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日本政府は一切コメントせず…ミャンマー外交を日本財団・笹川陽平会長に任せきりでいいのか

プレジデントオンライン / 2021年12月23日 9時15分

2021年11月13日、ミャンマーの首都ネピドーで会談する国軍のミン・アウン・フライン総司令官(右端)とミャンマー国民和解担当日本政府代表の笹川陽平氏(左から2人目)[ミャンマー国軍提供] - 写真=時事通信フォト

■拘束されたアメリカ人ジャーナリストの解放に関与

11月15日、少し不思議なニュースが流れた。2月以降1280人以上の市民を死亡させる抑圧を続けているミャンマー国軍が、拘束していたアメリカ人ジャーナリストのダニー・フェンスター氏を解放した。その際「笹川陽平・日本財団会長らの働き掛けを受けて解放した」と表明したのである。

言うまでもなく、笹川陽平氏は、日本社会で比類なき「大物」である。その政界・財界における影響力は、比較の対象が見つからないほどだと言えるだろう。同氏が会長・名誉会長を務める日本財団と笹川平和財団は、国際協力分野においても、独特の存在感を持って君臨している。シンクタンク政策研究の分野においてすら、やはりそうだと言える(*1)

笹川陽平氏は、笹川良一氏の非嫡出の三男であるが、後に本妻との間に子を持たなかった良一氏の戸籍に入り、良一氏が創設した日本財団(旧・日本船舶振興会)の会長職を継いだという点で、華麗な「笹川一族」の中心人物である。兄弟に、自民党の衆議院議員だった次兄の堯氏などがいる。陽平氏の次男が、日本財団の常務理事(業務執行理事、経営企画部・コミュニケーション部担当)を務める順平氏(株式会社ナスタ代表取締役社長)だ。

■資産約3000億円の巨大財団

日本財団は総資産約3000億円と言われる巨大財団である。競艇の売上金(2020年で1兆9000億円)の2.6%(2007年までは3.3%)が自動的に日本財団に入るという「モーターボート競争法」の特殊な仕組みで成立している「民間財団」である(*2)。この巨大財団の創設者が、陽平氏の父・笹川良一氏である。良一氏が死去した際には、新聞各紙で「右翼・競艇・『日本のドン』」「A級戦犯で慈善家」などの見出しが躍ったという(*3)

その父・良一氏の財産と負債を相続するとともに、社会活動家としての「良一の運命を自分の宿命に」したと評される(*4)のが、陽平氏だ。1981年に東京都モーターボート競走会会長・全国モーターボート競走会連合会副会長に就任して実父を補佐し始めた後、1989年に日本船舶振興会理事長に就任した頃から、2005年の会長就任も経て、長きにわたり財団を取り仕切ってきた。内紛劇があり訴訟もあったし、財団の在り方について国会で質疑がなされたこともあるが(*5)、陽平氏に深刻な問題が指摘されたことはない。

その笹川陽平会長が、ミャンマー国軍ミン・アウン・フライン最高司令官と会談し、アメリカ人ジャーナリストを解放させた。にわかに捉えがたい性格を持つニュースだ、と日本のマスメディアが受け止めるのは、無理もない。

■“あくまでも個人として行ったもの”と説明

笹川陽平会長は、「ミャンマー国民和解担当日本政府代表」の肩書を持つ。クーデターの遠因になった昨年のミャンマーでの国政選挙では、選挙監視団を率いる役目も担った。2月のクーデター勃発後には、外務省の事務次官をはじめ担当局長・課長が、次々と日本財団の笹川陽平氏を訪れている。笹川会長こそ、日本がミャンマーとの間に持つ最も太い「パイプ」だ。

しかし、笹川会長は、今回のフェンスター氏の解放につながった訪問は、あくまでも個人として行ったものだと説明している。日本政府も、笹川会長のミャンマー訪問は政府とは全く関係がない、と強調している。

11月20日の朝日新聞の記事によれば、笹川会長は、「来日した米国の政府高官から解放に向けた仲介役を頼まれた」、と語っているという(*6)。しかし、米国政府からの公式説明はない。また、この「米国の政府高官」が誰なのかも語られていない。「政府高官」が米国政府の意向を受けていたかどうかもわからない。

■日本政府が軍政を承認しない中での「民間外交」

笹川会長は、非公式のセカンド・トラック(民間)外交の交渉者として行動した。一般に使われている言葉で言えば、「フィクサー」として行動したわけである。ちなみに笹川会長の訪問の直前には、アメリカの元議員/大使/長官であるビル・リチャードソン氏(後述する笹川会長の関わったカーター元米国大統領の北朝鮮訪問に関与していたとされる)も電撃訪問を行い、ミン・アウン・フライン最高司令官と会談していた。

ミャンマー・ヤンゴンの市街地
写真=iStock.com/Oleksii Hlembotskyi
ミャンマーの最大都市ヤンゴンの市街地(2020年1月22日撮影) - 写真=iStock.com/Oleksii Hlembotskyi

米国政府も日本政府も、クーデターを起こした国軍の軍政を承認していない。フェンスター氏は禁錮刑に服していたといっても、軍政に批判的な記事を書いたために不当に拘束されていたことは自明だ。各国政府としては、超法規的措置で認めてもらうという恩を着せられる形での解放を交渉するわけにはいかない。

ミャンマー国軍がリチャードソン氏や笹川氏のような影響力のある外国人の「要請」を歓迎しているのは、軍政に対する国際的な認知を欲しているからだ。笹川会長は、国軍に対する支援はしていないが、日本財団としてのミャンマー各地への支援を約束している。形だけをとれば、「ギブ・アンド・テイク」の交渉が成立していたように見えないことはない。非常に微妙な一線がそこに引かれている。

■フィクサーとしての行動をどう評価するか

各国政府が公式に「取引」に喜んでいるかのようなそぶりを見せてしまったら、次なる「人質」が交渉材料として生まれる危険性が高まる。もし国際社会の批判的態度が和らいだと国軍が解釈したら、ミャンマー市民はいっそうの危険にさらされる。実際、「笹川会長らの要請を受けてフェンスター氏を解放」した直後も、国軍は新たな市民の殺害・拘束戦を続けている(*7)。救われたのはアメリカ人のジャーナリストだけで、ミャンマー市民に対する抑圧はむしろ悪化している。

日本を含めた各国政府は、笹川氏の「交渉」を認知しない。認知を求めるのであれば、笹川会長は交渉をするべきではなかったし、実際、笹川会長はそれを求めていない。求めてしまえば、日本政府の立場のみならず、日本財団の支援ですら、その政治的意図や効果が怪しまれることになるからである。フィクサーとして行動した笹川会長の行動の評価は、極めて繊細な性格を持っている。

■北朝鮮問題でも展開されたセカンド・トラック外交

このような他者には遂行できない特殊な仕事を行う笹川会長は、実際に他に類例を見ない特殊な人物である。その存在そのものが特異であると言って過言ではない。今回のミャンマーでの動きと似た笹川会長の行動は、過去にも見られた。劇的な事例の一つが、1990年代の北朝鮮だ。

笹川陽平氏(当時は日本財団理事長)は、1992年に平壌で金日成国家主席(当時)と会談した。長時間にわたった会談で、笹川陽平氏は、アメリカとの接触を、金主席に助言した。そして親交のあったカーター元米国大統領との会談を仲介することを約束した。

そのような経緯で実現したカーター元大統領の訪朝は、折しも北朝鮮の核開発危機の緊張が高まった1994年に実現した。北朝鮮に対する爆撃を討議する国家安全保障会議を開催していたクリントン大統領(当時)に北朝鮮から電話をしたカーター氏が、「金日成から核不拡散条約に再加盟することを取り付けた」と述べ、危機は回避された(*8)(なおこの時にカーター訪朝に懐疑的だったクリントン政権関係者に代わってカーター元大統領を助けたとされるのが、当時下院議員だったビル・リチャードソン氏である)。

民間外交官としての笹川陽平氏の働きがさらに論議を呼んだのは、1997年の第二回の北朝鮮訪問の際の「日本人妻の里帰り」問題だ。このとき、笹川陽平氏は、500人規模の北朝鮮人の妻として北朝鮮に渡った日本人の里帰りを、北朝鮮側に約束させている。北朝鮮側は、日本からの支援を強く望んで、渋々承諾した。ただし笹川陽平氏は、自分はあくまでも人道的見地から要請しただけだ、と強調した(*9)(*10)

■外務省との微妙な関係

結局、このときは、北朝鮮側の一方的な発表に対して、日本政府側が反応せず、16人ずつ2回の「里帰り」が実現しただけの結果に終わった。笹川陽平氏は、外務省の極めて冷淡な態度を振り返りながら、里帰り問題で勢いをつけていれば拉致問題にも好影響があったのではないか、との観測を披露する(*11)

ただし、当時、数多くの笹川一家の批判記事を『文芸春秋』誌に寄稿していたジャーナリストの加賀孝英氏などは、むしろ「日本人妻の合意で、拉致問題が棚上げされているのではと危惧の念を持っています」という拉致被害者家族の声を伝える批判的な記事を書いた(*12)

鄧小平、ゴルバチョフ、サッチャー、ハベルと、世界各国の首脳級と次々と個人的親交を持ち、時には重大課題に関する事実上の交渉まで行う笹川陽平氏の存在は、外務省と微妙な関係を持ちがちだ。北朝鮮問題は、それがすれ違いに終わった事例だったと言える。

■最も太いミャンマーとの「パイプ」

これに対して、社会的地位もよりいっそう強固となった21世紀の笹川陽平氏と外務省は、ミャンマーに関して、蜜月と言ってよい関係を持ってきた。

日本外交はミャンマーに「パイプ」を持つ、と強調されてきた。「パイプ」の一つは、外務省も自信を持つミャンマー通の丸山市郎大使だが、クーデター以降、全く存在感を見せることができていない。

もう一つの「パイプ」は、元大臣としてミャンマー政府高官(特に国軍関係者)と関係を持ち、ODA受注大手企業を会員とする協会の会長として、主に日本国内で影響力を誇ってきた渡邉秀央・日本ミャンマー協会会長である。5月に渡邉会長がミン・アウン・フライン最高司令官と会談した後、日本人ジャーナリストの北角裕樹氏が解放された。その日、日本政府は国連機関を通じたヤンゴン近郊への食糧支援の実施を発表した。

しかし恐らく一番太い「パイプ」なのが、巨大民間財団の会長として巨額の資金を長期にわたって投入しながら、日本政府代表として調停にもあたる、笹川陽平会長である。笹川会長は、独自の政治交渉と援助資金を駆使して、ミャンマー政治への関わりを見せてきた。その関与のきっかけは、父・良一氏の時代から日本財団が取り組んできているハンセン病制圧のための活動であった。

■多方面に伸びる人脈

民主化前の軍政時代から、日本財団を通じて、笹川陽平会長はミャンマーに対する医療支援や学校建設に取り組んできた。多数派のビルマ人地域だけでなく、反軍政の武装勢力もひしめく山岳部の少数民族地域でも社会活動を行ってきたため、多方面に伸びる人脈を持つ。

ミャンマーのスクールバス
写真=iStock.com/Joel Carillet
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Joel Carillet

そこで民主化を開始した当時のテイン・セイン大統領に見込まれ、和平調停に関わるようになる。これに呼応した日本政府が、ミャンマー国民和解担当日本政府代表の肩書を笹川会長に与えた。2015年の国軍と8つの少数民族武装勢力との間の停戦合意の際には、式典に出席し、証人として署名もしている。笹川会長が、人道的活動の枠を超えて、和平調停と言うべき政治的領域に踏み込んで敵対勢力間の対話を促す役割を果たそうとしてきていることは、周知の事実である。

だが人道支援を主たる活動領域としていたはずの財団の会長が、日本政府代表として政治的調停者としても振る舞うことには、繊細な要素が含まれてくる。人道主義的見地からことさら中立的であろうとする立ち位置が、常に日本政府代表として調停をしようとする立場と一致するとは限らない。そこに「パイプ」があることはわかっているが、その「パイプ」がいったい何なのかは、よくわからないのである。

たとえば今回のミャンマー訪問で、笹川陽平会長はアラカン州にも来たとミャンマー系メディアで報じられている(*13)。もし、ミン・アウン・フライン最高司令官の意をくんで、最近になって戦闘が再発しているアラカン軍と国軍の間の停戦を調停しようとするならば、それは全土で反抗に遭っている国軍を助ける行為に等しくなる。他の少数民族集団から見てだけではなく、反国軍の運動に参加しているビルマ人の若者にとっても、全く中立的には見えない行動だ。まして停戦の見返りのようにアラカン州に人道支援を入れるなどということになったら、物資の枯渇にさらされている他の地域の人々から見て、なおいっそう中立的ではない。

笹川会長は、あるときは「日本政府代表」、別の機会は「日本財団会長」、次の日には「個人の資格で」といった言い方を使い分けているつもりなのだが、果たしてそのような操作に実質的な意味があるかは、疑わしい。確かに、笹川会長ほどミャンマー社会に浸透している日本人は珍しい。しかしだからといって、特に現在の大混乱の最中に、全てのミャンマー人から中立的に等しく信頼される形で行動できるかといえば、それは極めて難しいだろう。すでに国軍寄りの人物だという評判を相当に高めてしまっているのが、その証左である。

■日本外交そのものが持つ曖昧さ

日本政府は、笹川会長の行動を、政府とは無関係な出来事として扱い、一切のコメントを避けている。国軍メディアから、市民派のSNSに至るまで、ミャンマー人たちが笹川会長を「日本政府特使」と呼んで、追いかけているのを知りながら、無関係を装っている。果たしてこれは戦略的に計算され尽くした協働なのか、見えてこない。

今回の笹川陽平会長の電撃訪問によって、「民間外交官」の「フィクサー」が「パイプ」として役割を持つことの繊細さが顕在化した。だがそれは、日本外交そのものが持つ曖昧さとも結びついている。(後編に続く)

(*1)日本財団等の活動については、伊藤隆(編)『ソーシャル・チェンジ 笹川陽平、日本財団と生き方を語る』(中央公論新社、2019年)などが詳しい。
(*2)「笹川三代目を据える『日本財団』の奥の院」(『ZAITEN』2019年2月号、同誌特集班)P.24~25
(*3)高山文彦『宿命の子 笹川一族の神話』(小学館、2014年)P.8
(*4)上記書の著者インタビュー「黒い噂に染められた笹川良一の実像とは?」(東洋経済オンライン、2015年3月7日)
(*5)第129回国会 平成六年四月十九日提出 質問第五号「笹川良一氏、陽平氏親子とモーターボート競走業界並びに財団法人日本船舶振興会に関する質問主意書」(提出者=楢崎弥之助)
(*6)「米国人解放『国軍トップに働きかけた』 ミャンマー入りの笹川陽平氏」(朝日新聞デジタル、2021年11月20日)
(*7)“Daily Briefing in Relation to the Military Coup”, Assistance Association for poritical Prisoners, December 14, 2021
(*8)笹川陽平『外務省の知らない世界の“素顔”』(産経新聞ニュースサービス、1998年)第1章
(*9)「日本財団理事長笹川陽平 緊急インタビュー 食糧危機に直面する北朝鮮の現状とは 北朝鮮日本人妻の一時帰国を実現させるまでの顛末」(『財界』1997年8月26日号)>P.62~65
(*10)「緊急インタビュー笹川陽平・日本財団理事長に聞く 北朝鮮・日本人妻の里帰りはこうして実現した」(『月刊経営塾』1997年9月号)P.42~45
(*11)伊藤(編)『ソーシャル・チェンジ』P.203
(*12)「拉致問題追及で重大疑惑――笹川陽平日本財団理事長 金正日への衝撃密書」(加賀孝英、『文芸春秋』1998年6月号)P.138~150
(*13)“Arakan Army releases 15 captives arrested during armed conflict with Myanmar military”(Myanmar Now, Nov 17, 2021)

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篠田 英朗(しのだ・ひであき)
東京外国語大学教授
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』(風行社)、『ほんとうの憲法―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。

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(東京外国語大学教授 篠田 英朗)

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