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「1185年でも1192年でもない」源頼朝をトップとする鎌倉幕府が成立した本当のタイミング

プレジデントオンライン / 2021年12月13日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/brytta

平氏打倒に向けて挙兵した源頼朝は富士川の戦いで勝利し、大軍を率いて鎌倉に到着した。歴史学者の細川重男さんは「反乱軍のボスだった頼朝が、鎌倉幕府トップの呼称となる『鎌倉殿』になったのは1180年12月だ。学説はさまざまあるが、鎌倉幕府自体は、この日を成立と考えていたようだ」という——。

※本稿は、細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

■「それなりの町」だった鎌倉に武士が押し寄せた

さて、頼朝たちがやって来た当時の鎌倉の地について、『吾妻鏡』は、漁師などしか住んでいない辺鄙な田舎。〔所はもとより辺鄙にして、海人・野叟(田舎者)のほかは、卜居の類これ少なし〕とド田舎だったように記している〔治承4年(1180)12月12日条〕。

しかし、これは言い過ぎである。

鎌倉は、源頼義が岳父(妻の父)平直方から譲られて以来の「河内源氏」の根拠地であり、寺院も複数建てられている、それなりの町であった。ちなみに、このような場所を現在、歴史学界では「都市的な場」(分かり易く言い換えれば、「都市っぽい場所」)という、考えてみると意味のよくわからない言い方で呼んでいる。

だが、頼朝の鎌倉入りが、鎌倉の町の様相を激変させたのは間違いない。

鎌倉入りの時点で、頼朝は相模・武蔵・安房・上総・下総の南坂東五カ国に伊豆を加えた六カ国を支配下に収めていたので、この地域の各地から、いきなり武士たちが鎌倉に押し寄せて来たのであり、人口は突然激増した。

■鎌倉入りした3日後には幕府築造に着手

その後、頼朝とは別個に兵を挙げた甲斐源氏(頼朝の先祖義家の弟義光流)との同盟が成立すると、甲斐源氏が支配下に置いた甲斐・信濃・駿河・遠江の甲信・東海地域も頼朝の版図に加わり、さらに頼朝の支配が上野・下野・常陸の北坂東3カ国にも伸びると、これら地域からも、武士たちが鎌倉に来住するようになった。

頼朝の支配領域が拡大すると共に、鎌倉の人口増は続いたのである。

10月6日に鎌倉に入った頼朝は、9日に屋敷(つまり、建造物としての幕府)の築造を開始。12日には鶴岡八幡宮の小林郷北山(現在、鶴岡八幡宮がある地)への移転・新造を開始した。

武士たちも各々の屋敷を建築し始める。

その後、鎌倉では道路の修造、寺院の建立など町作りが着々と進められた。

元暦元年(1184)11月26日からは、頼朝の父義朝の菩提を弔う勝長寿院(大御堂・南御堂)の建立が開始された。

奥州合戦後の文治5年(1189)12月9日からは、鎌倉北東の谷戸(鎌倉に多い山と山との間の谷間)一つを全て寺域とする永福寺の建立が開始された。平泉にあった二階建て寺院を模したもので、永福寺は「二階堂」と通称され、やがて永福寺の周辺地域自体が二階堂と呼ばれるようになった。頼朝親戚の文士藤原行政の屋敷がこの地域にあったため、行政の子孫は二階堂氏と呼ばれるようになる。

このように鎌倉の町作り、「都市鎌倉」の建設は、頼朝の時代を通じて続けられて行くのである。

■頼朝が「鎌倉の大親分」になった瞬間

鎌倉入りの2カ月後、治承4年12月12日、完成した新邸への頼朝の引っ越しの儀式「御移徙之儀」が挙行された。

ここが「大倉御所」とか「大倉幕府」と呼ばれる建造物としての最初の幕府である(その後、鎌倉時代に幕府は二度引っ越している)。

出仕した者は、311人。

この儀式について、『吾妻鏡』は次のように記している。

しかりしより以降、東国皆その有道を見て、推して鎌倉主となす。

現代語訳すれば、

「この時より以降、東国の武士たちは皆、頼朝の道理あることを知って、担ぎ上げて『鎌倉主』とした」

となる。さらにわかり易く意訳すれば、

「この時から、東国の武士たちは、頼朝の器量を知り、皆で担いで『鎌倉主』とした」というような感じである。

「鎌倉主」、そして後に鎌倉幕府首長の呼称となる「鎌倉殿」は、直訳すれば「鎌倉に住んでいる偉い人」・「鎌倉にお住まいの身分の高い御方」という意味になるが、この頃の頼朝の立場や武士たちの感覚をも考慮して意訳すれば、「鎌倉の大親分」・「鎌倉に住んでるオレたちの大親分」というのが適切であろう。

当時の頼朝の公的な立場は、無位無官の「ただの流人」・「反政府武装勢力(反乱軍)のボス」であり、公権力(朝廷)から見れば犯罪者以外の何モノでもなく、まったくもって武士たちが勝手に担いだだけの存在だったのである。

実際、頼朝側も治承4年(1180)の挙兵以来、1181年の治承から養和へ、82年の養和から寿永への安徳天皇の下での改元を拒否し、寿永2年まで治承年号を使い続けていた。年号を拒否するということは、それを定めた天皇(皇帝)の支配を認めないという意思表示であり、頼朝は自分が反乱軍のボスであることを自ら認めていたと言える。

■鎌倉幕府が成立したのは「1180年12月12日」

また、『吾妻鏡』が右の一文を記していることは、鎌倉幕府自身がこの頼朝の大倉邸入りをもって、鎌倉幕府の正式なスタートであったと考えていたことを示している。

と言うのは、『吾妻鏡』は、いつ誰が作ったのかを明記する史料の存在しない書物であるが、内容から鎌倉時代後期に鎌倉幕府自身が編纂した鎌倉幕府の公的史書であることは明白だからである。

現在、鎌倉幕府成立には1180年・1183年・1185年などの諸学説がある。これは、それぞれの説を推す歴史研究者が「鎌倉幕府をいかなる権力体と考えるか」によって、成立の基準が異なるからである。これら学説は学説として、上の一文からすれば、鎌倉幕府ご本人は、

「治承4年(1180)12月12日、オレたちは『オギャー!』と産声を上げたのだ」

と思っていたこと、鎌倉幕府の成立をこの日と考えていたことを示している。

そして、「鎌倉主」・「鎌倉殿」という呼称は、朝廷官職である征夷大将軍とは異なる、武士たちとの関係から生まれた頼朝(及びその後継者たち)の呼称なのであった(むしろ、鎌倉殿が天皇から与えられる官職が征夷大将軍であると言った方が正確である)。

■御家人と頼朝は一緒に鎌倉の町を作った

寿永元年(1182)3月15日、鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至る道の曲がりくねりを直して、参詣のための道路の修造が始まった。

鎌倉のメインストリート「若宮大路」である。

以前から計画していたものの延び延びになってしまっていたのであるが、妻・政子の安産(8月12日に頼家が生まれる)を祈るために修造を開始したのであった。この時の様子を『吾妻鏡』は、次のように記している。

武衛手ずから、これを沙汰せしめたもう。よって北条殿已下、おのおの土石を運ばるとうんぬん。

現代語訳は、次のようになる。

「御所(頼朝)は自らこの工事の指揮を取られた。そこで北条殿(時政)以下の人々がそれぞれ土や石を運んだということである」

頼朝の陣頭指揮の下、御家人たちは自らの手で土や石を運び、若宮大路を作ったのである。もちろん、これは儀式であり、本格的な工事は専門業者や人夫がやったであろう。しかし、この儀式は極めて重要な意味を持つ。

「御家人たちは、頼朝と共に自分たちの手で鎌倉の町を作った」ことを象徴するからである。

鶴岡八幡宮の鳥居
写真=iStock.com/bennymarty
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bennymarty

■頼朝の京都行きを止めた御家人トップ3

とは言え、鎌倉入りの時点で、頼朝自身が鎌倉をどの程度まで拠点とするつもりでいたのかは、かなり微妙である。

鎌倉入りから15日後の治承4年10月21日、反乱軍討伐に東下して来た平維盛軍が前日20日の駿府富士川合戦で甲斐源氏に敗走すると、同国賀島まで出陣していた頼朝は維盛を追って上洛(京都に行くこと)しょうとしているからである。

だが、頼朝の上洛命令に対して、千葉常胤・三浦義澄・上総広常という当時の御家人トップ3が、坂東を平定した後に西に向かうべきことを進言して諫め、頼朝は彼らの意見を受け入れて相模に戻った。

頼朝が取ろうとした行動は、寿永2年(1183)5月、越中・加賀国境、倶利伽羅峠(現・富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町)合戦(砺波山合戦)で平維盛軍を破った木曽義仲が敗走する維盛軍を追って京都を目指したのと、全く同じである。

鎌倉入りの頃には、頼朝は確固たる政権構想を持っていなかったことがよくわかる。そして頼朝が2年半後の義仲同様に、治承4年10月時点で上洛していたならば、どのような結果となったであろうか。

常胤ら3人組が主張したように、この時点では北坂東には常陸の佐竹氏(清和源氏義光流)など強大な敵対勢力が存在したのであり、さらにその背後には奥州藤原氏があった。

頼朝は坂東の経営に失敗した可能性がある。

また、シャニムニ京都に突入した義仲の末路は、上洛した場合の頼朝の運命を推測するのに役立つであろう。

三大豪族の言葉に従ったことは、頼朝にとって正しい判断であったと言えよう。しかし、これは仮定の話である。むしろ、ここで注目すべきは、頼朝が自己の意志を曲げ、三大豪族の意見に従ったという事実そのものである。

■朝廷への謀叛に当たっても「坂東にいてほしい」

『愚管抄』によれば、上総広常は頼朝に向かい、

「どうして朝廷のことばっか、そんなにみっともないほど気にするンすか? こうして坂東にいりゃ、誰も、御所をコキ使うことなんかできゃしませんよ」
(ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ、誰カハ引ハタラカサン)

と言ったという。

頼朝はこの発言を広常の朝廷への「謀叛心」を示すものだとし、それゆえに広常を粛清したと朝廷側に述べている。だが、実際には頼朝は広常の言ったとおり、坂東にあり続け、それによって成功したことは言うまでもない。

これは、広常のみの気持ちではないだろう。御家人たちは、頼朝に自分たちと共に坂東にいることをこそ願っていたのではないか。

そもそも千葉常胤も進言したことを併せ考えれば、鎌倉を拠点とすることは、頼朝よりも、むしろ彼を担いだ御家人たちの希望であったと言えるのではないだろうか。

■頼朝が鎌倉を拠点に選んだ本当の理由

頼朝は鎌倉幕府の樹立を「事の草創」(治承4年8月17日条)・「天下の草創」(文治元年12月6日条・『玉葉』文治元年12月27日条)と称している。しかし、追い詰められた末の挙兵や富士川合戦後の言動を見ると、少なくとも治承4年時点では、頼朝には自分が何を築こうとしているのか、具体的な構想があったとは思われない。

細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)
細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)

また御家人たちにしても、自分たちの望みを具体的に意識してはいなかったであろう。

朝廷の存在は当時の人々にとって絶対的な常識であり、武士たちは与えられれば喜んで官職に任官し、その栄誉に歓喜した。そのような武士たちに、朝廷打倒とか新国家樹立といった発想が浮かぶはずがない。

けれども、『愚管抄』に残された広常の言葉から、御家人たちの希望が「相対的な朝廷からの自立」であったことは、朧気ながら理解できるのではないか。

朝廷の重圧に悩みながら、お互いに抗争を繰り返していた武士たちには、団結して大集団を築くという発想すらも浮かばなかったことであろう。しかし、彼らは無意識下で、それを願っていた。だからこそ、頼朝が隅田川を越えた時、雪崩のごとく頼朝の下に結集したのではなかったか。

そして頼朝は御家人たちの潜在的な希望を汲み取り、それに添って鎌倉を拠点とし、鎌倉の町を築いたのである。

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細川 重男(ほそかわ・しげお)
歴史学者
1962年、東京都生まれ。東洋大学大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了、立正大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程満期退学。博士(文学・立正大学)。専攻は日本中世政治史。著書に『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館)、『執権 北条氏と鎌倉幕府』(講談社)など。

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(歴史学者 細川 重男)

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