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なぜ破産覚悟で「夢の国」を建設したのか…開園当日にウォルト・ディズニーが考えていたこと

プレジデントオンライン / 2021年12月10日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/LordRunar

1955年7月17日、米カリフォルニア州アナハイムに世界初のディズニーランドがオープンした。ウォルト・ディズニーは「夢の国」建設に1億6000万ドルを費やした。なぜ破産覚悟で新事業に乗り出したのか。歴史小説家リチャード・スノーの『ディズニーランド 世界最強のエンターテインメントが生まれるまで』(ハーパーコリンズ・ジャパン)から一部を紹介する――。

■開園日未明、園内には喧騒と振動が響いていた

1955年7月17日日曜日午前4時――。ウォルト・ディズニーは、この数時間というもの、パークの中を所在なげにうろついていた。誰も助けを必要としていないようだった。というより、ウォルトひとりの助けで事足りるようには見えない。

辺りには数百人もの人間が、真っ白な照明の光の下、のこを引き、ペンキを塗り、ハンマーを打ちつけ、上げ下げするフォークリフトの間をぬって、人形をあっちに置いたりこっちに置いたりしている。喧騒は延々途切れることがなく、戦時中の軍需工場さながらの振動が響いていた。

みなが160エーカー(約64万平方メートル)の大都市をつくりあげようと、最後の仕上げにかかっていた。なかには、これから大急ぎで始める、という作業もあった。2年前まではオレンジの木以外何もなかったこの南カリフォルニアの土地に、「遊園地」などというありきたりの言葉では言い表せないほど斬新なものが現れようとしていたのだ。

塔が建ち並ぶおとぎ話の城の周辺には、1世紀前のアメリカ西部の風景や、危険に満ちたジャングルの川を再現したエリアが広がっていた。そこでは、ロケットで月へひとっ飛びし、ガレオン船に乗ってピーター・パンのネバーランドを訪れ、若き日のマーク・トウェインさながらに、船尾外輪船(後ろに大きな輪がついた船)でミシシッピ川を下ることもできる。

まだ誰も体験していないさまざまなアトラクションの周りには、本物の蒸気機関車が走っていた。すでにボイラーには火が入り、シュッシュッポッポッと音を立てながら、間近に迫ったデビューを今か今かと待っている。

■「ウォルトが左の眉を上げたら、まずいぞ」

はるか向こう、闇に沈む田園地帯を見やると、広報部の人間たちが、この新たな遊園地「ディズニーランド」への道を指し示す標識を立てようとしていた。

この国の生みの親であるウォルト・ディズニーは、この夜ばかりはバスローブ(ランド内をうろつくときのおなじみの格好だった)を着ていなかっただろう。緊張しているときにいつもするように、心を落ちつけようと何かしらの作業に手を染めていたはずだ。

当然、ウォルトは緊張していた。不安はときとして怒りを呼ぶ。もっとうまくやれたのにと思うことが山のようにあった。窓枠のそこかしこから、あわてて塗ったペンキが垂れ落ちているのを目にして(ウォルトの目は些細(ささい)なことも見逃さない)眉をつり上げたウォルトに、部下たちは嵐がやってくるのを覚悟しただろう。

ジャングルクルーズの初代船スキツパー長のひとりだったビル・サリバンもこう言っている。「みんな知ってたよ。ウォルトが左の眉を上げたら、まずいぞってね」

■美術監督はまだアトラクションに絵を描いていた

ウォルトはぶらぶらと、未完成のパーク内を歩きつづけた。ぶらぶらというと、もっとのんびりした動きをイメージするかもしれない。

53歳でやや太り気味、ヘビースモーカーだったウォルトだが、この数カ月、彼が驚くほどすばやく動き回れるということにみな驚かされてきた。機械仕掛けのワニや、まだ水の張られていない川床をチェックしようと車で移動していたスタッフが、徒歩のウォルトに追い抜かれることもあった。

作業現場に構えたスタジオでは、ウォルトの左眉はしょっちゅうつり上がっていた。ときとして、ウォルトは冷たく、よそよそしく、ほめ言葉などめったに口にしないようなところもあったが、偉そうにすることはなかった。パーク完成を控えて大所帯となった作業員たちと一緒に、よくテントで豆とソーセージの煮込み料理を食べていたものだ。

1946年5月17日、ウォルト・ディズニーの広報写真
1946年5月17日、ウォルト・ディズニーの広報写真 (写真=Boy Scouts of America/ Images with extracted images/Wikimedia Commons)

ウォルトは、美術監督のケン・アンダーソンに出くわした。もう何日も立ちっぱなしで、ふらふらになりながらアトラクションに絵を描いていたアンダーソンに手を貸そうと、ウォルトも筆を取った。

作業が終わると、ウォルトはアンダーソンとメインストリートをくだり、タウンスクエアへと向かった。20世紀初頭の商店が建ち並ぶ、夢いっぱいの空間だ。

ふたりは縁石に腰かけ、オレンジ郡の大地ににぶい光を放つ路面電車の線路を眺めた。線路は舗装すらされていない。ウォルトはお気に入りのチェスターフィールドのタバコに火をつけたが、吸い終わらないうちに作業員がひとり走ってきた。「『トード氏のワイルドライド』に電気が通ってません! 誰かが電線を切ってしまったらしくて」

アンダーソンがしぶしぶ立ち上がる。「大丈夫だよ、ウォルト。わたしが見てくるから」そう言うと、騒音が響く闇の中へと消えていった。

■水飲み場とトイレのどちらかしか設置できない

空気は重く、息苦しい。ひどく暑い一日になりそうだった。それでも、ノアの洪水みたいな大雨になるよりましだ。つい最近も、ここは水浸しになったばかりなのだ。この辺で休もうと決め、ウォルトはタウンスクエアの建物のひとつである消防署に歩いていった。裏手の階段をあがり、2階のアパートに入る。小さな部屋だが、半世紀前の上流中産階級の家を思わせる、かわいらしい装飾が施されていた。

ウォルトは、これまでに下してきた数えきれないほどの決断を振り返り、果たして自分の決断は正しかったのかと考えた。細い窓の向こうでは、目の回るような大騒ぎが繰り広げられている。配管工が直前までストライキをしていたせいで、水飲み場とトイレのどちらを設置するかも決めなければならなかった。「喉がかわいたらペプシ・コーラを飲めばいい」ウォルトはひとりつぶやく。「でも、通路で用を足すわけにはいかない」

その通路も、まだできていなかった。遠くのほうから、アスファルトを注ぐトラックの恐竜のようなうなり声が聞こえてくる。オープンした暁には、明るい太陽の下、大勢の人々――政治家、映画スター、鉄道会社の重役、それに山のような子どもたち――がその道を歩くことになる。

■「遊園地なんて不潔だし、うんざりする」

外では、縁石を敷こうとする作業員と、配線を台無しにされたテレビ局のスタッフが怒鳴りあい、罵りあう声がますます大きくなっている。ウォルトは遊園地の建設だけでなく、かつてないスケールのテレビ番組でホストも務めることになっていた。この大々的な番組のため、ニューヨークからサンフランシスコに至るまで、全米のテレビ局から機材がかき集められた。アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)は、開園セレモニーの日まで何も放送しないというわけにはいかないので、何週間もかけてテレビ番組を撮りためていた。

〈ABC〉はディズニーのメインスポンサーだった。ウォルトは、番組を提供する代わりに資金を提供するよう、〈ABC〉側と取引していた。

〈CBS〉や〈NBC〉といった古参のテレビ局は、食指を動かさなかった。ディズニーの番組は放送したいが、遊園地産業とかかわる気はない、というわけだ。当時、遊園地の建設はリスクが大きいうえ、いかがわしい産業だという認識が広まっていたからだ。

どうして遊園地なんかつくるの? ウォルトは、妻のリリアンにたずねられたことがあった。遊園地なんて不潔だし、うんざりするじゃない、と。恐ろしく有能なビジネスマンだった兄のロイも、同じ疑問を抱いていた。「ウォルトもそのうち諦めるさ」。最初のうちは、ロイも周囲の人たちにそう言っていた。だが、ウォルトは諦めず、結局ロイも運命をともにすることにしたのだった。

■芸術へ成長させたアニメーション制作にも嫌気が

ウォルトはベッドに入った。

ここまで長い道のりだった。カンザスシティの農家の息子で、家計を支えるため、夜明け前の雪道で寒さに震えながら新聞配達をしていたウォルト少年は、今やすっかり有名人になった。低俗でもの珍しいだけだったアニメーションを、ほぼ独力で高い利益を生む芸術へと成長させたのだ。それでも今は、ミズーリ州にいた少年時代と同じくらい、心もとない気分だ。

「なぜ遊園地を?」パークの足場の陰でジャーナリストに質問されたとき、ウォルトの答えはいたってシンプルだった。「この20年というもの、何か自分だけのものが欲しいと思っていたんだよ」

もちろん、理由はそれだけではない。ウォルトはアニメーションをつくるのに疲れてしまったのだ。1941年には、スタジオでストライキが起こるという苦い経験をし、第二次世界大戦が終結する頃には、ご多分に漏れず、ウォルトも不満と先行きの不安を感じていた。

大衆が求めるものを敏感にかぎ取るウォルトは、世間の人々も自分と同じ思いをしているに違いないと考えた。安らぎを得たいという、ディズニーランドのような場所を求める人々の存在に気づいたのだ。

■殺伐とした時代への解毒剤となる場所を

現在とはご立派なもので、今このときこそが、かつてないほどの驚異に満ちた瞬間なのだと思わせる。一方で、過去は「物事が単純だった頃」というもっともらしいカテゴリーに収まりがちだ。1950年代という「今」は、ダンスパーティーや温和なアイゼンハワー大統領、車が2台停とめられる車庫、エルヴィス・プレスリー、そして世界の産業界を席巻する戦勝国アメリカといった、見せかけのイメージによって燦然と輝いていた。

リチャード・スノーの『ディズニーランド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)
リチャード・スノーの『ディズニーランド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)

だが、時代が輝いて見える人はほんの一部で、みなどうにか前に進んでいる状態だった。終わったはずの戦争は人々の心になお暗い影を落とし、共産主義への恐怖は高まるばかり。アメリカ人のほとんどはこの当時、どこかしら不安を覚えていた。

ウォルト・ディズニーが思い描いたディズニーランドは、殺伐として不安と疑惑に満ちた時代への解毒剤となるもの、あるいはより良い未来を力強く肯定するものだった。もちろん、客を楽しませ、お金を落としてもらえる場所でなければならないが、ウォルトはそれと同時にアメリカの過去を引き合いに出すことで、ディズニーランドを訪れる人々に、未来は安全で豊かだという希望を抱いてほしかったのだ。

ウォルトは生命保険を担保にし、別荘を売り、ありったけの借金をした。そしてウォルト自身そうあってほしいと願い、人々にも同じ目で見てほしいと願った世界を、三次元の形で再現しようとした。

だが、この計画に賛同を得るのは容易ではなかった。当初から投入された150万ドルは、その多くが無駄遣いに終わっている。

■建設費は総額1億6000万ドルに膨らんだ

タウンスクエアにアスファルトが敷かれる音を聞きながら、ウォルトは総額1700万ドル(現在の価値にして1億6000万ドル)にもなる経費について思いを巡らしていたに違いない。1920年代に自身初の大ヒットとなったアニメのキャラクター「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」の権利を奪われたときのように、ウォルトにはもう何も残っていなかった。

それでも、ウォルトはディズニーランドをつくったのだ。

窓の外では重機の騒音が鳴り響き、ウォルトはほんの数時間しか眠れなかっただろう。午前6時にはベッドを出て着替え、テレビ番組のリハーサルに向かおうとした。だが、出鼻をくじかれる。夜間に消防署の塗装作業が行われ、アパート部分にも塗られたペンキがすっかり乾いて、ドアが開かなかったのだ。

ウォルトは人生で最も重要な一日を迎えるために、警備員を呼んで外に出してもらわなければならなかった。

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リチャード・スノー(りちゃーど・すのー)
歴史小説家
アメリカの歴史専門誌『アメリカン・ヘリテージ』の編集長を17年間務めたのち、歴史映画のコンサルタントに。ドキュメンタリー作家としての顔も持ち、2016年出版の“Iron Dawn:The Monitor, the Merrimack, and the Civil War Sea Battle That Changed History”は優れた海軍文学に贈られるサミュエル・モリソン・アワードを受賞している。

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(歴史小説家 リチャード・スノー)

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