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ここでダメなら開園できなかった…ディズニーランドをめぐる「生きるか死ぬかの1日」

プレジデントオンライン / 2021年12月17日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Orbon Alija

世界初のディズニーランドを建設する過程ではどのような苦労があったのか。創業者ウォルト・ディズニーらによるスポンサー探しは難航したが、ある会社との契約が起死回生のきっかけになった。歴史小説家リチャード・スノーの『ディズニーランド 世界最強のエンターテインメントが生まれるまで』(ハーパーコリンズ・ジャパン)から一部を紹介する——。

■企業スポンサー獲得に動き始めたGMのウッド

1954年のクリスマスが近づく頃、ウォルトは苦しい状況に追い込まれていた。例年ならこの時期になると、ウォルトはスタッフたちにボーナスを配って歩いていた。だがその年は、バーボンのボトルと季節の挨拶程度で我慢してもらうしかなかった。

ディズニーランド計画のジェネラル・マネージャー(GM)であるC・V・ウッドは、自分なら状況をなんとかできると考え、会社の収入を底上げするため、その情熱とセールスマン精神を発揮して、企業スポンサー獲得に乗り出すことにした。

まず、オフィスをスタジオ内からパーク内のドミンゲス邸の上階に移した。この邸宅の元の所有者は、土地を手放す際、「由緒あるカナリーヤシを保存してほしい」と条件を出した人物だった。ウッドは自ら選抜したチーム(ほとんどがオクラホマやテキサスの出身者で、高校時代からの取り巻きである「ボンバーズ」のメンバーも何人か含まれていた)も引き連れていた。気持ちのいい人間が集まっていたが、ウッドのチームと、階下にいるスタジオのスタッフの間には、いくぶん冷たい空気が漂っていた。

同じ建物には、ウォルトも大勢のアーティストと一緒にオフィスを構えており、ふたつのフロアがそれぞれ別の経営方針を象徴していたのだった。自由であけっぴろげな性格のウッドだったが、本質はビジネスマンで、報告書や評価、貸借対照表、見積書といった、きっちり整えられた伝統的な書式と、明確な上下関係という、当時の標準的な仕事のやり方に則っていた。

■オフィスの中は「芸術派」と「商業派」に分かれた

一方でウォルトは、「組織図なんて見たくもない」という人間だった。実際に、ウォルトがそういったものを目にすることはなかった。のちに、初期のスタッフのひとりがインタビューの中でこう語っている。

「『どんな手順だったのか』とたずねられても、笑うしかない。なぜって、手順というのは体系的に仕事を進めることだろう? 言っておくが、ウォルトの時代にディズニーランドを設計していたときは、手順なんてなかった。ただ仕事をして、手順は後からだった。前例のないことばかりをやってきた。ウォルトは、ディズニーランドのような遊園地なんて設計したことのない人ばかりを集めていた。われわれは一斉に同じ船に乗り込んで、何をすればいいのか、どうやってやればいいのか、臨機応変に探っていった。企画だとか、時期だとか、そういったことを話し合いもせずにね……。仕事をしていると、ウォルトがやってきて、提案をする、それだけだった」

ウォルトは、上階のオフィスにいる連中の堅苦しさを茶化し、彼らは「ショー的な考え方」ではなく「飛行機的な考え方」(多くがウッドと同じくコンソリデーテッド・エアクラフト・コーポレーションから移籍してきたという経緯があった)をすると非難することもあった。兄のロイ・ディズニーや建設統括のジョー・ファウラーなどは、芸術的なグループと商業的なグループとの間を気持ちよく行き来していたが、ふたつのグループは、互いに不信の目を向けることが多かった。

■間貸しを提案した大企業には相手にされず

ウォルトも、ビジネスのためにはウッドの存在が不可欠だということはわかっていた。当初から、1939年のニューヨーク万国博覧会を真似て、大きな企業にスペースを間貸しすることを考えていた。博覧会では、企業は社名でパビリオンを出せるという見返りのためだけに、高価な費用を払って展示を行っていた。

ウォルトとランド計画プロジェクト・アシスタントのナット・ワインコフはコカ・コーラやホールマークといった業界大手に話を持ちかけたが、相手にされなかった。ウォルトは打診する企業の格を下げたくなかったが、ウッドは格をどうこう言っている時間はないと反論した。スポンサーのレベルがどうであれ、金を払ってくれるならいいじゃないかというのだ。ディズニーランドには、とにかく金が必要だった。

ウッドはディズニーランドの職を得たとき、コンソリデーテッド社時代の最初の上司で、万博の際は企業代表も務めたフレッド・シューマッハのもとへ向かった。シューマッハは語っている。「ウッドは確か、ディズニーに雇われたその日にわたしの家に来たはずだ。そして、『ディズニーランドで働きませんか?』と言ったんだ。おいおい、いったい何の話をしてるんだと思ったよ」

有能なセールスマンぶりを発揮したウッドは、それから2週間のうちに、シューマッハを仲間に引き込んでいた。その後しばらくして、ふたりはスポンサー探しのため、全米を回りはじめたのだった。

■頼みの綱の鉄道会社に必死の売り込み

なかなか実を結ばない旅だった。テレビ番組は成功したが、ディズニーランド構想はあまりに現実味がないと思われたのか、企業を訪問しても、下級管理職と面会するのが精一杯で、金のかかる契約を、それも長期に結んでほしいと要求しても呆れられるだけだった。

最初の頃、大きな期待を寄せていたのがアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道(AT&SF)だった。社名がタイトルとなった曲がアカデミー賞歌曲賞を受賞するなど、名の知られた鉄道会社で、ウッドの父親が働いていた会社でもあった。

ウッドとシューマッハは必死に売り込んだ。契約すれば、ディズニーランドを走る鉄道は「サンタフェ・アンド・ディズニーランド鉄道」(「サンタフェ」が先に来ることを強調した)と呼ばれ、その名前がすべての車両に表示されます。貯水タンクには、円の中に十字架と「サンタフェ」の文字が入ったおなじみのロゴが刻まれますし、メインストリート駅にサンタフェ観光のポスターを飾り、売店では本物のチケットを記念に販売しますよ、と。

このとき、ウッドたちはAT&SFの幹部と面会することができたのだが、年に5万ドルという契約の話を持ち出すと、こう言われてしまった。「何を言ってるんだ。遊園地の列車に社名をペイントさせてやったことはあるが、うちにできるのはその程度だ」

■シカゴで迎えた「死ぬか生きるかの1日」

ウッドたちは売り込んでは断られつづけた。努力が一向に実を結ばないまま、失望とかさんだ旅費の請求書にがんじがらめになった気分で、シカゴの食肉加工会社、スウィフト・アンド・カンパニーに営業をかけた。

シューマッハは、スウィフト社が毎度、万国博覧会に出展して、プレミアム・フランクフルトといった商品の製造工程を展示したり、小売店でおなじみの光景をマリオネット・ショーで披露したりしていることを知っていた。ニューヨーク万国博覧会の会場に即席の製造工場を建てられるというなら、アナハイムに出展する資金を出し渋ったりしないはずだ、と考えたのだ。

シューマッハは語っている。「計画そのものが危機に瀕しているような経済状態だった。まさに、生きるか死ぬかの1日だった……。テナント契約を結んだ会社はひとつもなかった。わたしたちはスウィフト社の敷地の中を歩き回り、どんな形にせよ同意を得て、せめて1社でも大手企業のテナントを獲得しようとした」

ウッドたちは、ついに社長との面会にこぎつける。そこでウッドは、セールストークを繰り広げた。ディズニーランドの完成予想図を広げ、たくさんの人が楽しい時間を過ごしているこの場所で御社の製品を試食できるとなれば、みな喜ぶでしょう、と熱弁をふるった。テレビや雑誌のコマーシャルよりずっと効果があります。ディズニーランドでの楽しい思い出とともに、記憶に残るはずです。

■2人を放り出した社長が笑顔になったワケ

最初は、ウッドもシューマッハも手ごたえを感じていた。社長はディズニーランド構想が気に入ったように見えたし、万博の展示は投資に見合う価値があったと認めていた。だがここにきて、ウッドのセールスマンとしての勘が鈍ってしまう。強く押しすぎたことに気づいたのは、社長に話を遮られたときだった。「十分話は聞いた。そろそろお引き取り願おう」

ふたりはロビーに戻ったが、離れる気になれなかった。

20分ほど中をぶらつき、シューマッハが新しい戦略について話を始めた。それを上の空で聞いていたウッドが、こう言った。「もう一回、話をしてみようと思います」

「どうやって? 放り出されたんだぞ」
「まあ見ていてください」

エレベーターへと向かうウッドの後ろを、シューマッハは気乗りしないままついていった。役員フロアに着くと、ウッドはうまいこと秘書に話を通し、まともにノックもしないうちにドアを開けた。中に入ると、冷たい反応が返ってきた。「また戻ってきたのかね」

開いているドア
写真=iStock.com/GoodLifeStudio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GoodLifeStudio

ウッドは部屋の奥を指さし、「書類かばんを忘れたんです」と言った。たしかにかばんはそこにあった。そこでウッドは運をつかむ。わざと忘れ物をするという厚かましさが、社長を楽しませ、笑顔にさせたのだった。

■年11万ドルでレストラン出店契約が成立

ひょっとしたら社長も、契約を断ったことを後悔していたのかもしれない。理由がどうであれ、2度目の面談は、30分前と打って変わった雰囲気で進んだ。部屋の空気も明るくなり、社長もウッドの熱い語りを聞き流すだけでなく、いろいろと質問をしてきた。そしてついに、ウッドとシューマッハは、メインストリートに年11万ドルでレストランを出店するという、スウィフト社とのテナント契約にこぎつけたのである。

その結果が、「ここだけで食べられるスウィフトの高品質ミート」を売り物としたレッド・ワゴン・インだ。スウィフト社が出店料を支払うとはいえ、レストランはディズニーの基準を満たしていなければならない。

ディズニーランドと賃借契約を結ぶ企業に対し、契約書は次のように定めていた。「内装の建築図面はすべて、賃借人の選定により、正当な資格を有する建築家あるいは認可を受けた内装事務所によって作成されなければならない。賃借人指定の建築家が作成する、ディズニーランド内の建物あるいは内装構造の設計図は、WEDエンタープライズが規定するテーマおよび総合計画に則ったものとする。契約締結後、速やかに、ディズニーランド株式会社は基本計画図を3部提出し、改定に備えて2部はディズニーランドが、1部は賃借人の建築家が保管すること」

レッド・ワゴン・インはスウィフト社の広告文でこう紹介されている。「過ぎ去った時代の優美な輝きに包まれ、かつての名だたるレストランを彷彿とさせます。店内の調度品はすべて、陽気な魅力にあふれる1890年代の記憶を見事に再現しています。ステンドグラスの天井に、西部随一の歴史的邸宅として知られるロサンゼルスのセント・ジェームズ邸から移築した玄関ホールとロビー。雰囲気を演出しているのは建物だけではありません。ステーキやチョップなどのメニューが、古き良き食事の風景を呼び覚ましてくれます」

■打って変わって大手のスポンサーを次々と獲得

ディズニー映画もそうだったように、最初の成功が悪い流れを断ち切ってくれた。メインストリートには「カーネーション・アイスクリーム・パーラー」「コカ・コーラ・リフレッシュメント・コーナー」「マックスウェル・ハウス・コーヒー・ショップ」といった各企業による店が並ぶことになった。

ホールマークの出店はなかったが、別のグリーティング・カード制作会社であるギブソンが参入した。1932年にドゥーリン一家がサンアントニオのガレージで創業し、50もの工場を持つ企業へと成長していたフリートスは、フロンティアランドにメキシコ料理の店「カサ・デ・フリートス」を出店することになった。

年間賃借料は、メインストリートなら1平方フィート(約930平方センチ)あたり20ドル、その他のエリアなら15ドルだった。建物の設計はウォルトの会社WEDが手を貸すこともできたが、建設費や営業開始後の人件費は出資者の負担だった。

ディズニーランドで使用するアルミ材料に自社製品を採用することを条件に、カイザー・アルミニウムが年間3万7500ドルで出資することも決まった。トランス・ワールド航空とリッチフィールド・オイルは年間4万5000ドルで、コダックは2万8000ドルでそれぞれ年間契約を締結した。ほとんどが5年間の賃貸契約で、契約初年と最終年の賃貸料は契約時に支払われた。

1950年代のディズニーランド・パーク
写真=iStock.com/Jorge Villalba
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jorge Villalba

■ツナサンド販売を巡って競争も

さらに、医薬品製造会社アップジョンも年間3万7720ドルの賃貸料で契約し、雰囲気を盛り上げることになる。アップジョンは、WEDのスタッフが作成した「1900年代風の薬局」の企画を歴史的に不正確だとして却下し、独自に建築家を雇った。そして店が営業を始めた際には、ストライプのシャツにアームバンドをつけた本物の薬剤師を、ふたりも店頭に立たせるという徹底ぶりだった。

来場者に手渡すパンフレットにも、こう書かれている。「この薬局は、ディズニーランドに19世紀のリアリズムを添えています。薬品から調度品、設備に至るまで当時のものを展示した、非常に精巧な博物館でもあるのです。1000点を超えるアンティークの品々は、アップジョン社のスタッフが全米各地を回り、オークションや、屋根裏部屋、歴史ある薬局、ディーラーや歴史家たちから集めたものです。ショーケース、ファン、カウンターなどの設備は、専門家によって設計され、忠実に複製されています」

スターキストとチキン・オブ・ザ・シーの2社の間で、どちらが園内でツナサンドイッチを販売するかで揉めるという出来事もあった。結局、ウッドが最初に声をかけたチキン・オブ・ザ・シーがその権利を手にすることになった。

名だたる企業と契約を結ぶ一方で、ウッドは中小企業にも接触していった。ロサンゼルスのハリウッド・マックスウェル・ブラジャー・カンパニーはメインストリートに下着の店を出店し、「ブラの魔法使い」という機械仕掛けの魔法使いを案内役に、ブラジャーの歴史を追ったディスプレイを展開した。

■マクドナルド1号店出店のチャンスは逃した

そしてついに、鉄道会社AT&SFもディズニーの提案を受け入れて、年間5万ドルで契約した。サンタフェの名は欠かせないシンボルとして、このファンタジーの新世界に刻まれたのだ。さらに、蒸気機関車2台のうち、1台にはAT&SFの創業者であるサイラス・クルツ・ホリデーにちなんで「C・K・ホリデー」、もう1台には、1895年の再編後に初代社長となったエドワード・ペイソン・リプリーにちなんで「E・P・リプリー」と名づけることになった。

リチャード・スノー『ディズニーランド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)
リチャード・スノー『ディズニーランド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)

スポンサー探しが軌道に乗りはじめた頃、ウォルトは1通の手紙を受け取る。「親愛なるウォルトあなたに連絡をするならこの方法しかないと思い、ずうずうしくも手紙をお送りした次第です。わたしはレイ・A・クロックと申します。先ほど、マクドナルドの全米フランチャイズ権を獲得しました。そこで貴殿が開発中のディズニーランドにおいて、マクドナルドにも出店のチャンスがあるかをお伺いしたいのです」

ウォルトはクロックに、手紙を担当者のC・V・ウッドに預けたことを知らせる、心のこもった返事を送った。だが、ウッドは動こうとせず、クロックはディズニーランド開業の3カ月前、イリノイ州のデスプレーンズにマクドナルドのフランチャイズ1号店を出店したのだった。

20世紀産業界の巨人であるディズニーランドとマクドナルドが、手を携えてスタートできなかったのは、今思えば残念だったといえるだろう。

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リチャード・スノー(りちゃーど・すのー)
歴史小説家
アメリカの歴史専門誌『アメリカン・ヘリテージ』の編集長を17年間務めたのち、歴史映画のコンサルタントに。ドキュメンタリー作家としての顔も持ち、2016年出版の“Iron Dawn:The Monitor, the Merrimack, and the Civil War Sea Battle That Changed History”は優れた海軍文学に贈られるサミュエル・モリソン・アワードを受賞している。

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(歴史小説家 リチャード・スノー)

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