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「妻・政子は愛人の住む屋敷を破壊」教科書には載っていない源頼朝のあきれた浮気癖

プレジデントオンライン / 2021年12月15日 10時15分

画像=菊池容斎/public domain/Wikimedia Commons

鎌倉幕府を築いた源頼朝と妻・北条政子はどのような夫婦だったのか。歴史学者の細川重男さんは「頼朝は浮気癖がひどく、政子のヤキモチ焼きに親類や家臣はいつも振り回されていた。このことがよくわかる有名なエピソードがある」という——。

※本稿は、細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

■有名だけど詳しく語られていない「亀前事件」

寿永元年(1182)6月1日。頼朝は中原光家の屋敷に愛人である亀前を住まわせることにした。光家は小野田盛長や藤原邦通と同じく流人時代からの家臣であり、主人の浮気の片棒も担ぐのである。

この亀前を巡って勃発したのが、いわゆる「亀前事件」である。

この事件は、頼朝や政子をはじめとする北条一家の人々の性格がよくわかるし、それよりナニよりオモシロいので、チョッと詳しく紹介してみる。

と言うか、亀前事件は鎌倉幕府の概説書や頼朝の伝記でも取り上げられることが多く、割と有名なのだが、どの本も大筋を記すだけである。概説書や頼朝伝のこれまでの作者は、どうしてこんなオモシロい話を詳しく書かなかったか、不思議である。で、『吾妻鏡』寿永元年6月1日条は、この亀前について、武衛御寵愛の妾女(亀前と号す)をもって、小中太光家が小窪の宅に招請したもう。御中通の際、外聞の憚り有るによって、居を遠境に構えらるるとうんぬん。かつがつ、此の所、御浜出に便宜の地たりとうんぬん。この妾は、良橋太郎入道が息女なり。豆州の御旅居より、眤近したてまつる。顏貌の濃やかなるのみにあらず、心操、殊に柔和なり。去んぬる春の比より、御密通。日を追いて御寵、甚しとうんぬん。

[意訳]御所(頼朝)は大変可愛がっている亀前という愛人を中原小中太(光家)の小窪(小坪の誤。現・神奈川県逗子市小坪)の家にお招きになった。密通に行く時、噂になるのがイヤで、亀前の住居を鎌倉から遠くになさったということである。同時に、ここは御所が由比ヶ浜にお出での際、通うのに便利な場所であったということだ。

この愛人は良橋太郎入道という者の娘で、御所が伊豆にお住まいの時から、親しんでいたということである。亀前は見た目がかわいいだけでなく、とても優しい娘であった。今年の春(正月~3月)頃から浮気が始まり、御所のお可愛がりようは、日に日に度を越えて行ったということである。

■じゃじゃ馬の政子とは真逆のタイプの愛人

小坪は鎌倉の近所であるが、間に険しい尾根がある。なにしろ、この尾根の付近の地名は名越で、これは「難越」が語源であると言われているほどである。そのため、陸路で行くのは厳しいが、由比ヶ浜から舟で行けば、すぐである。頼朝はうまい所に目を付けたものである。

亀前は可愛いうえに優しい娘だったとのことだが、政子は顔はよくわからないものの、言うまでも無くじゃじゃ馬である。頼朝は嫁とは真逆のタイプを愛人にしたわけで、古今東西、よくあるパターンである。

また、頼朝の亀前との浮気は、寿永元年の春(正月~3月)から再開したとのことだが、8月12日に長男頼家が生まれるから、頼朝の浮気は政子の妊娠中である。これもまた、よくある話である。ベタ過ぎである。

それにしても、原文は『吾妻鏡』特有のムダに格調高い和様漢文(日本風の漢文。つまり文法の間違った漢文)であるが、内容は週刊誌やインターネットの下世話なゴシップネタそのものである。

■浮気を知った政子は屋敷を叩き壊させた

話が逸れたが、その後、頼朝は亀前を伏見広綱という者の屋敷に移した。

広綱は5月12日に遠江国掛河から鎌倉にやって来て、頼朝に初参(貴人に初めてお会いすること)し、右筆(字を書く係)として仕えたばかりであった。

亀前が移り住んだ広綱の屋敷は、由比ヶ浜に面した鎌倉の東の外れ、飯島にあった。直線距離なら、小坪のすぐ西隣であるが、鎌倉府内である。小坪より遥かに通い易いが、政子にバレる危険も遥かに高い。しかし、頼朝は欲望を抑えられなかったようである。

そして案の定、バレた。

勘付いたのは、頼朝の舅北条時政の後妻、牧方である。

牧方は早速、義理の娘政子(と言っても、おそらく牧方の方が年下)に、ご注進に及んだのであった。

激怒した政子は、11月10日、義理の祖父にあたる牧宗親(牧方の父)に命じて、伏見の屋敷を叩き壊させた。家一軒、ブチ壊させたのである。

ずいぶんと過激な行動に出たものであるが、「後妻打ち」といって、この時代の女性には夫の他の妻妾に対して暴力的行動に出る人は多数おり、政子もその一人であったのである。まァさすがに、ここまでやった事例は他にチョット聞かないが。

■「こういう時はまず、こっそりオレに知らせろ」

恐い目にあった亀前は伏見広綱に連れられ、三浦氏の一族である大多和義久の鐙摺(あぶずり)にある家に避難した。鐙摺は前に亀前がいた小坪のすぐ近く、三浦半島の根元(現・神奈川県三浦郡葉山町。現在の葉山マリーナ付近)である。

2日後の12日、頼朝は牧宗親を連れて鐙摺の大多和の屋敷を訪れると、衆人環視の中で宗親を怒鳴りつけた。

「御台を重んじたのは結構なことだ。だけど、御台の命令に従うといっても、こういう時は、まず、こっそりオレに知らせろよ。すぐに亀前に恥をかかせるとは、まったくもって、どういうつもりだ?」〔御台所(奥様。政子のこと)を重んじ奉る事においては、尤も神妙なり。ただし彼の御命に順うといえども、かくのごとき事は内々なんぞ告げ申さざるや。たちまちにもって恥辱を与えるの条、所存の企て甚だもって奇怪〕

完全無欠の八つ当たりである。「内々なんぞ告げ申さざるや」というセリフも情け無い。

まあ、頼朝にしてみれば、浮気をした自分が悪いのだし、それより何より政子が恐かったのであろう。

宗親は弁解の言葉も恐怖でロレツが廻らず、地面に顔をこすり付けて土下座していたが、頼朝はそんな哀れな宗親の髻(髷)を手ずから切り落としてしまった。

これは極めつけの辱めである。当時、出家していない俗人の成人男子は、人前では常に烏帽子を被っている。烏帽子を脱がすという行為が、そもそも現代であれば衆人環視の中でズボンを脱がす行為に相当する。さらに髻を切るというのは、これは、もうパンツを脱がして、いい大人の尻を叩くに等しい。宗親は泣きながら逃げて行った。

■家にいただけで褒められた時政の息子義時

騒ぎは、これで終わらない。

愛する牧方の父宗親が大恥をかかされたことを知った北条時政が怒った。時政は頼朝が鐙摺から鎌倉に帰って来た14日の夜、頼朝に挨拶も無く、伊豆に引き上げてしまった。

時政のストライキを聞いた頼朝は慌て、時政の子義時が鎌倉に残っているかどうか、梶原景時の息子景季を義時の家に行かせて確認させた。

帰って来た景季が、

「江間(義時のこと)はいましたぜ(江間は下国せざるのよし)」

と報告すると、頼朝はまた、すぐに景季を義時の屋敷に行かせ、夜なのにわざわざ義時を幕府に呼び付けた。そしてやって来た義時に、

「おめェは将来、きっとオレの子孫を守ってくれるだろう(定めて子孫の護りたるべきか)」

と褒め、ただ家にいただけの義時に恩賞まで約束したのであった。義時は、

「恐縮です(畏れたてまつる)」

とだけ言って、家に帰って行った。おそらく寝たであろう。

■政子は恐いが、亀前への浮気はやめなかった

頼朝、浮気。→政子、怒る。→頼朝、怒る。→宗親、泣く。→時政、怒る。→義時、ナンにもしてないのに褒められる。……という実にもってワケのわからない展開なのであるが、家庭内紛争というのは、往々にしてワケのわからない展開を辿るモノである。

手をつなぐ3人
画像=iStock.com/vasilki
※画像はイメージです - 画像=iStock.com/vasilki

結果としては、義時にとって漁夫の利と言うか、風が吹いたら桶屋が儲かった展開となったが、別に本人が望んだわけではないだろう。だって、義時はナンにもしていない。

その後、月が変わって12月10日。亀前は元いた小坪の中原光家の屋敷に戻った。

亀前は、

「御台様のお怒りが怖いです(しきりに御台所の御気色を恐れ申さる)」

とビビりまくりで頼朝に訴えたが、懲りない頼朝の亀前への愛は日に日にエスカレートしていたので、亀前は仕方なく頼朝の言うとおりにしたそうである(御寵愛、日を追いて興盛の間、憖じいにもって仰せに順うとうんぬん)。

それにしても、こと亀前に関わる件になると、頼朝の言動は常軌を逸している。飯島ならダメ、小坪なら良いという話ではないだろうに。

16日、伏見広綱は遠江国に流刑(!)になった。政子の憤激が持続していたからである。

もっとも、流され先は遠江であった。広綱は元々、遠江の出であるから、実態は実家に帰っただけであった可能性が高い。それでも頼朝が広綱を配流という体にしたのは、そうしなければ政子の怒りが収まらなかったからだろう。

■頼朝のせいで政子の逆鱗に触れた被害者たち

この事件で頼朝・政子御夫妻にヒドイ目にあわされた人々のその後に触れておこう。

伏見広綱 上の記事を最後に広綱は『吾妻鏡』から姿を消す。彼の鎌倉暮らし7カ月は、ただ、ただ、ヒドイ目にあっただけであった。

亀前 亀前の最終記事は、12月10日の小坪への引っ越しである。その後の動静は不明。殺されていれば『吾妻鏡』に記載があるはずなので、頼朝との関係が終わるまで、針の筵、薄氷を踏むがごとき思いの日々が続いたに違いない。

中原光家 光家は、12月10日に亀前がまた小坪の家に引っ越して来た後、しばらく『吾妻鏡』に登場しない。再登場は2年9カ月後の文治元年(1185)9月5日条なので、謹慎処分を喰らい、伊豆に帰ってでもいたのではないか。再登場後は、普通に幕府で働いている。政子にガミガミ怒られたであろうが、政子にとっても伊豆以来の付き合いで気心が知れていたから、この程度で済んだのではなかろうか。

牧宗親 牧宗親も11月12日に頼朝の八つ当たりで髷をチョン切られてから、しばらく『吾妻鏡』に出て来ない。再登場は2年半後の文治元年5月15日。壇ノ浦で死に損なった「伊勢平氏」の棟梁平宗盛・清宗父子を源義経が連行して来た際、鎌倉府内への西の入り口の一つである酒匂駅まで、(おそらく年上の)義理の息子北条時政が宗盛父子を受け取りに行ったのに同行している。やはり、しばらく謹慎処分を喰らっていたのではないか。新参者だった伏見広綱以外は、皆、政子が怒ると怖いのは百も承知であったろう。4人共、頼朝の意向に従ってやったことを、政子に激怒され、エライ目にあったかわいそうな人たちである。

■頼朝が時政と義時の動向を気にしたワケ

ところで、亀前騒動で不思議なのは、「頼朝はナゼ、時政の鎌倉撤収で慌てたか?」であり、そして「ナゼ、義時が鎌倉にいたことで安心したか?」である。

当時の北条氏は頼朝を支える親衛隊のごとき存在であったとする意見もある。また、時政が頼朝にとって政治的に必要な存在であったとの見解もある。しかし、私には、そうは思えない。

まず、北条氏の元々の兵力は二十数騎程度以下と推定され、挙兵以前ならともかく、この時期の頼朝にとっては吹けば飛ぶような存在である。

また最近の研究で、時政が伊豆時代から朝廷に独自のルートを持っていたことが明らかにされている。しかし、武士はそれぞれ朝廷へのルートを持っているのであり、時政に限ったものではない。時政のルートが他の御家人に比べて強力なものであったかどうかは、今のところわからない。

時政が交渉能力に秀でていたことは事実で、石橋山敗戦後に安房から甲斐に赴き頼朝と甲斐源氏との同盟を成立させたり、文治元年(1185)11月25日から翌2年3月27日まで京都に滞在して朝廷との交渉をおこない、いわゆる守護・地頭の設置を認めさせたりしている。

■時政は大勢の御家人の一人に過ぎなかった

しかし、これらは、あくまでも頼朝の存在あっての成果である。時政の才能は頼朝をバックにして初めて発揮される虎の威を借る狐の類に過ぎなかった。

事実、文治元年に上洛した時政について、摂関家の藤原(九条)兼実は日記に「頼朝代官北条丸」(『玉葉』文治元年11月28日条)と記しているのである。「頼朝の代官である北条ナントカ」とでもいう意味であり、兼実が時政の名前すら知らなかった証拠以外の何物でもない。

時政、そして北条氏は客観的に見ると、鎌倉入り後の頼朝にとっては、軍事力の面でも政治的にも、また経済力でも、いくらでも取り替えの利く、その他大勢の御家人の一人に過ぎなかったというのが、現在の私の結論である。政子とて、頼朝にとっては離婚しても、別に政治的な痛手は無かったはずである。

では、なぜ、頼朝は政子に頭が上がらず、時政のストライキに慌て、義時が鎌倉にいたことに安堵したのか。

■頼朝にとっての北条ファミリーの価値

結局、現実の利害とは無関係に、政子をはじめとする北条ファミリーの人々は頼朝にとって大切なものであったのではないか。

スッタモンダがあったとは言え、ただの流人だった自分を迎え入れてくれた北条一家は、頼朝にとって掛け替えのない家族であったのだろう。

無粋なことを言えば、義経など源氏一門(門葉)は血縁があるがゆえ、頼朝にとっては自分に取って替わる可能性を持つ危険な存在である。これに対し、そんな可能性のまったく無い北条氏は、頼朝にとって安心できる存在であったとも言えよう。

「じゃァ、浮気すんなよ!」とも思うが、そこはそれ、また別の問題である。しょーもない浮気者というのは超歴史的な存在である。

頼朝は兄義平の後家(未亡人)、つまり義姉である新田義重の娘にラブレター(御艶書)を送り、政子の怒りを恐れた義重が慌てて娘を再婚させてしまったのを怒るという、どうかと思う行為をしているし(寿永元年7月14日条)、厳しい政子の監視の目を掻い潜って、浮気相手〔藤原(伊達)時長の娘大進局。文治2年(1186)2月26日条〕に貞暁(初名、能寛。文治2年2月26日条・『尊卑分脈』)という男子を生ませてもいるのである。

■浮気者とヤキモチ焼きの迷惑夫婦

ちなみに、建久3年(1192)4月11日、頼朝は7つになった貞暁の乳母夫を決めようと、武蔵横山党の小野成綱・京武者出身で右筆の藤原重弘・坊さんで右筆の一品房昌寛に次々と命じたが、3人が3人とも、

「御台様のおヤキモチがめっちゃスゴイので、怖いっす」(御台所の御嫉妬甚だしきの間、かの御気色を怖畏するが故なり)

と言って辞退してしまい、大江景国にお鉢が廻って来て、来月貞暁を京都に連れて行くよう命じられている。景国の祖父、藤原景通は前九年の役(前九年合戦)の激戦、黄海の戦いで大活躍して源頼義七騎武者の随一と言われた(『陸奥話記』・『吾妻鏡』同日条)のに、孫は源家累代の家人でありながら(あるがゆえ?)頼朝の浮気の後始末を押っ付けられる。

迷惑な夫婦である。少し話をズラして、先のことを記すと、この貞暁は僧となり、39年後の寛喜3年(1231)2月22日、46歳で高野山に入滅した(同年3月9日条・6月22日条・『明月記』同年3月3日条)。『尊卑分脈』は「自害」と記すが、頼朝の子孫の中では、彼が最も長寿となったのである。

頼朝・政子の困った夫婦に話を戻そう。

まァ、当時は一夫多妻である。まして自由恋愛が当たり前の貴族社会で生まれて育った頼朝にしてみれば、本妻以外に妻妾を持つことには、

「何が悪いの?」

と思っていたのかもしれない。

そして政子の立場からすれば、一夫多妻だろうが、頼朝が京都生まれの京都育ちだろうが、我慢ならないものは、我慢ならないのである。

結局、頼朝と政子は、現代でも世間によくいる、しょーもない浮気男とヤキモチ焼きの勝ち気な女のカップルなのである。

■内乱の中で頼朝を支え続けたのが北条氏だった

問題は2人が権力者であったことであり、ゆえにこの2人は周囲にとって極めつけに迷惑な夫婦だったのである。

細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)
細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)

心配させたり悩ませたり怒らせたり悲しませたりばかりしていたが、頼朝にとって政子は大切な人であり、そして北条氏は大切な家族であったのだろう。

思い起こせば、頼朝が平時打倒の挙兵を命じる以仁王の令旨を一緒に読んだのも、藤原邦通の描いた絵図を見ながら山木兼隆邸攻撃作戦を共に練ったのも、北条時政だけであった。そして時政の嫡子宗時は石橋山敗戦で死んだ。

伊豆下向に際し人を付けてくれた高庭資経の心遣いを頼朝は忘れず、24年後、平家方であった資経の子実経を父の恩を理由に許している(元暦元年3月10日条)。

30騎に満たざる兵力ではあったが、10年に及んだ内乱の中で、頼朝が最も無力であった時、彼を支え続けたのが、時政率いる北条氏であったことを、他の誰が忘れても、頼朝は忘れなかったはずである。

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細川 重男(ほそかわ・しげお)
歴史学者
1962年、東京都生まれ。東洋大学大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了、立正大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程満期退学。博士(文学・立正大学)。専攻は日本中世政治史。著書に『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館)、『執権 北条氏と鎌倉幕府』(講談社)など。

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(歴史学者 細川 重男)

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