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明治政府を支配できたはずなのに…最後の将軍・徳川慶喜の"痛すぎるしくじり"

プレジデントオンライン / 2021年12月19日 11時15分

『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』より

なぜ徳川慶喜は260年続いた江戸幕府の政権を朝廷に返したのか。歴史研究家の河合敦さんは「薩長が倒幕の準備を進めていたことに加え、自分が新政府の盟主になれるはずだと考えていたからだろう。ところが、判断ミスが続き、人生は暗転した」という――。(第3回)

※本稿は、河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)の一部を再編集したものです。

■幼少期から期待されていた慶喜

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭の子として生まれ、一橋家(徳川御三卿の一)の家督を継いだ。幼少より聡明だったので、斉昭もその将来に大いに期待を寄せ、ことのほかかわいがった。

やがて病弱な13代将軍・家定に子が生まれる可能性のないことがわかると、斉昭をはじめ開明的な雄藩の大名たちは、その後嗣に慶喜を強く推した。ところが、大老の井伊直弼が紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)(家茂)をその座にすえ、反発した一橋派の大名を弾圧(安政の大獄)、慶喜も数年間の逼塞(ひっそく)を余儀なくされた。

しかし文久2年(1862)に復権して、14代将軍・家茂の将軍後見職となり、政局の中心である京都で目覚ましい活躍を見せると、元治元年(1864)に孝明天皇の信頼を得て、朝廷の禁裏守衛総督に任命された。

慶喜は、会津藩主・松平容保らと結んで、京都で政治権力を持つようになり、慶応2年(1866)夏、第2次長州征討の最中に家茂が病死すると、これにかわって15代将軍になった。だが、長州征討で幕府軍が長州藩に敗北したことにより、倒幕の流れは一気に加速する。すると慶喜は、土佐藩の献策を受け入れ、慶応3年(1867)10月、朝廷に政権を返上(大政奉還)したのである。

それにしてもなぜ慶喜は、260年続いた江戸幕府の政権を朝廷に禅譲したのか。

■政権は朝廷に返したが、将軍職には居座っていた

一つは、同時期に倒幕派の岩倉具視や大久保利通の画策で、朝廷が討幕の密勅を薩長に下そうとしていたからだ。密勅は形式が整わぬ非公式のものだったが、これを盾に薩長は挙兵するつもりだった。つまり事態は切迫しており、おそらく慶喜もこの動きを察知して、大政奉還を決断したのだろう。

世界遺産の二条城(京都市中京区)で、国宝の二の丸御殿の特別入室が14日から始まる。大政奉還の表明が行われた大広間の二の間に入り、内部の障壁画や欄間彫刻を間近で鑑賞できる。8月30日まで。期間中は学芸員による解説会も開かれる=2021年7月6日、京都市中京区
写真=時事通信フォト
世界遺産の二条城で、国宝の二の丸御殿の特別入室が14日から始まる。大政奉還の表明が行われた大広間の二の間に入り、内部の障壁画や欄間彫刻を間近で鑑賞できる。8月30日まで。期間中は学芸員による解説会も開かれる=2021年7月6日、京都市中京区 - 写真=時事通信フォト

以前は、薩長倒幕派の機先を制するため、慶喜はわざと政権を投げ出したのだといわれた。いきなり政権を受け取っても朝廷はもてあまし、きっと徳川に泣きついてくるはず。賢い慶喜ゆえ、そう計算したのだというのだ。ただ近年は、倒幕派との武力衝突を避けて内戦を回避するため、損得なしの独断だったとする説が有力だ。

実際、大政奉還を知った幕臣や佐幕派は仰天し、その決定に強く反発している。とはいえ慶喜は、新しく朝廷に生まれる新政権には参画しようと考えていた。おとなしく政権を譲ったわけだから、当然その資格はあると思ったのだ。実際、急に政権を譲られた朝廷も閉口し、やはり当面の間は徳川家にそのまま政務や外交を委ね、一方で諸大名に急ぎ上洛を命じた。今後の政治体制の在り方を決めようと考えたのである。

ところが、ほとんどの大名がさまざまな理由をつけて、なかなかやってこなかった。仕方なく朝廷は、慶喜の将軍職すらもそのままにした。本来なら政権を返したわけだから、慶喜は断固将軍は辞退すべきであった。それをしなかったのは、やはり自分が政権を担うべきだと考え直したのかもしれない。そういった意味では考え方が甘かった。

■王政復古の大号令が発せられ、徳川家の処分が話し合われる

将軍を辞めたうえで朝廷を補佐する体制を取り、土佐藩や越前藩(福井県)をはじめ、中立的な諸藩を含めた雄藩連合政権を構築すべきだった。ともあれ、大政奉還をおこなっても現状がまったく変化しない中で、同年12月9日、いきなり朝廷でクーデターが勃発した。

同日朝、朝廷の会議が終わって摂政・関白や親徳川方の公家たちが退出すると、その場に残った三条実美(公卿)、徳川義勝(尾張藩主)、松平慶永(越前藩主)らのもとに、岩倉具視が天皇の王政復古の勅書を携えて参内し、王政復古の大号令が発せられたのである。

こうして朝廷に新政府が樹立され、幕府、摂政・関白が廃止され、新たなに三職(総裁・議定・参与)が設置された。参与には、薩摩藩から大久保利通、西郷隆盛ら、土佐藩からは後藤象二郎、福岡孝弟(たかちから)が任命され、のちに長州藩から木戸孝允、広沢真臣(まさおみ)らが加わった。その夜、三職が集められ、天皇臨席のもとで徳川家の処分について話し合われた。

■あと少しで新政府の盟主になるはずだった

岩倉具視や大久保利通ら倒幕派は、慶喜の内大臣辞任と領地(一部)の朝廷への返上を主張。反対する親徳川の山内豊信(土佐藩主)や松平慶永らを脅し、強引に決定したのである。幕臣や佐幕派を激昂させ、彼らが蜂起したところで武力討伐しようと考えたのだ。これにより、新政府に徳川が参画するという慶喜の構想は崩れ去った。

しかし、慶喜は部下の暴発を許さず、兵を引き連れ京都の二条城から静かに大坂城へ去っていった。あえて事態を静観したのである。

同時に諸外国に対しては、「今後も外交については自分が担う」と宣言し、さらに大坂周辺や京都郊外に兵を散開させた。京都から出て薩長との武力衝突を避けつつ、外交権を握り、さらに大坂城に拠点を構え、兵力で新政府を威圧したのだ。これは、非常に効果的なやり方だった。

まもなく、多くの大名から「領地を取り上げるとは、慶喜公がかわいそうではないか」という同情票が集まり、また、慶喜の動きに岩倉具視など倒幕派の公家たちが動揺し始めたからだ。すると、これに力を得た公議政体派(土佐藩、越前藩、尾張藩)が、新政府内で倒幕派(薩長両藩)から主導権を奪い、なんと慶喜が新政府の盟主になることがほぼ決まったのである。

おそらく、あと2、3週間、何もなかったら、歴史は変わっていたことだろう。

■西郷隆盛の挑発に乗ってしまい…

だが、窮地に立った倒幕派の西郷隆盛は、すでに送り込んでいた浪人たちに江戸周辺で乱暴狼藉(ろうぜき)をはたらかせた。しかも、彼らを堂々と薩摩藩邸に出入りさせた。挑発したわけだ。

上野公園西郷隆盛像
写真=iStock.com/PhotoNetwork
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PhotoNetwork

すると、江戸を警備する佐幕派の庄内藩(山形県)の藩士や幕臣たちが、これにまんまと引っかかり、怒りに任せて薩摩藩の屋敷を襲撃、破壊してしまったのである。大坂城でこの報せを聞いた慶喜は、愕然(がくぜん)としたことだろう。この軽挙妄動によって案の定、大坂城にいた旧幕府兵と、佐幕派の会津・桑名(三重県)の藩兵たちは大興奮し、「新政府における薩摩勢力を討て」と叫び始めてしまったからだ。

このとき慶喜は、蹶起(けっき)を促す老中の板倉勝静(かつきよ)に対し、「徳川家に西郷隆盛や大久保利通のような者がいるか」と問いただし、これを板倉が否定すると「そんな有様なのに、薩長と戦っても必勝を期すことは難しい。朝敵の汚名をこうむるのは嫌だ」と拒んだという。

ところが板倉たちは、「もしあなたがお許しにならなければ、皆はあなたを刺してでも脱走しかねない勢いです」と報告した。すると慶喜は、「まさか私を殺すことはなかろうが、脱走することはあるかもしれない」と述べ、仕方なく進撃を許したのだという。これは、後年の慶喜が回想録『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』で語ったことだから、真意とは思えない。

■兵力への過信が判断を誤らせてしまった可能性も

そもそも、旧幕府軍を京都へ進撃させるにあたり、慶喜は部下に「討薩の表(薩摩藩を討伐するという弾劾書)」を持たせている。やむを得ず出兵を許したというのなら、こんな戦う気まんまんの書を与えるのはおかしい。

むしろ、薩摩藩邸焼き打ちの実行犯への厳罰を約束し、自分の無関与を訴える書をもたせて朝廷(新政府)に送り出すべきだった。あるいは、自ら堂々と弁明のために京都へ行くべきだった。そうしていれば、たとえ鳥羽・伏見で武力衝突しても言い訳が立ち、慶喜が新政府の盟主になれた可能性はある。

というのは、旧幕府軍は鳥羽口と伏見口で薩長軍に差しとめられたさい、武装していたものの火縄に火をつけるなど戦闘態勢は取っていなかったからだ。結局、薩長兵から仕掛けられ、応戦する形で戦闘の火蓋が切られているのだ。つまり慶喜には、やむなく応戦したという言い訳ができたのである。

しかも、開戦直後の段階では、武力対決の姿勢を見せているのは薩長の二藩だけで、諸藩は日和見を決め込んでいたうえ、朝廷の公家たちも動揺し、事を荒立てるのを嫌っていた。だが、慶喜はそうはせず、「討薩の表」を持たせた。おそらく「薩長軍はわずかに五千人。こちらには三倍の兵力がある。しかも関東から陸続と兵がはせ参じつつある。戦っても確実に勝てる」というおごりのもとで、慶喜は開戦を決意していたのだと思う。

■部下を騙して船で江戸へ逃亡

ところが、鳥羽・伏見の戦いで大敗を喫し、なおかつ、薩長側に錦の御旗(官軍のしるし)が与えられたことで、日和見していた藩のみならず、淀藩(京都府)や津藩(三重県)など味方も寝返り、怒濤(どとう)のように旧幕府軍に攻めかかってきたのである。過信や見込みの甘さが、慶喜の人生を暗転させたわけだ。ただ、まだこの段階でも逆転の可能性はあり得た。

難攻不落の大坂城に拠って徹底抗戦を宣言すれば、数週間後に関東中から大兵力が上坂し、新政府軍を撃破できる可能性があったからだ。ところが慶喜は、戦闘開始から3日後(1月6日)、大坂城から脱走して江戸へ逃亡したのである。朝敵になるのが嫌だったという。しかも、その逃げ方は驚くべき卑劣さであった。

この日の昼間に重臣たちを城の大広間に集め、「この上はどうすべきか」と問い、彼らが異口同音に「一刻も早く御出馬を。そうすれば兵の士気がふるい、薩長を討ち平らげるのはたやすいことです」と依願すると、慶喜は、「よし、ただちに出馬する。お前たちはその用意をせよ」と公言したのだ。重臣たちは大いに喜び、それぞれ急ぎ持ち場へ戻っていったという。

このように部下をだましたうえで、夜になって会津藩主・松平容保など数人を誘い、大坂城からこっそり抜けだし、大坂湾から船で江戸へ逃亡したのである。しかもこのさい、容保たちには、やる気もないのに、江戸での再起を約束していたというから、まったく酷いものだ。

■維新後に存在を消し続けたことは評価できる

慶喜は江戸に帰り着くと、主戦派を退けて勝手に上野寛永寺で謹慎生活を始め、事後始末は、かつて自分が失脚させた勝海舟に押しつけたのだ。なんとも身勝手である。

河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ 「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)
河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)

大将の敵前逃亡を知った旧幕臣や佐幕派の面々は、一気に戦意を失い、江戸へ向けて逃亡を始めたが、逃げる途中、多くが敵の襲撃を受け、命を落とした。哀れである。慶喜は朝敵となり、追討されることになったが、勝海舟の奮闘で助命され、水戸藩で謹慎となった後、静岡藩(徳川家)に身柄を遷され、寺院の一室で蟄居していた。

その後、許されたが、廃藩置県後も長年、慶喜は静岡を離れなかった。大政奉還後は、過信や見通しの甘さでミスを連発して朝敵となった慶喜だったが、維新後、己の存在を消し続けたことは評価してもいいだろう。

廃藩置県、士族の乱、西南戦争、紀尾井坂の変、自由民権運動など、少なくても十数年間は政府存亡の危機がたびたび起こっている。もし最後の将軍である慶喜が反政府組織と手を結んで旧臣に檄を飛ばしたら、あるいは政府は転覆したかもしれない。それだけの影響力を、慶喜はあえて封じたからである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)

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