「朝敵として静岡で30年間も謹慎」失意の晩年を過ごす徳川慶喜を救った渋沢栄一の忠義心
プレジデントオンライン / 2021年12月11日 11時15分
■静岡で「世捨て人」になっていた徳川慶喜
12月26日に最終回を迎えるNHK大河ドラマ『青天を衝(つ)け』では、日本資本主義の父・渋沢栄一と最後の将軍・徳川慶喜の厚い信頼関係が描かれた。だが、維新後の二人の人生はまさに対照的だった。
3歳年下の渋沢が実業界で脚光を浴びる一方、戊辰戦争の幕明けを告げる鳥羽伏見の戦いで朝敵に転落した慶喜は日陰の身の生活を送っていた。
天皇をトップとする朝廷つまり明治政府に恭順の姿勢を示すことで赦免されたものの、その後約30年にわたり、静岡で世捨て人のような生活を送ることで謹慎の姿勢を示し続ける。
そんな慶喜の姿を深く慨嘆したのが渋沢である。
慶喜は農民だった渋沢を武士に取り立てた上、フランス留学の機会を与えてくれた恩人だった。維新に先立って西洋の経済をリアルに知ったことで、明治に入ると経済の近代化をリードする人物に成長することができた。
今の自分があるのは慶喜のおかげと信じる渋沢はその恩義に報いるため、静岡で謹慎を続けた慶喜の元を度々訪ね、無聊(ぶりょう)を慰めた。落語家や講釈師を連れ、慶喜の前で語らせたこともあった。慶喜の資産を株に投資したり、銀行に預けて利殖することで家計も支えた。
慶喜も渋沢の心遣いに対して心を開くようになる。こうして、二人の厚い信頼関係が築かれたが、渋沢としては日陰の身を甘受する慶喜の姿を見るたびに、光が当たる場所に再び出てほしいと思わずにはいられなかった。
■華族のトップとして名誉は回復したが…
慶喜が静岡での自主的な謹慎生活を切り上げて東京に出てきたのは、明治30年(1897)のことである。翌31年(1898)には皇居に参内し、明治天皇と皇后への拝謁を許される。
![徳川慶喜](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/5/250/img_155cb326f779f075c23ce974843fb596388133.jpg)
これにより慶喜の心もようやく晴れ、名誉回復が成ったと考えたようだが、この程度では満足しなかった渋沢は慶喜へのさらなる殊遇を政府に望む。
当時は華族制度が設けられていた。かつての諸大名や維新の功労者が華族として爵位を授けられ、天皇を守る藩屏の役割を課せられたのだ。慶喜の後を継ぎ徳川宗家16代となった徳川家達は五段階あった華族のトップ公爵に叙せられ、慶喜の息子で分家した厚は男爵。だが、慶喜自身には爵位が与えられなかった。
よって、同じく華族に列せられることを渋沢は望んだが、慶喜の殊遇をめぐり政府内には異論もあった。苦慮した渋沢は大蔵省で同僚だった伊藤博文や井上馨に密かに相談している。その結果、明治35年(1902)に至って慶喜は公爵に叙せられた。
華族のトップとなったことで名実ともに名誉回復が果たされた慶喜だったが、その功績を後世に伝えたいと念願する渋沢はある構想を温めていた。
■「朝敵」に転落した過去を、いまさら触れられたくない
ある構想とは、慶喜の伝記編纂(へんさん)事業だった。
戊辰戦争が長引かず、徳川幕府から明治政府への政権交代つまりは明治維新が割合スピーディーに実現したのは、臆病者と謗(そし)られても朝廷への恭順を貫いた慶喜の政治姿勢に求められることを、その伝記を通じて天下に知らしめたいと考えたのである。
これにしても、渋沢による慶喜の名誉回復運動の一環だった。
渋沢は私財を投じて伝記編纂に着手しようとしたが、それには慶喜の許可が必要と考えた。よって、慶喜に打診するが、やめてほしいと断られてしまう。
朝敵に転落した忌まわしい過去が伝記で取り上げられることを懸念したのだ。もともと尊王の志があつかった慶喜にとり、決して触れられたくない過去だった。
だが、渋沢は粘る。
今のうちに史実を集めて文章を残しておかないと、後世に史実が誤って伝えられることになる。せめて伝記の編纂事業だけは認めてほしい。
慶喜は渋沢の懇望に折れて伝記編纂を許可したものの、生前中には公表しないよう釘を刺す。自分の死後、相当の時期が経過してから公表する条件の下、編纂事業を許可した。
■明治維新の最大の功労者であることを証明したい
伝記編纂に際して渋沢が取ったスタンスとは、何よりも慶喜の名誉回復であった。朝廷への恭順姿勢を貫いた慶喜こそ、明治維新の最大の功労者であることを証明したいという強い思いがあったと言える。
![渋沢栄一](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/7/250/img_97cf2e546fbb725df4cd34459a78a29f360932.jpg)
当初、渋沢は同じく幕臣出身の福地源一郎に編纂事業を依頼したが、明治37年(1904)に福地が衆議院議員に当選したため多忙となり、編纂事業は一時中止となる。そして2年後の明治39年(1906)には福地が病没してしまう。
ここに至り、渋沢は方針を転換する。東京帝国大学教授で史料編纂掛主任を勤める三上参次に相談し、歴史の専門家に編纂を依頼することにした。
幕府関係者に慶喜の伝記編纂を委託すると、どうしても幕府側の立場からの叙述となる。内容が幕府寄りのものになれば、不公平な叙述と後世の批判を浴びるだろう。それよりも、中立的な立場で歴史を叙述する専門家に委託した方がいいとアドバイスされたのだ。そして、編纂の主任として東京帝国大学教授の歴史学者・萩野由之を推薦される。
渋沢もそのアドバイスを受け入れ、荻野たち歴史学者が編纂事業に携わることになった。
編纂所は日本橋兜町の渋沢事務所に置かれた。荻野たちがそこに通い、慶喜の伝記『徳川慶喜公伝』の編纂事業はスタートする。明治40年(1907)6月のことであった。
■伝記編纂を通じて、弁明する機会が得られた
明治維新の折、朝敵に転落したことは触れられたくない過去であった。それゆえ、慶喜は伝記編纂には消極的だったが、公爵を授けられるなど名誉が回復されると、忌まわしい過去を直視することを厭(いと)わなくなる。既に40年の歳月が過ぎていた。
こうして、編纂員の質問にも進んで答えはじめる。慶喜を招いて編纂員が直接質問できる場が設けられたからだ。慶喜の厚い信任を得る渋沢でなければ不可能なことだったろう。
慶喜を囲む会は昔夢会と呼ばれた。慶喜自身の命名だったが、渋沢も昔夢会に参加し、会主を務める。座長といったところだ。
正確を期すため、幕末時の込み入った事情を慶喜みずから編纂員に説明することさえあった。その回答に疑問があれば、編纂員が関連史料を提示し、直接慶喜に問い質す場面もみられた。慶喜が返答に窮することもまれではなかった。
慶応3年(1867)4月、朝廷は幕府の了解を取らずに薩摩・鳥取・岡山藩に京都などの警備を命じたが、これを知った慶喜は激怒する。朝廷のトップである摂政・二条斉敬に対して、この件の責任を取って辞職するよう迫ったとされるが、慶喜はその事実を否定する。だが、編纂員が証拠の記録を提示したところ、よく覚えていないと玉虫色の回答に変わってしまった。記憶にないというわけだ。
その時のやり取りの速記録は、後に『昔夢会筆記』として刊行される。当事者が幕末政治の裏事情を語る貴重な証言集だが、慶喜は伝記編纂を通じて政治行動を弁明する機会が得られたとも言えるだろう。
『徳川慶喜公伝』の編纂作業は次のとおりである。編纂員が1章ごと原稿を提出してくると、まず渋沢が目を通す。その上で慶喜の供覧に呈し、チェックを受ける行程だった。
■明治天皇の崩御と慶喜の死
会主となった昔夢会で伝記編纂を指揮する一方、引き続き、渋沢は慶喜を支え続ける。
渋沢は桜の名所として知られた東京の飛鳥山に邸宅を持っていたが、桜や牡丹の咲くころに慶喜を招待するのが恒例だった。その折には、徳川一門も招いている。
維新以来、微妙な関係にあった慶喜と徳川一門の融和という意図も秘められていたことは想像に難くない。慶喜の政治的ミスで、朝廷からの追討対象となったことへの批判が一門内で渦巻いていたことは否めなかったからだ。
そんな晩年を送っていた慶喜が大きな衝撃を受ける出来事が起きる。
明治45年(1912)7月30日に、明治天皇が崩御したのだ。病気がちだった慶喜も後を追うかのように、翌大正2年(1913)11月22日に死去する。享年77歳であった。
![徳川将軍一族の金の紋章](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/1/670/img_c19fc771ac044e4c475b3b00a5b5c02d327179.jpg)
弔問の勅使も派遣された慶喜の葬儀は30日に執り行われ、渋沢も葬儀委員に名を連ねる。葬儀後、慶喜は東京都台東区の谷中墓地内(現・谷中霊園)に葬られた。
葬儀当日、東京市は市役所や市電に弔旗を掲げ、市民には歌舞音曲を遠慮するよう促した。25日には臨時東京市会が開かれ、慶喜への哀悼文が決議される。東京市長阪谷芳郎の妻は次女の琴子であり、あまり指摘されることがない渋沢の政治力の賜物だった。
■慶喜の墓前に伝記を捧げる
生前には間に合わなかったが、4年後の大正6年(1917)に『徳川慶喜公伝』は完成する。附録や索引編などを加えると、全8冊の大部なものとなった。大正7年(1918)に渋沢の名で刊行されたが、『昔夢会筆記』は大正4年(1915)に25部のみ印刷され、編纂員に配布された。
刊行に先立ち、渋沢は慶喜の墓前に献呈する奉告式を執り行っている。
大正6年11月22日、慶喜の墓前に設けられた式場に参列したのは、徳川家側から慶喜の跡を継いだ公爵・徳川慶久など。編纂側からは渋沢のほか、編纂員の面々。伏見宮博恭王妃となっていた慶喜の九女経子も臨席した。
神官が祓をおこない、神饌(しんせん)を捧げた後、墓前に進み出た慶久が伝記編纂の趣旨が盛り込まれた奉告文を読み上げた。そして、渋沢が完成した伝記を墓前に供え、伝記の完成を泉下の慶喜に報告した。その後参列者が玉串を捧げ、式は終わった。
大正7年3月18日、渋沢は帝国ホテルに新聞・雑誌・通信社の社長や主筆などを招き、『徳川慶喜公伝』完成披露の宴を催した。その後各種メディアを通じ、慶喜の伝記の刊行が大々的に報道された。
■渋沢は最期まで慶喜の忠臣だった
伝記完成の年、渋沢は喜寿を超えていたが、その後も慶喜の名誉回復運動は続く。
例えば、明治20年(1887)より、渋沢は自邸に寄寓する書生の前で大蔵省を辞めて民間に下るまでの足跡を語りはじめるが、その筆記録をまとめたものが渋沢の自叙伝『雨夜譚』だ。明治33年(1899)には、還暦を記念して『青淵先生六十年史』が竜門社から刊行された。青淵は渋沢の号である。竜門社は渋沢の書生たちがはじめた勉強会が起源で、機関誌として『竜門雑誌』を発行した。
これらの書籍や雑誌でも、慶喜が朝廷への恭順を貫いたのは戊辰戦争を長引かせずに政権交代をスムーズに進行させるためであり、慶喜こそが明治維新の最大の功労者なのであるという歴史観を繰り返し披瀝(ひれき)している。
各地での講演会でもそうした歴史観を語り続け、『竜門雑誌』などに講演録を掲載した。渋沢による慶喜の名誉回復運動は、死去する昭和6年(1931)まで続いた。
渋沢が慶喜の名誉回復にこれほどまで力を入れたのは、明治維新を境に敗者に転落した徳川家を悪しざまに批判する風潮を危険視したからである。徳川家の旧臣として耐えられなかっただけではない。この風潮を傍観してしまうと、歴史の敗者が勝者に恨みを抱いて国内が分断されていくことを恐れたのではないか。
幕末以来の外圧を背景に、挙国一致すなわちオールジャパンで国難に対応することの重要性は、心ある者が誰しも痛感するところであった。明治維新を生き抜いた渋沢はみずからの行動をもって、オールジャパンを目指した人物なのである。
渋沢の墓所は谷中霊園の渋沢家墓所内にある。生涯をかけて忠誠を尽くした慶喜と同じ霊園に今も眠っている。
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歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。
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(歴史家 安藤 優一郎)
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