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「なぜ人と会うのはつらいのか」対人恐怖症気味の精神科医が気づいた本当の理由

プレジデントオンライン / 2022年1月13日 19時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg

人と会うことは苦痛を伴う。それはなぜか。精神科医の斎藤環さんは「人と会うことには暴力的な部分がある。攻撃性が見当たらなかったとしても、そこには“他者に対する力の行使”があるのだ」という。作家の佐藤優さんとの対談をお届けしよう――。

※本稿は、斎藤環・佐藤優『なぜ人に会うのはつらいのか メンタルをすり減らさない38のヒント』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■「暴力」は社会の至るところにある

【佐藤】斎藤さんはインタビューで、「新型コロナは、他人と会うことがある種の『暴力』であることを顕在化させた」と、述べています(「朝日新聞アピタル」2020年6月14日配信)。「会うこと=暴力」という言い方には、正直、違和感を覚える人もいるのではないかと思うのですが、そこにはどんな意味が込められているのでしょうか?

【斎藤】まず申し上げておきたいのは、ここで言う暴力は「他者に対する力の行使」すべてを指す概念で、いいとか悪いとかいう価値判断とは無関係だということです。「力」には物理的なものから、心理的、形而上学的なものまで含まれます。ですから、そもそもすべての暴力が非合法であり、悪だと言うことはできません。

【佐藤】国家に不可欠な警察や軍隊は「暴力装置」ですから。

【斎藤】実は一般的な概念としての「他者に対する力の行使」は、社会の至るところにあるのです。人と人が出会うことや、集まって膝を交えて話すことも、まさにそれに該当する。身体的・物理的な暴力はもちろん、目の前にいる人の態度や言葉に一切の攻撃性が見当たらなかったとしても、そこには常にミクロな暴力ないし暴力の徴候がはらまれている、と私は考えるのです。

■人と会うのは苦痛だけど、会ってみると楽になる

【斎藤】「あの人に会わなくてはならない」という気の重さのようなものと、「久々に会えて嬉しい」といった感情という両義性を内包する、と言うこともできるでしょう。まあ「圧力」でも「重力」でもいいのですが、対人関係を表現するという点で、やはり「暴力」が最もしっくりくると感じて、この言葉を使っています。

【佐藤】なるほど。

【斎藤】もう少し具体的に話してみましょう。繰り返しになりますが、私自身、対人恐怖症気味、発達障害気味の人間で、人と会うのは基本的に苦痛なのです。約束の時間が近づくと、妙に緊張したり不安になったりもします。ところが、不思議なことに、実際に会って話をすると、とたんに心が楽になる。毎回この繰り返しで、会えば楽になるのが分かっているのに、会うまでは苦痛を感じたりするわけです。

【佐藤】これも、「そうそう」と相槌を打つ人は、多いのでは。

【斎藤】おっしゃる通りで、以前そのことをブログに書いたら、けっこう膨大な共感の声が寄せられたんですよ。それで、自分と同じ「症状」の人が多数いるのだと分かりました。

【佐藤】私も、「優しい編集者」なども含めて、多くの場合、人と会うのにはやっぱりしんどさを感じます。

■人と会うことは、お互いの領域を侵犯し合う行為

【斎藤】佐藤さんでもそうなのですから、読者の方は、しんどくても心配する必要はありません(笑)。そのように、人に会うというのは、どんなに相手が優しい人であっても、お互いが気を遣い合っていたとしても、それぞれの持つ領域を侵犯し合う行為なのです。相手の境界を越えなければ、会話自体が成り立ちませんから。

【佐藤】確かにお互いの境界内で話すだけなら、独り言と変わりません。

向かい合ってコーヒーを飲む男女
写真=iStock.com/fizkes
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fizkes

【斎藤】私は、コロナによる外出自粛、リモートの導入で、そうした暴力がいったん消滅した結果、逆に社会生活の中でいかにそれが絶大な影響力を行使していたのかが、浮かび上がったように感じるのです。考えてみれば、自分が日常的に行っていた会議も授業も診察も、みんな多かれ少なかれ暴力性をはらんでいたわけです。だから、そこに向かうまでは、とても気が重かったりもする。

【佐藤】では、どうして人間はわざわざつらい思いをしてまで、人と会おうとするのでしょうか?

【斎藤】身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれませんが、「会ったほうが、話が早い」からだというのが、現時点での私の結論です。考えてみれば、これは暴力の本質でもありますよね。

■この暴力がなければ、人間は生きていけない

【佐藤】それは確かにそうです(笑)。考えてみれば、私が長年関わってきた外交などはその典型です。あの仕事は会わなければ始まらない。対面であるがゆえにある種の精神的、身体的な圧力を伴い、だからこそ、お互いに真剣に交渉を展開し、譲歩を引き出せる可能性が生じるわけです。交渉の途中で物理的に遮断できてしまうリモートでは成立しない。怖いから交渉は成立するんです。斎藤さんが指摘されるように「話が早い」というのは、暴力的だということです。

【斎藤】ここで重要なのは、この暴力がなかったら、恐らく人間は生きてはいけないだろう、ということです。言い方を変えれば、生きていこうとしたら、暴力に曝されることから逃れられない。

もう一度、初体験の緊急事態宣言の時のことを思い出していただきたいのですが、あの精神的なロックダウンに近い自粛期間中、たとえるならば、我々は宇宙空間のような無重力状態に置かれました。そして、それが解けた後は、地上に足をついてしっかり体重を感じた。その重さに嬉しさも感じれば、再び立たなくてはならない煩わしさや憂鬱(ゆううつ)さも覚えたわけです。

【佐藤】もし暴力が完全になくなってしまうと、世界は際限なくエントロピー(不確定)化して、我々自身も消えてしまう。裏を返せば、拡散を防ぐためには、ちょっと無理して耐エントロピー構造を作っていかねばならず、その機能を果たすのが暴力にほかならない――。そんな理解でよろしいでしょうか?

【斎藤】おっしゃる通り、社会の根源に暴力があると思うのです。誰かが誰かとコミュニケーションを結ぶという起源のところに暴力がなかったはずはないし、経済の始まりにしても、交換という名の暴力だったかもしれません。

■日本の外交官はあまり「暴力を効率的に行使」しない

【佐藤】それにしても、斎藤さんのお話をうかがってきて、自分のやっていた外交官というのも、まさに「暴力をどう効率的に行使するか」という仕事だったのだと、再認識できました(笑)。どれだけ相手の考えていることを曲げさせて、こちらの意思を通すのかが、外交官の腕ですから。

ただ日本の外交官の多くは、訓令執行は比較的完璧にこなすのですが、情報収集とかロビイングとか、要するに明確な訓令のないところで人に会って何ものかを掴んでくる、あるいは新たなプロジェクトを発動させるというような局面になると、とたんにできる人の数が減ります。かつてに比べて語学力が低下したために気後れしてしまう、というのもあると思うのですが、ご指摘の「人と会うことの暴力性」のような部分の訓練をあまり受けていないことも一因なのかな、と感じます。

【斎藤】一般の外交官は、あまりそのへんは意識しないのですか?

【佐藤】私が知るロシアやイスラエルの外交官は、十分意識してコントロールしていたように思います。日本人でも、交渉がうまい人は、自分が暴力性を帯びたことをやっているという自覚を持っていましたね。そういう人たちは、例外なく人当たりはソフトなのです。

政治家の暴力は、また一味違っていて、腕を上げるとあたかも相手が自ら望んだことのようにして、こちらの意思を強要してしまう。鈴木宗男さんとか、小沢一郎さんとかは、そういう意味で一流の暴力の使い手と言えるでしょう。

【斎藤】まさに政治家という職業も、人に会わないと始まらない。暴力を振るえる空間がないと、意思を通せませんからね。

選挙運動でスピーチする人
写真=iStock.com/imacoconut
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/imacoconut

■Zoomに映る人からオーラを感じることはない

【佐藤】そこでもう一つ質問なのですが、そもそも面と向かって会うことが、そういう暴力性を帯びるのは、なぜでしょうか? 同じように顔が見えているリモートと、どこが違うとお考えですか?

【斎藤】それは現前性、臨場性の効果だと、私は思っています。そこに「物」として存在するということが、非常に強い力を及ぼす。「オーラ」と言ってもいいでしょう。科学的には、なかなか証明しづらいところもあるのですが。

【佐藤】確かに、Zoomに映る人からオーラを感じることは、ほぼないですね。

【斎藤】平時ならあまり意識されることはなかったのですが、実は目の前に人間がいるというのは、それ自体が自我境界を脅かす出来事だったわけです。そのことにより、我々はZoom画面に映るタイル状の平たい顔面をはるかに超えた情報量、エネルギーを否応なしに受け取ることになります。いったんその関係に巻き込まれると、身動きがとれなくなるようなところがあるわけです。

■親切にされることは苦痛でしかなかった

【斎藤】私は、発達障害の人と多く向き合いますが、そういう暴力性に対するセンサーが鋭敏な人たちの気持ちになってみると、このことがよく理解できます。例えば、1992年に、世界で初めて自閉症者の精神世界を内側から描いた『自閉症だったわたしへ』を発表したドナ・ウィリアムズは、同書で次のような心情を綴っています。

あんたなんかに会いたくない、帰ってよ、とウィリー(注:ドナの別人格)は怒鳴った。しかしティムはわたしの手を取ると、わたしにやさしくキスをしたのだ。わたしは両手で乱暴に彼を押しのけた。親密さは痛みに感じられて、耐えることができなかった。ティムは立ち尽くしたまま、そうやってわたしが一人で自分と闘っているのを、見つめていた。

相手がどれほど慈愛に満ちた人間であっても、その優しささえが耐え難い暴力として身に迫ってくる。親切にされること、優しく見つめられること、抱きしめられることはことごとく苦痛でしかなかった、とドナさんは書いています。

【佐藤】自分にとってポジティブかどうかは関係なく、自己の領域に入り込んでくることを受容できないわけですね。

■対面の話には、人を巻き込む力がある

【斎藤】だから、暴力なのです。こうした人に対して、「あなたのためを思ってのことなのに、どうして分かってくれないのか」といった対応をするのは、間違いです。

斎藤環・佐藤優『なぜ人に会うのはつらいのか メンタルをすり減らさない38のヒント』(中公新書ラクレ)
斎藤環・佐藤優『なぜ人に会うのはつらいのか メンタルをすり減らさない38のヒント』(中公新書ラクレ)

ただし、さきほども申し上げたように、そういう現前性のエネルギーを「悪」と決めつけることはできません。「暴力を使えば話が早い」と言いましたが、集団で何ごとかを実行しようと思ったら、集まって多様な意見を取りまとめ、決断し、行動のプロセスを一気に進めるのが、最も効率的でしょう。

卑近な例を挙げれば、私など対面で打ち合わせをやると、ついつい嫌な役回りを引き受けてしまう(笑)。逆に言えば、誰かにそういう依頼をしようと思ったら、会って話すべきなのです。

【佐藤】対面の話には、人を巻き込む力があるんですね。そう言えば、編集者というのも著者を巻き込まないと仕事にならない職業です。私も少し前、編集者に雑談で話したことを「字にしませんか?」と迫られて、その場の勢いでつい「やります」と言ってしまって。で、原稿を書いて発表したら、結構な大ごとになったことがありました(笑)。

【斎藤】まさに暴力の被害者ですね(笑)。

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斎藤 環(さいとう・たまき)
筑波大学教授
1961年、岩手県生まれ。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書に『社会的ひきこもり』、『中高年ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『「社会的うつ病」の治し方』、『心を病んだらいけないの?』(與那覇潤との共著・小林秀雄賞)など多数。

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佐藤 優(さとう・まさる)
作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大矢壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。

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(筑波大学教授 斎藤 環、作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)

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