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これまでのヒットの法則を変えてしまった…米津玄師「Lemon」の本当にすごい功績

プレジデントオンライン / 2021年12月17日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/artas

ヒット曲が出づらいと言われている音楽シーンで、米津玄師の「Lemon」はCD売り上げ枚数とデジタルダウンロード数を合わせて300万セールスを突破し、歴史的なヒットとなった。音楽ジャーナリストの柴那典さんは「『Lemon』の凄いところは、これまでのヒットの法則を変えたところだ」という――。

※本稿は、柴那典『平成のヒット曲』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■楽曲制作の途中に「じいちゃん」が他界

「じいちゃんが“連れて行ってくれた”ような感覚があるんです」

米津玄師は「Lemon」を作ったときのことについて、筆者の取材に応えてこう語っている。(『音楽ナタリー』2018年3月13日公開)

夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる

こんな歌い出しから始まる「Lemon」は、大切な人を失った悲しみや喪失感を痛切に歌い上げる一曲だ。

最初のきっかけはドラマ主題歌のオファーだった。

『逃げるは恥だが役に立つ』のヒットで名を上げた脚本家・野木亜紀子が手掛けるドラマ『アンナチュラル』(TBS系)の主題歌として書き下ろされたこの曲。法医解剖医を主人公に「不自然な死(=アンナチュラル・デス)」を遂げた遺体の謎を究明していくストーリーには、家族や愛する人の予期せぬ死や理不尽な死に直面し、遺された人々がたびたび登場する。

「傷付いた人を優しく包み込むようなものにしてほしい」。ドラマ制作側からはそんなオーダーがあった。当初はその依頼に忠実に作り始めた。米津にとっても死は自身の表現において重要なテーマの一つで、物語の内容とリンクするものも感じたという。その楽曲制作の途中、2017年12月に、米津の祖父が他界する。

■「すごく個人的な曲になったような気がします」

最初はドラマと自分の中間にあるもの、そこにある一番美しいものを目指して作り始めたんです。でも、そうやって自分の目の前に死が現れたとき、果たしてそれは一体どういうことなんだろうって思って。今までの自分の中での死の捉え方がゼロになった。それゆえに、また1から構築していかなければならなくなった。気が付いたらものすごく個人的な曲になったような気がします。(同前)

ドラマの放送開始は2018年1月だ。米津は2017年11月に4thアルバム『BOOTLEG』をリリースしたばかりである。DAOKO×米津玄師名義の「打上花火」、菅田将暉をゲストボーカルに迎えた「灰色と青」など人気曲を多数収録した『BOOTLEG』は初週売上16万枚を記録しオリコン週間アルバムランキングで初登場1位と、ブレイクの渦中にあった。11月から12月にかけてはアルバムを引っさげた全国ツアーも開催されていた。

前述の取材で、米津は楽曲制作について「ひたすら深海まで潜っていって、その一番下のほうにあるものを取って戻ってくるような作業」と語っている。

ツアー中に曲を作る経験は初めてだった。無理矢理にでも心のスイッチを切り替えざるを得ない多忙な日々の中、まさしく肉親の死を目の前にした人の立場で曲を作ることになった。「傷付いた人を優しく包み込む」というよりも、ただひたすら「あなたの死が悲しい」ということを歌う曲になったと彼は語っている。

そんな状況で作られた歌が、結果的に、歴史的なヒットとなる。

■平成最後の紅白歌合戦に故郷・徳島から出場

この曲は前人未到の記録の数々を打ち立てた。

2018年2月12日に先行配信、3月14日にシングルCDとして発売された「Lemon」は、初週に出荷30万枚を突破し、デジタルダウンロード数75.2万とあわせてミリオンセールスを達成する。

ビルボードジャパン総合ソングチャート「HOT 100」では、この曲は2位のDA PUMP「U.S.A.」、3位の欅坂46「ガラスを割れ!」を大きく上回るポイント数で2018年の年間総合1位となった。

この年に発表が始まったオリコンの年間デジタルシングル(単曲)ランキングでも、レコチョクなど各種配信サイトのダウンロードランキングでも、DAMやJOYSOUNDの発表するカラオケランキングでも、TSUTAYAの発表したレンタルCDランキングでも1位となる。まさしくこの年を代表する一曲になった。

そして2018年の大晦日、平成最後の紅白歌合戦に、米津は故郷・徳島からの生中継で出場する。

テレビでの歌唱はこれが初めてだった。大塚国際美術館システィーナホールの荘厳な空間で歌い上げたこの出演をきっかけにさらに幅広い層に支持が広がり、年を越えて2019年もこの曲は異例のロングヒットを続ける。

■音楽消費の細分化が進む中での「ヒットの復権」だった

ビルボードジャパン「HOT 100」では、この曲は2019年の年間チャートで史上初の2年連続総合1位。前述の各種ランキングでも2年連続1位と、主要年間チャートを席巻した。YouTubeに公開されたミュージックビデオの再生回数も数億回を超えた。

日本レコード協会の発表による2018年の音楽市場規模(音楽ソフトと音楽配信の売上高の合算)は前年比5パーセント増の約3048億円。3年ぶりのプラス成長となったが、5年前、10年前に比べて、全体の売上高が復活したわけではない。

それでも、音楽消費の細分化が進みヒットチャートから「本当のヒット曲」が見えづらくなっていた00年代後半や10年代前半と比べると、幅広い年代に支持された「Lemon」で米津が成し遂げたのは「ヒットの復権」だったとも言える。

◎キャリアの原点はニコニコ動画やボーカロイドシーン

「Lemon」のヒットは、インターネットが育んだ平成生まれの才能が国民的なポップスターとなったという世代交代の象徴でもあった。

米津は1991年、徳島県生まれ。幼少期の将来の夢は漫画家だった。音楽との出会いは小学校高学年の頃。00年代初頭にインターネット上で流行していたFLASHアニメをきっかけにBUMP OF CHICKENを知り、スピッツやASIAN KUNG-FU GENERATIONやRADWIMPSなど沢山のロックバンドに憧れた。中学に入学するとギターを手にし、友人を誘ってバンドを結成した。高校を卒業し専門学校に入学してからも曲を作り続けていたが、バンドはなかなか上手くいかない。

そんな最中に出合ったのが初音ミクだった。

2009年、彼は「ハチ」と名乗り、ボカロPとして初音ミクを使ったオリジナル楽曲をニコニコ動画に投稿する。「結ンデ開イテ羅刹ト骸」という曲をきっかけに注目を集め、続く「マトリョシカ」や「パンダヒーロー」などの人気曲を経て、その名は当時のボーカロイドシーンに一気に知れ渡った。無名のクリエイターが創作の輪を広げていた00年代後半のニコニコ動画やボーカロイドシーンを、米津は自分の“故郷”だと語っている。

そこは新しく生まれた遊び場で、別に将来のことも考えず、みんなでただひたすら無邪気にやってるだけの空間だった。混沌としていて、刺激的で、すごく魅力的だったんですね。そこで得たものは計り知れないし、実際に自分の音楽のキャリアはそこで始まっている。稀有な土壌だったと思います。(『Yahoo!ニュース特集』インタビュー、2017年10月30日公開)

マイクとヘッドセット
写真=iStock.com/kjekol
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kjekol

■「昔から、自分のことを怪獣だと思っていた」

ただ、彼はその場所にはとどまらなかった。

2012年にはアルバム『diorama』をリリースし、本名の「米津玄師」名義でシンガーソングライターとしての活動を開始。2013年にはシングル『サンタマリア』でメジャーデビュー。2014年には初めてライブを行う。少しずつステップを踏みながら、彼はJ-POPのメインストリームへと歩みを進め、キャリアを重ねていった。

ポップソングを作るということは、その頃から目指していたことだった。アルバム『YANKEE』(2014年)リリース時の取材にて彼はこう語っている。

コンビニで買い物をするときのように、自分が好きなものしか手に取らないし、なんとなく耳に入ってきた話題のものしか手に取らない人。そういう人にも届いていくような力を持ったものがポップスだと思います。で、自分としてもそういうものを作りたいと思うんです。(『音楽ナタリー』2014年4月23日公開)

なぜ彼はその道を進もうと思ったのか。

アルバム『Bremen』(2015年)リリース時のインタビューで米津は「昔から、自分のことを怪獣だと思っていた」と語っている(cakes「米津玄師、心論。」2015年12月30日公開)。幼稚園のときに唇に大きな怪我を負ったときの、周囲から異物を見るような視線を浴びた記憶が強く残っているという。少年時代も、決して“みんな”の中に馴染めるようなタイプではなかった。むしろ疎外感と鬱屈を抱え、自分にとってのヒーローのようなバンドに救われるような思いを抱えながら育ってきた。

■普遍性を目指し続けてきた先に「Lemon」が生まれた

今度はそんな存在に自分がなりたい。そんな思いもあった。何より普遍的な音楽を作りたいという強い意思があった。

「たとえば、誰が作ったかもわからないような童謡が今も残ってるわけじゃないですか。(中略)いろんな人のところに届いて『これは私のことを歌ってる』とたくさんの人が共感して口ずさめるようなものじゃないと、そういう風には残っていかないと思う。自分もそういう強度のあるものを作りたいと思うんですね」(cakes「米津玄師、心論。」2015年12月28日公開)

「時代という大きな流れがあるならば、そういうものを体現したいと思うことはありますね。仮にその流れを決めているのが神様だとしたら、俺はひたすら神様に選ばれたいと思う」(同前、2015年12月30日公開)

「Lemon」という曲は、そうやって普遍性を目指し探求の旅を歩んできた米津にとっての、ひとつの到達点でもあった。

■“みんな”の歌ではない曲がなぜこれほど支持されたのか

2019年4月30日、天皇が退位し平成という時代が終わりを告げる。

柴那典『平成のヒット曲』(新潮新書)
柴那典『平成のヒット曲』(新潮新書)

この月、「Lemon」はCD売上枚数とデジタルダウンロード数をあわせて300万セールスを突破した。サザンオールスターズ「TSUNAMI」、SMAP「世界に一つだけの花」に次ぐ3曲目。名実ともに「国民的ヒット曲」としての数字だ。

死を直接的にモチーフにした曲がここまで巨大なヒットになることは多くない。しかし、大切な人との死別は、誰しもが人生の中で必ず向き合わざるを得ない経験だ。

曲は「今でもあなたはわたしの光」という一節で終わる。

「胸に残り離れない 苦いレモンの匂い」「切り分けた果実の片方の様に」という歌詞にあるように、曲名でもあるレモンは歌に登場する“あなた”と“わたし”の深い結び付きを象徴するモチーフだ。

プラトンの対話篇『饗宴』には、人間はかつて球体だったという説が登場する。自分とぴったり合う半身を探し、一つになることを願う思いが愛の起源であると論じられている。そのことを踏まえて考えると、引き裂かれるような悲しみを表現するモチーフにレモンという果実が選ばれたのは一つの必然だったとも言えるだろう。

そして最も重要なポイントは、これだけ大きなヒットになった「Lemon」という曲が、“みんな”の歌にはならなかったということだろう。300万という数字は、社会現象やブームの勢いに押されたわけではなく、歌が描いた悲しみがそれぞれ“ひとり”の胸の内に深く刺さることで成し遂げられたものだ。

平成最後の金字塔は、そういうタイプの曲であったのだ。

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柴 那典(しば・とものり)
音楽ジャーナリスト
1976年生まれ。ロッキング・オン社を経て独立。雑誌、ウェブ、モバイルなど各方面にて編集とライティングを手がける。『ヒットの崩壊』(講談社現代新書)、『平成のヒット曲』(新潮新書)など著書多数。ブログ「日々の音色とことば」Twitter:@shiba710

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(音楽ジャーナリスト 柴 那典)

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