かったであろうが、娘を傷物にされ、孫を殺すハメになった祐親は当然のことながら怒り狂い、頼朝殺害を謀る。だが、頼朝は祐親の息子九郎の急報を受け、伊豆山神社(伊豆大権現、走湯大権現、伊豆山、走湯山)に逃げ込み、危うく難を逃れたのであった。
この事件が祐親を悲劇的な運命に導く。
頼朝挙兵後、祐親は平家方として頼朝と敵対し、頼朝の鎌倉入りから13日後、捕虜となった(治承4年10月19日条)。2年後、頼朝は祐親を許そうとするが、それを聞いた祐親はかえってこれを恥辱とし、自刃して果てるのである(寿永元年2月14日条)。
そして頼朝が次にチョッカイを出したのこそ、北条時政の娘政子であった。
■北条時政も政子と頼朝の仲を認めなかった
ちなみに、実は政子が政子を名乗るのは頼朝の没後(政子62歳の建保6年4月14日、従三位叙位の時)であり、よって頼朝は政子を「政子」と呼んだことは一度も無いのであるが、この本では他に呼びようがないので最初から政子で通す。
時政の本拠地北条は、蛭ヶ小島のすぐ近所である。北条氏は兵力、伊東氏の10分の1以下、多目に見積もっても30騎に満たない土豪である。
頼朝は時政の京都出張中に政子に手を付けた。八重と全く同じパターンなのに呆れる。どうも頼朝は、こと女性関係では失敗から学ぶという機能を持ち合わせていなかったらしい。
帰郷した時政は伊東祐親と同様に2人の仲を裂いた。政子を別の男に嫁がせたのである。
このことから、伊豆の武士たちにとって、頼朝が厄介な存在であったことが理解される。頼朝は武士としては最高級の血統であるから、伊豆を含めた東国の武士たちは敬意を持って接していたが、大切にしているからとて、では、婿に迎えるかと言えば、話は別である。貴種の血統は利用価値もあろうが、利用するには危険な存在であった。
■それでも政子はあきらめず、頼朝のもとへ
こうして頼朝は再び妻を失った。頼朝にしてみれば、「またダメだったか」程度のことだったかもしれない。
しかし、政子は違った。彼女は八重とは異なって自身の感情に従い父の意志を振り切って、頼朝のもとに奔ったのである。後に政子はこの時のことについて頼朝に向かい、
「暗い夜に道に迷い、ひどい雨に濡れながら、あなたのところに行ったじゃない」
(暗夜に迷い、深雨を凌ぎ、君の所に到る)
と言っている(文治2年4月8日条)。
頼朝と政子は、伊豆山神社に逃げ込み、伊豆山に保護された。手に手を取って二人で伊豆山に向かったのか、頼朝が転がり込んでいた伊豆山に政子が来たのかはわからないが、とにかく頼朝はまたも伊豆山を頼ったのである。
![日本の鳥居](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/7/670/img_e77c0c74323988e6df852c817c893b0f400001.jpg)
伊豆山神社は奈良時代創建と伝える修験道の聖地であり、平安時代末期には、伊豆はもちろん、東国一帯から篤い信仰を集めていた。また、武力として多数の衆徒(いわゆる僧兵だが、僧兵は江戸時代の言葉)を抱えていた。宗教的権威としても、現実の軍事力の面でも、伊豆山神社の庇護下に入った者には、何者もおいそれと手出しはできない。頼朝は二度も伊豆山神社のお世話になったが、その選択は正しいと言うより、当然であった。
■ようやく血の繋がった家族を得た頼朝
かくて時政は頼朝を婿と認めた。当時の伊豆では伊東氏の勢力が突出しており、これは時政にとって頭の痛い問題であった。頼朝は厄介な存在であるが、同時に「河内源氏」の貴種性は魅力でもあった。頼朝を婿とすることは、伊東氏に対する防波堤として(多少は)役立つと、時政は考えたのではないか。
だが、時政は祐親と同じく一度は頼朝と政子を別れさせたのであるから、頼朝を婿としたことは、あくまでも政子のガンコさに、仕方なく時政が折れた結果である。頼朝の貴種性の利用は後付に過ぎない。よって、時政に先見性を認めることは到底できない。頼朝が北条氏の婿となれたのは、偏に政子がガンバッたからである。八重と政子の性格を含め何かが違えば、時政は伊東祐親と同じ運命を辿ったか、時政と祐親の立場は入れ替わっていたかもしれないのだ。
やがて頼朝・政子夫妻には娘、大姫が生まれる。平治の乱による運命の激変後、やっと頼朝は血の繋がった家族を得たのであった。
![子供の手](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/4/3/670/img_430c5080ce0f8050782f6ae46380b018328447.jpg)
■頼朝を婿として受け入れた北条ファミリー
大姫の誕生は、治承2年または3年(1178、1179)と推定されているが、私は3年と考えている。頼朝は同年3月2日、武蔵国比企郡の慈光寺という寺院に自分の名を刻んだ梵鐘を寄進している。これが政子の安産祈願で、生まれたのが大姫と推定するからである。よって、時政帰郷後の騒動は同2年となる。軍記物の妙本寺本『曽我物語』は、頼朝夫妻の伊豆山参籠を治承2年11月とする。
軍記物語はいわば戦争小説であり、その記事は信用度が低いとされ、妙本寺本『曽我物語』の記す年月日もほとんどがデタラメであるが、頼朝夫妻参籠の日時は、いい線行っているのではないかと思う。この推定が正しければ、配流から18年後、頼朝32歳、政子22歳の時のこととなる。
北条一家は当時、政子の父、時政。時政の嫡子(跡継ぎ候補)である宗時。庶子(嫡子以外の子)で政子・宗時の弟、義時。義時のさらに弟で、やはり庶子の五郎(後の時房)。これに、時政の従弟とも甥とも伝える時定がいた。
女の子、つまり政子の妹は、次の4人がいずれも生年未詳であるが、活動時期などから治承2年以前に生まれていたはずである。
(2)時期不明だが頼朝の異母弟、阿野全成の妻となり、建久3年(1192)8月9日、実朝誕生の当日に乳母に選ばれた、阿波局と呼ばれた娘。
(3)武蔵秩父党有力者、稲毛重成の妻となって稲毛女房と呼ばれ、建久6年7月4日に没した娘。
(4)武蔵秩父党有力者、平姓畠山重忠の妻となって重保を生み、重忠・重保滅亡後に義兄(姉の夫)足利義兼の子義純に嫁いで、室町幕府管領家となる源姓畠山氏初代、泰国を生んだ娘。
■頼朝一族には「伊豆源氏」という未来もあった
時政の妻は、前田本『平氏系図』が義時の母を「伊東入道女」と記しており、『工藤二階堂系図』の伊東祐親の項に「伊東入道」とあるので、義時の母、つまり時政の妻は伊東祐親の娘と推定される。家柄からして、この人が時政の正妻であろう。政子と義時は六歳違いなので、政子・宗時の母でもあったと考えられる。
![細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/a/200/img_3a55f5603d30820ec60780c8908455c7273794.jpg)
だが、彼女について『吾妻鏡』は一言も語らないので、頼朝と政子が付き合い始めた頃には、没していたと考えられる。政子と時房は18歳違いなので、時房もこの女性の子であれば、当時としては高齢出産であり、時房の出産が難産で没した可能性も考えられよう。
治承2年の北条一家の年齢を記すと、頼朝の舅である時政は頼朝の9歳上の41歳。宗時は生年未詳だが、政子と義時が6歳違いなので、宗時も政子の弟であろう。義時は16歳。時房はまだ元服前の4歳。時定は34歳。政子の妹たちはいずれも生年未詳だが、畠山重忠の嫁については、私は8歳くらいであろうと推定している。
武士団の構成員は、惣領(当主。主人)、惣領と血縁のある家子、惣領と血縁の無いただの家臣(郎従など)に分かれる。同年の北条氏武士団は、惣領が時政、宗時・義時・時定が家子(時房は4歳なので)。家臣の人数は不明だが、惣領時政と家子3人を含めて、総勢二十数騎程度であったと、私は考えている。
頼朝は30を過ぎて初めて家庭を持った。1170年代末、気の強い妻政子の奮闘により、頼朝はささやかではあるが未来への希望を手にしたのであった。
このまま行けば、頼朝は伊豆の土豪北条氏の婿として生涯を送り、頼朝の子頼家・実朝の子孫は清和源氏の一系統、いわば「伊豆源氏」として細々と存続したかもしれない。このアナザーワールドでは、きっと大姫の悲劇も無かっただろう。こちらの運命の方が、あるいは頼朝一家は幸福であったのか。しかし、これは「もしも」の話である。
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歴史学者
1962年、東京都生まれ。東洋大学大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了、立正大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程満期退学。博士(文学・立正大学)。専攻は日本中世政治史。著書に『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館)、『執権 北条氏と鎌倉幕府』(講談社)など。
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(歴史学者 細川 重男)
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