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「むしろ凡庸だから生き残れた」秀吉、家康の天下になっても織田家が幕末まで続いたワケ

プレジデントオンライン / 2021年12月17日 11時15分

イラスト=『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』

織田信長の次男・信雄は、織田家を引き継ぐ立場にありながら当主にはなれなかった。歴史研究家の河合敦さんは「それは周囲から凡庸だと思われていたからだ。だが、凡庸だったからこそ幕末まで大名としての地位を守ることができた」という――。(第1回)

※本稿は、河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)の一部を再編集したものです。

■周囲から凡庸だと思われていた信長の次男

織田信雄は、信長の次男である。だから、本能寺の変(1582)で、父・信長と兄・信忠が自害した後、本来なら織田家の当主となり、父の天下統一事業を引き継ぐ立場にあった。ところが、羽柴(豊臣)秀吉の策略によって、織田家の当主は、清洲(愛知県清須市)会議であっけなく信忠の嫡男・三法師(まだ3歳の幼児)に決まってしまった。

ただ、信雄が当主になれなかったのは、ある意味、仕方がない。なぜなら、彼は凡庸だと思われていたからだ。

実際、清洲会議では織田家の重鎮・柴田勝家が三男・信孝を後継者に推したのに、信雄を押す重臣は誰もいなかった。信雄の低評価を決定づけたのは、信長が亡くなる3年前の天正7年(1579)のことだった。

当時、伊勢国南部(三重県)を支配していた信雄は、父に無断で隣国・伊賀(三重県西部)へ攻め込んで大敗を喫し、激怒した信長から激しい折檻状(せっかんじょう)を突きつけられた。その内容を現代語訳すると、こんな感じになる。

「このたびの伊賀への出陣は天罰だ。お前は、上方へ出陣すると民百姓が難儀すると考え、近くの伊賀に兵を繰り出したのだろう。若気の至りであり、誠に無念至極だ。お前が上方へ出陣するのは、父や兄のためであり、そして、なによりお前の将来のためなのだ。なのに、勝手に伊賀へ兵を出したうえ、重臣らを討ち死にさせたのは、言語道断の曲事。そんなことでは、もうお前とは親子の縁を切るしかないな。使者から直接申し聞かせるから、よく肝に銘じておけ!」

■秀吉に戦いを挑んだが、あっさりと降伏してしまう

さて、三法師が織田家の当主に決まった後、秀吉と対立した三男・信孝が三法師を手許から離さなかったので、秀吉によって代わりに信雄が織田家の当主にまつり上げられた。

信雄は、これで一時満足したようだが、やがて秀吉は巨大な大坂城をつくり始め、天下人として行動するようになる。すると、ないがしろにされたと感じた信雄は、秀吉に内通したとして家老3人を殺害し、徳川家康と結んで秀吉に戦いを挑むことになった。

一説には、秀吉が挑発して、信雄を挙兵させたのだともいう。こうして天正12年(1584)、信雄・家康連合軍は尾張(愛知県西部)の小牧山に陣取り、秀吉は楽田に陣をすえた。総兵力は徳川・織田連合軍2万に対し、秀吉方は諸軍あわせて10万だったと推定される。

本軍は数カ月間、対峙を続けたが、この間、信雄の領地は、秀吉の別働隊による侵略が進んでいった。長久手の戦いでは、徳川軍が羽柴軍を撃破するが、なんと、まもなく信雄は家康に相談なく、秀吉と単独講和を結んでしまう。秀吉が、さらに信雄の領地に軍勢を送って伊賀国を奪い、南伊勢を制圧、ますます圧迫を加えたからである。

同時に、寛大な講和条件を出したという。一説には、秀吉が自ら信雄に会いにいき、手を握って涙を流し、その不義をわびたという伝承もある。

豊臣秀吉像
写真=iStock.com/Atiwat Studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Atiwat Studio

■秀吉との立場は完全に逆転し、家臣のような立場に

信雄が勝手に講和してしまったので、大義名分を失った家康は仕方なく、次男の秀康を秀吉に差し出して兵を引いた。翌年、秀吉は、紀伊(和歌山県、三重県南部)と四国を平定、関白に就任し、朝廷の権威を利用して政権を樹立した。

この年、信雄は秀吉の招きで上洛し、大坂城を訪ねて茶を馳走になり、従三位権(ごんの)大納言に叙されたが、秀吉との立場は完全に逆転し、家臣のような地位に落ちた。その後、秀吉は家康を臣従(しんじゅう)させ、九州を平定し、天正18年(1590)、最後の仕上げとして20万の大軍で関東の小田原北条氏を包囲した。

北条氏を平定さえすれば、東北の諸将もいっせいに豊臣方になびき、秀吉が天下を統一するのは確実だった。この小田原平定に、信雄も1万5千をつれて参戦し、韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)を攻めた。

同年7月13日、北条氏を平定した秀吉は、開城させた小田原城において、諸大名を招いて論功行賞をおこなった。信雄は、韮山城攻撃の功績で家康の旧領を与えられ、新地へ転封することになった。尾張と北伊勢五郡の大名から、三河・遠江(とおとうみ)・駿河(するが)・甲斐・信濃(主に東海から信州にかけて)を有する5カ国の大大名になることが決まったのである。

■よかれと思った判断の結果、すべての領地を没収されてしまう

ところが、である。信雄は、考えた末に「私は父・信長が残してくれた今の領地で満足していますので、このままで結構です」と加増を固辞したのだ。どうやら、父祖の地である尾張から離れたくなかったらしい。おそらく信雄は、加増を辞退しただけなので、とくに問題ないと判断したのだろう。

むしろ「功績のある自分に5カ国も与えなくて済むのだから、秀吉は喜ぶだろう」と、軽く考えた可能性もある。だが、そんな軽い気持ちでの返答が、信雄の人生を一変させてしまったのだ。

小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』には、「粤に甚逆なる事あり。信長公二男北畠中将信雄卿をば、秋田へ遠流せられにけり」(檜谷昭彦・江本裕校注/岩波書店)と書かれている。「甚逆なる事」とは、加増による転封を固辞したことだろう。

そう、これにより信雄は、すべての領地を公収され、配流処分になったのである。まさか信雄自身も、こんな厳罰が待っていようとは、夢にも思わなかったろう。それは、ほかの大名や同時代の人びとも同じ気持ちだった。

ルイス・フロイスは、この件に関して、その著書『日本史』で次のように記している。「かつて関白は信長の家臣であり、その人物(信雄)は(ほかならぬ)信長の息子であったこと、彼の領国の国柄ならびに高貴さ、また信長の司令官や武将達の大部分が参集して、その側近者が豪華であったことなどをかんがみて、このできごとは日本中にいいようのない恐怖と驚きょうがく愕を与えた。(信雄は)日本におけるもっとも強大で高貴な武将の一人であったにもかかわらず、関白はただ一人、小者と称されている若者しか仕えることを許さぬことにしたので、万人に驚愕の念を生ぜしめずにはおかれなかった」(藤田達生著「豊臣期の織田氏―信雄像の再検討―」柴裕之編『論集 戦国大名と国衆 20 織田氏一門』岩田書院)

■秀吉に許しを請うて“お話し相手”にしてもらう

このように、秀吉の信雄に対する処置は、「日本中にいいようのない恐怖と驚愕」「万人に驚愕の念」を与えることになった。秀吉という天下人の機嫌をそこねたら、たとえ主家筋の人物であっても、すべてを取り上げられてしまう。秀吉は自分たちの生殺与奪権を握っているのだということを、諸大名に改めて実感させることになった。

ちなみに、秀吉が信雄を配流したのは、転封を固辞したのに加え、京都に壮麗な屋敷をつくって天皇に行幸してもらおうとしたことも、気に触ったのだといわれる。

それにしても、信雄にとっては青天の霹靂だったろう。なお『太閤記』にあるように、すぐに信雄は秋田へ送られたわけではなく、最初に下野烏山(しもつけからすやま)(栃木県烏山市)に流された。このとき、一切家臣は従うことが許されず、身の回りの世話をする小者一名がつけられただけだった。秀吉の怒りの大きさがわかる。

翌年、秋田へ身柄を移されたらしい。その後、さらに伊予(愛媛県)に移っている。この間、信雄は出家して常真と名乗った。もし、信雄にプライドがあるなら、そのまま世を終え、矜恃(きょうじ)を保つべきだった。

ところが信雄は、朝鮮出兵のため肥前の名護屋(なごや)城(佐賀県唐津市)にいる秀吉のもとに出向いたのである。秀吉に許しを請うためだ。家康の進言だったとか、秀吉から招かれたなど諸説あるが、情けないことに、これを機に信雄は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)に取り立てられることになった。

御伽衆というのは、主君に近侍して、自分の見聞や知識などを披露する役目、ようはお話し相手である。秀吉は、かつて父の臣下にあった男。しかも、自分から父祖の地を取り上げ貶(おとし)めた人物だ。そんな人間の話し相手として仕えるなんて、この男には自尊心がなかったのだろうか。

■石田三成に「あなたを西軍の総大将にしたい」と言われるが…

ともあれ、信雄は大和国内に1万7千石を賜(たまわ)り、大名に復帰することができた。また、信雄の息子・秀雄も越前国大野(福井県大野市)に4万5千石を与えられた。ただ、その後も信雄の人生が落ちついたわけではない。

慶長5年(1600)、豊臣家が分裂して、関ケ原合戦が起こった。小牧・長久手の戦い以来、信雄は家康と親しい間柄だったので、当然、徳川の東軍に味方したかといえば、そうではなかったのだ。石田三成が「あなたを西軍の総大将にしたい」と信雄に言い寄ったらしい。その報酬は尾張一国と黄金一千枚だという。

信雄が正二位(しょうにい)内大臣の地位を有し、主君・秀頼の母・淀殿とは従兄妹どうしだったからだ。三成にしてみれば、そんな信雄を引き入れることで、西軍の勢力を増やそうとしたのである。「もしかしたら今度こそ自分が天下人になれるかもしれない」そう思ったところが、信雄の浅はかなところだった。

関ケ原
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

しかし、ぐずぐずしているうちに、どちらにも加担することなく、天下分け目の合戦はわずか一日で、家康の圧勝に終わってしまった。一説によれば、黄金千枚という約束が、届いたのが銀千枚だったため、三成の誠実さを疑って動かなかったという。

なお、信雄の息子・秀雄は西軍に身を投じたため、戦後、領地を没収されてしまっている。ただし、信雄には何のお咎とがめもなかった。

■豊臣家が滅亡したタイミングで再び領土を与えられる

その後、信雄は大坂の天満(てんま)屋敷に住むようになり、大坂城の豊臣秀頼のご意見番のような立場となり、豊臣家で重んじられた。しかし、慶長19年(1614)、豊臣氏と徳川氏の関係が決裂すると、大坂から逃げ出し、幕府の京都所司代の保護を受け、嵯峨へこもってしまった。

家康はこの決断を喜び、使者を派遣して信雄を讃え、大坂城を攻撃するため立ち寄った京都の二条城で久しぶりに信雄と会見した。豊臣家が滅亡した元和元年(1615)、信雄は大和、下野のうち5万石を与えられた。すでに長男の秀雄は5年前に死んでしまっていたので、信雄は四男の信良に2万石を分け与え、自分はそのまま京都にいて悠々自適の生活を送った。

その間、徳川家康も死に、将軍は秀忠を経て家光になっていた。寛永5年(1628)にはそんな将軍・家光が催した江戸城の茶会に参列している。それから2年後、信雄は京都の北野において73歳の生涯を閉じた。

■凡庸だったからこそ最後まで生き延びることができた

その遺領は、五男・高長が相続した。四男・信良の系統は上野小幡(こうずけおばた)藩(群馬県甘楽郡小幡)として、五男・高長の系統は宇陀(うだ)松山藩(奈良県宇陀市)として存続することになった。

河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ 「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)
河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)

数多くいた信長の息子のうち、幕末まで大名としての地位を守ったのは、この信雄の家柄だけだった。いずれにせよ、こうして信雄の人生を追っていくと、プライドが高い割には決断力に欠ける人情家で、お人好しのような印象を受ける。そんな性格が災いして、秀吉に天下を簒奪(さんだつ)されてしまったものの、家康から危険人物と見なされなかったことが、大名として存続できた要因のようにも思える。

三男・織田信孝のように有能であったら、間違いなく信雄は天下人たちに生かされていなかっただろう。凡将であったこと、それが皮肉にも、命脈を保つ最大の要因となったのではなかろうか。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)

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