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「遊園地の関係者は雇いたくない」ランド建設を進めるウォルト・ディズニーがそう話した理由

プレジデントオンライン / 2021年12月15日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Alphotographic

ディズニーランドをつくったウォルト・ディズニーは、スタッフ集めにあたって「遊園地の関係者は雇いたくない」と話していたという。なぜ素人だけで計画を進めようとしていたのか。歴史小説家リチャード・スノーの『ディズニーランド 世界最強のエンターテインメントが生まれるまで』(ハーパーコリンズ・ジャパン)から一部を紹介する——。

■土地探しより苦労した実現可能性の調査

計画段階とはいえ、ディズニーランドは土地の買収も完了し、資金も集まった。ウォルトは、スタッフにディズニーランドのことを発表すべき時がきたと思った。

もちろん、すでに噂は飛び交っており、何かが起きていることはみなわかっていた。だが、ウォルトは寝ても覚めてもディズニーランドのことで頭がいっぱいだったわりに、そのことを打ち明けたのはごくわずかのスタッフに限られていた。おそらく、スタジオ内で知っていたのは20人にも満たなかっただろう。

ウォルトは、この計画が容易に受け入れられるとは思っていなかった。スタンフォード研究所(SRI)エコノミスト、バズ・プライスはSRIに託された次なる調査に取り組んでいたが、これといって役に立つような情報を集められずにいた。ディズニーランドの土地を探していたときよりも、プライスは苦労していた。

「ふたつ目の任務は(1953年秋の時点でもまだ)ディズニーランドの実現可能性を調査し、工程表か計画マニュアルの形で提出することだったが、それは雲をつかむような話だった。比較できるモデルがほとんどなかったからだ」

■一番の比較対象は遊園地ではなく動物園だった

そこで、モデル探しをすることになった。美術担当のハーパー・ゴフはこう語っている。「妻とふたり、アメリカ中を何千キロも旅して、情報を集めて回った。男性用トイレと女性用トイレの比率は、とか……窃盗はどの程度起こるのか? 車で来園する客の人数は? 駐車場の大きさは? といったことを」

チカチカと光る照明に一瞬浮かびあがる楽しげな(あるいは恐ろしげな)セットを横目に、電気仕掛けの乗り物が、曲がりくねったレールをガタガタと進んでいく。そんなダーク・ライドに乗って、所要時間を計ったりもした。パイク(ロングビーチの娯楽施設)の「ハネムーン・トレイル」は1分38秒間隔でゲートを通過し、「ラフ・イン・ザ・ダーク」は乗客に1分34秒の「恐怖の笑い」を提供していた。

バズ・プライスは、最も有益な情報が収集できるのは、遊園地ではなくサンディエゴ動物園だと信じていた。「比較対象としても、市場の浸透度や入場者数、季節変動の予測に利用するにも、優れた実例だった」ディズニーランドもその予定だったが、サンディエゴ動物園は通年営業しており、「経済成果も分析でき、ディズニーランドのモデルになり得る」と考えたのだ。

また南カリフォルニアで一番人気の観光スポットだったフォレストローン・メモリアルパークは、ディズニーランドは緑あふれる場所であるべきだというウォルト・ディズニーの信条を裏づけるのに役立った。

■ウォルトが引き抜いた唯一の「遊園地経験者」

プライスは、伝統的な遊園地の業績も算出したのだが、その結果は残念なものだった。「入場者の平均滞在時間は2時間30分、平均支出額は1ドル50セントだった」

サンフランシスコのホイットニーズ・プレイランドは、さほど大きくない遊園地で、ウォルトは最初、大して気に留めていなかったが、訪れてみると多くの収穫があった。オーナーのジョージ・ホイットニーは活気あふれる起業家で、ウォルトは彼と面会を予定していた。だが、ホイットニー自身は多忙のためウォルトと会う時間がなく、代わりに息子のジョージ・K・ホイットニー・ジュニアが案内役を務めた。

ウォルトは、遊園地によくある乗り物に興味はなかったが、ホイットニー・ジュニアのビジネスに対する理解力と、入場者をどう動かし、喜ばせ、満腹にさせているか、その簡潔で明快な説明にいたく感心した。それまでは「遊園地の関係者は雇いたくない」と言っていたウォルトだったが、プレイランドからホイットニー・ジュニアを引き抜き、ディズニーランドの乗り物の運営監督を任せたのだった。彼はディズニーランドの7番目の従業員であり、遊園地での職務経験がある唯一の人間だった。

■数字的指針は「自分たちで考案するしかなかった」

プライスは数週間にわたる調査を、こう総括している。「われわれは、モデルを見つけ、現在考案中の遊園地における数字的な指針を適切に見極めるために、全米各地の娯楽施設、さらにはコペンハーゲンのチボリ公園(庭園と遊園地)を訪れた。そして、入場者数のピークや季節変動、ひとりあたりの支出額、群衆の密度、入場者数に対応できるアトラクションの定員、投資水準などを調査した。当時は、そうした項目には呼び名もなく、自分たちで考案するしかなかった」

考案、という言葉をプライスは2度用いているが、どちらにも意図がある。ディズニーランドの運営は、群衆の流れを読み、経済の予測を行い、建築上の問題を解決するだけでは不十分なのだ。これまでに実例のない試みであり、ライト兄弟が初めて空を飛んだときと同様、新たな発明が必要だったのだ。

アニメーターのハーバート・ライマンが説得力のある完成予想図を必死に描いているとき、脚本家ビル・ウォルシュは、そこに添える、現在のビジネス用語では「ミッション・ステートメント」と呼ばれるものをひねり出していた。

感動的な口調で、ディズニーランドが既存の遊園地——ベニヤ板の骸骨が暗闇でライトアップされ、バンパー・カーがやみくもにぶつかり合い、(倒せるはずのない)木のミルク瓶の山を客に倒させようとするような遊園地——とはまったく違うものであると宣言したのだ。

■ディズニーランドの「ミッション・ステートメント」

ディズニーランドの構想はごく単純なものです。それは、人々に幸福と知識を与える場所になる、ということです。

親と子が一緒に楽しめる場所であり、教師と生徒が物事を理解し学ぶための、より良い道を発見する場所なのです。年長の人たちは過ぎ去りし日々の郷愁にふけり、若者たちは未来への挑戦に胸を躍らせる。ここには、自然と人間が織りなす不思議の世界が広がり、人々を待ち受けています。

ディズニーランドは、アメリカという国をつくった理想と夢、そして厳しい現実を原点とし、同時に、それらに捧げるものなのです。そして、その夢や現実を、ユニークな手法で表現し、勇気とインスピレーションの源として世界に贈ろうとしているのです。

ディズニーランドは、博覧会、展示会、遊園地、コミュニティー・センター、現代博物館、そして美と魔法のショーを集約したものなのです。

ここは、人類の功績や喜び、希望にあふれています。こうした不思議を、わたしたちの生活の一部とするにはどうすればよいのか、それをディズニーランドはわたしたちに連想させ、教えてくれるのです。

1950年代のディズニーランド・パーク
写真=iStock.com/Jorge Villalba
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jorge Villalba

■遊園地業界の大物4人にランド計画を披露

これこそが、プライスが「実行可能性分析のハイライト」と呼んだものだった。1953年11月、シカゴのシャーマン・ホテルで開かれた遊園地経営者の年次総会兼展示会にて、プライスはそれを披露した。「スイートルームに、全米屈指の遊園地経営者を4名招待し、ウィスキーとキャビアをふるまった」プライスによると、その4人の顔ぶれはこうだった。

「みな遊園地業界の大物だった。シカゴの〈リバービュー・パーク〉のウィリアム・シュミット、ニューオーリンズの〈ポンチャートレイン・ビーチ〉のハリー・バット、(シンシナティの)〈コニー・アイランド〉のエド・ショット、そして、サンフランシスコの〈ホイットニー・プレイランド〉のジョージ・ホイットニーだ」

こうした野外遊園地のプリンスたちに対し、プライスとナット・ワインコフ(ランド計画プロジェクト・アシスタント)、C・V・ウッド(ランド計画ジェネラル・マネージャー)は、ライマンの描いた完成予想図(補足となるイラストが何枚も添えられていた)を示しながら、2時間かけて、建設予定の遊園地について説明した。

実物大の船尾外輪船が浮かぶ川、岸辺にジャングルの動物を眺めながら、モーターボートで川下りができる熱帯の水路、こびとたちのダイヤモンド鉱山を通り抜け、ロンドンからピーター・パンのいるネバーランドまで飛んでいける電動の乗り物、いまだ構想が固まっていないトゥモローランド。

20世紀初頭の街並みを再現した大通りや、城がそびえる中央広場。すべてが汚れひとつない豊かな景観に囲まれているのだと。

■ウォルトお気に入りのアイデアも軒並み酷評

だが、「ディズニーランドはうまくいかないだろう」というのが、満場一致の反応だった。プライスは、否定的な意見(肯定的な意見はひとつもなかったのだが)を詳細に書き残している。

「収入源になるはずのものが、明らかに足りない。ジェットコースターも、観覧車も、射的もなければ、玉当てのようなカーニバル・ゲームもない」。しまいには、ディズニーランドには必要ないと考えているものを指摘される。「余興を売り込む客引きを置かないなら、カモたちは金を払ってまでショーを見ない」

遊園地のアトラクション
写真=iStock.com/A-Digit
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/A-Digit

また、「乗り物の収容定員が少なすぎて、収益が得られない」だけでなく、そもそも「独自の乗り物ではうまくいくはずがない」という。建設に費用がかかりすぎるし、故障しやすいからだ。「それに、客たちは違いもわからないし、気にしないだろう」

ウォルトお気に入りのアイデアも、一蹴されてしまう。「城や海賊船のようなものは、見ばえはするだろうが、所詮乗り物ではなく、経済的に考えるとつくる意味がない」し、メインストリートも「収益をあげないものばかりが並んでいる」というのだ。入口がひとつしかないのも致命的だと言われた。「大渋滞を引き起こすだろう。駐車場から近く、アクセスがしやすいよう、入口はすべての方角に設けるべきだ」

■『白雪姫』も同じくらい悲観的な批評を浴びていた

ジャングルクルーズは特に評判が悪かった。「動物が眠ってしまい、ほとんど客には見えない」。しまいには、こう言われた。「清潔で眺めのいい景観を維持するというこだわりは、経済的には自殺行為だ。客が気づきもしないようなものに金を使いすぎて、ウォルトは無一文になるだろう」

4人のうちのひとりは、プライスにこんなアドバイスを残している。「ウォルトに、金の無駄遣いをやめるように言うんだ。今まで通りの仕事に精を出して、遊園地ビジネスはビジネスをわかっている人間に任せておくんだとね」

酷評を並べられても、ウォルトは驚きもしなかった。

お客のことを「カモ」などと呼ぶ輩(やから)に、自分の思いが理解できるはずがない、と。『白雪姫』をつくったときも、ウォルトは同じくらい悲観的な批評に耐えた。そして、その『白雪姫』があるからこそ、スタッフたちをその気にさせられるのだった。

■「絶対君主」ウォルトの一番の崇拝者へ

人をその気にさせるのは、ウォルトの得意とするところだった。美術監督のケン・アンダーソンは、『白雪姫』誕生の場面に居合わせた人物で、そのときのウォルトの言葉が忘れられないという。

アンダーソンは1909年の生まれで、シアトルのワシントン大学で建築学を学んだ。成績優秀だった彼はヨーロッパに渡り、パリの高等美術学校と、ローマにある芸術財団アメリカン・アカデミーで奨学生として学ぶ機会を得た。短期間、MGMで舞台デザインの仕事をしたのち、1934年にディズニーのスタジオに入社する。最初は、ウォルトのために絵を描く機会はなかった。

「ウォルトは両手を広げて受け入れてくれたわけではない。わたしは大勢の中のひとりに過ぎず、認められたいと必死だった。ウォルトは絶対君主だったからね」

アンダーソンは、ウォルトが面白い人物だとは思っていなかった。「ウォルトは、ジョークとかそういう類の趣味があまりよくないと、密かに思っていた」。ウォルトのユーモアはいささか低俗で「野暮ったさ」にあふれていたからだ。だが、最初に感じていた嫌悪感は、すぐに消えることになる。

『白雪姫』の制作が進むにつれ、アンダーソンのウォルトに対する感情は、畏敬の念へと変わっていく。「ウォルトの信奉者になったんだ。スタジオ内で、わたしほどウォルトを崇拝していた人間はいないだろう」

■ウォルトがアニメーターたちにかけた魔法

1930年代半ばのある日の午後、ウォルトはアニメーターたちに50セントを支給して夕食に行かせ、戻ってくると、全員を防音スタジオに集めた。「当時50セントといえば5ドルくらいの価値があったから、うれしかったよ」とアンダーソンは語っている。

「大衆食堂に行って、35セントでおいしい夕食を食べ、残りの金でデザートのパイを味わった。お腹いっぱいで会社に戻り、スタジオへと向かった。ウォルトから何かあるとか、そういったことは思いもしなかった。ただ、みんな上機嫌で集まっていた……。ともかく、ウォルトが夜の8時半か9時前くらいに下のフロアに下りてきて、われわれの目の前に立つと、新しい作品の構想を語り始めた。前置きもなく突然話し出したんだが、もう独擅場(どくせんじょう)だった。本当にすばらしかったよ!

とてつもない世界に引き込まれて、この人のためなら何でもできると思った。これからやろうとしているのは、ものすごいことなんだとわかった。信じられないような、最高の気分だった。ウォルトの話を聞いていると、登場人物たちが動き出すのを感じた。こびとたちのキャラクターはほとんどできあがっていて……ウォルトは何もかも話してくれた。スタジオから出てきたときは真夜中になっていて、みな呆然(ぼうぜん)としていた。意識がもうろうとしたまま家に帰り、翌朝出勤すると、いつもの仕事ではなく、みんなで『白雪姫』をつくることになっていた」

■「ウォルトがやるというなら身銭を切ってもいい」

それから20年の月日と数えきれないほどの成功を経て、ウォルトはふたたび、みなを奮起させるスピーチをすることになる。スタジオの広い映写室には、イメージ図や模型がところ狭しと並んでいた——列車、蒸気船、城、そして、トゥモローランドの呼び物として唯一決まっていたロケットに、ライマンの描いた完成予想図。数百人のスタッフは、15分間、自由に見て回る時間を与えられ、その後みなが席につくと、ウォルトがステージに現れ、話を始めた。

リチャード・スノー『ディズニーランド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)
リチャード・スノー『ディズニーランド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)

スタッフたちは、あの遊園地業界の大物たちが聞かされたのと同じ話を、プライスからではなくウォルト本人から聞くことになった。その反応は、ウォルトが望んだ通りのものだった。スタッフたちは前例のない事業にかかわるという期待に胸を躍らせながら部屋を後にした。

だが、熱狂が冷めてしまった者も多かった。ウォルトはどうやってディズニーランドの資金を捻出するかについても話をしたのだが、それを聞いたアニメーターのひとりはこう言っている。

「最初の感動が薄れると、ウォルトの言ったことの衝撃が襲ってきた。われわれの負担は大幅に増えそうだった。毎週のように作品を制作し、放送スケジュールをこなすために、それを1年間続けなければならないのだ」

それでも、ディズニーランドの実現を疑う者はほとんどいなかった。アンダーソンはこう語っている。「余裕なんてなかったが、それでも、ウォルトがやるというなら、身銭を切ってもいいという気持ちだった」

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リチャード・スノー(りちゃーど・すのー)
歴史小説家
アメリカの歴史専門誌『アメリカン・ヘリテージ』の編集長を17年間務めたのち、歴史映画のコンサルタントに。ドキュメンタリー作家としての顔も持ち、2016年出版の“Iron Dawn:The Monitor, the Merrimack, and the Civil War Sea Battle That Changed History”は優れた海軍文学に贈られるサミュエル・モリソン・アワードを受賞している。

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(歴史小説家 リチャード・スノー)

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