「日本で唯一の暗殺された天皇」結果として日本初の女性天皇を生んだ崇峻天皇の"ある失言"
プレジデントオンライン / 2021年12月18日 11時15分
※本稿は、河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)の一部を再編集したものです。
■ささいな悪口がきっかけで暗殺された崇峻天皇
第32代・崇峻天皇は、史実として暗殺されたことが明らかな唯一の天皇(大王)である。しかもそのきっかけは、ほんのささいな悪口だった。
崇峻天皇を殺害したのは、蘇我馬子である。蘇我氏は、部下に渡来人(大陸からの移民)などを多く採用し、大和政権の財政をつかさどるようになった。そして、馬子の父・稲目(いなめ)のとき、欽明朝で大臣(おおおみ)に就いて大きな力をふるい始めた。いわば新興勢力といえよう。
ただ、当初はライバルの物部(もののべ)氏のほうが、勢力が強かった。538年に仏教が公伝した際、欽明天皇は仏教の受容をめぐって臣下にはかったが、崇仏を主張する蘇我稲目に対し、大連(おおむらじ)の物部尾輿(おこし)が「国つ神(祖先神)の怒りを招く」と反対したので、公的な崇拝は沙汰止みとなっている。この崇仏論争がきっかけで、蘇我氏と物部氏は激しく反目するようになった。
馬子は敏達(びだつ)天皇が即位した際、父同様に大臣となり、次の用明天皇の時代もその地位に留まった。587年に用明が崩御すると、馬子のライバルである大連の物部守屋(尾輿の子)が穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、用明天皇の弟)を擁立しようとした。
穴穂部皇子の母は、蘇我稲目の娘だったが、守屋がそんな蘇我系の皇族を擁立しようとしたのには訳があった。二人は強い絆で結ばれていたのだ。
■自分で即位させた天皇を暗殺した蘇我馬子
前代の敏達天皇が崩御したとき、穴穂部皇子は、敏達天皇の殯宮(もがりのみや)(正式な埋葬まで棺を安置しておく宮殿)に乱入しようとした。なかには皇后など特別な人間しか入れないのに押し入ろうとしたのは、『日本書紀』によれば、敏達の皇后で美人の誉れの高い炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)を強姦するのが目的だったという。
しかし、敏達の忠臣・三輪逆(みわのさかう)に妨害されて、入ることができなかった。これに腹を立てた穴穂部は、物部守屋と蘇我馬子に逆(さかう)の誅伐を命じた。馬子は躊躇したが、守屋が率先して攻め立て、最後は穴穂部が自ら逆を射殺したという。
これを見た馬子は「天下はまもなく乱れるだろう」と嘆いたというが、以来、蘇我系の皇族ながら穴穂部と守屋の関係は親密になったというわけだ。だから、用明天皇が亡くなると、馬子は穴穂部の即位を阻止すべく、炊屋姫尊を奉じて穴穂部皇子の殺害を佐伯連丹経手(にふて)らに命じた。
夜中に襲撃を受けた穴穂部は、肩を射られて楼閣(ろうかく)から落ち、その後、部屋に逃げ込んだが、兵士たちが探索してこれを仕留めた。そして翌月、馬子は大軍を率いて物部守屋を打倒したのだった。
皇位は3カ月以上空位だったが、同年9月、馬子は崇峻天皇を即位させた。崇峻も敏達、用明、穴穂部と同じく欽明天皇の皇子であった。母は蘇我稲目の娘である小姉君(おあねのきみ)であり、馬子にとっては甥にあたった。こうして馬子は、完全に朝廷の実権を握ったが、それから5年後の592年11月3日、前代未聞の事件が起こった。そう、馬子が崇峻を弑逆(しいぎゃく)したのである。
■聖徳太子も崇峻天皇の言葉に驚いた
これより前の10月4日、崇峻天皇のもとに猪を贈ってきた者がいた。これを見た崇峻は、その猪を指さして「いつかこの猪の首を切るように、私が憎んでいる人を斬ってやりたい」と言ったのである。しかもこの時期、朝廷では普段とは異なり、なぜか多くの兵や武器を集めていたのだ。ゆえに馬子は、崇峻が自分を殺すつもりだと判断し、先手を打ったのだという。
古記録によれば、この言葉を述べたのは宴のときで、聖徳太子(厩戸(うまやど)王)も側にいた。太子は大いに驚き、「今の天皇の言葉をほかに漏らしてはいけない」と、皇族や豪族たちに口止めしたが、一人の愚人が馬子に告げてしまったのだとされる。いずれにしても、崇峻と馬子の間には抜き差しならない対立があったのだろう。
馬子は、「今日は東国から調(税)をたてまつる日だ」と群臣を偽り、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を送って崇峻天皇を殺害したのである。
一説には、直駒は驕慢(きょうまん)で怪力の持主であり、夜、天皇の寝室に入り、寝ているのを確認すると、剣で斬り殺したといわれている。なお、刺客の東漢直駒は、犯行後、崇峻天皇の妃で馬子の娘であった河上娘(かわかみのいらつめ)を自分の妻にしたことが露見し、馬子の命令で殺害された。
■皇位継承者がまったくいなくなってしまった
もちろん、これは口封じのためだろう。馬子は、河上娘を与えると直駒に約束したのかもしれないし、直駒が河上娘に懸け想そうしていたのか、それとも蘇我氏の外戚として栄達できると思ったのかわからないが、うまく利用されて抹殺されたわけだ。
いずれにせよ、他愛のない悪口が命取りになろうとは、崇峻天皇も思わなかったろう。ちなみに崇峻の人物や性格については、『日本書紀』などにはまったく記されていない。
ただ、崇峻が殺害されたことで、非常に困った状態に陥った。天皇の地位は、兄弟相続が原則であった。欽明天皇の後は、その息子の敏達→用明→崇峻と皇位は継承されていった。ところが、崇峻を殺したことで、もうその兄弟がいなくなってしまったのである。
研究者の大津透氏は、「大王の暗殺は異様な事態である。『日本書紀』には、『嗣位既に空し』と記すが、これは皇位継承者がまったくいなくなってしまったという意味である。つまり、崇峻で、欽明の皇子の世代の兄弟継承が終わるのである(だから馬子とそりがあわなくても即位したのだろう)」(『天皇の歴史01神話から歴史へ』講談社)と論じている。
■暗殺がきっかけで初の女性天皇が誕生した
さらに大津氏は、当時の状況を分析し、欽明の孫の皇子たちはいずれも亡くなっており、最年長は19歳の用明天皇の子・聖徳太子であり、即位するには若すぎたと述べる。こうして、前代未聞の皇位継承がおこなわれることになった。そう、初めて女性が天皇の位についたのである。
それが敏達天皇の皇后で、馬子の姪である炊屋姫尊であった。
当時39歳の炊屋姫尊は、群臣たちから即位を依願されるが、前例がないこともあって再三辞退した。しかし最終的に引き受けたのである。こうして日本初の女帝・推古天皇が即位した。
同時に、聖徳太子が皇太子となり、推古を補佐する摂政の職についたと『日本書紀』は記している。この例が最初となって、以後、天皇の娘であり皇后である人物が、適当な男性の皇位継承者がいないとき、中継ぎとして即位するシステムが始まることになった。そういった意味でも、うかつな悪口で殺された崇峻が天皇制の在り方を変えたともいえるのである。
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歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)
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