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「クリスマスにケンタッキーを食べるのは日本だけ」その立役者が最も尊敬する経営者の名前

プレジデントオンライン / 2021年12月24日 9時15分

2021年12月14日、ケンタッキー・フライド・チキンの看板(東京) - 写真=ロイター/アフロ

イオン創業者、岡田卓也さんはどんな経営者だったのか。ケンタッキー・フライド・チキン(以下KFC)の1号店の店長から3代目社長まで勤め上げ、現在はオーナー経営者として活躍する大河原毅さんに岡田さんの知られざる素顔を聞いた――。

■クリスマスにフライドチキンを食べるのは日本だけ

――「クリスマスにフライドチキン」を広げたのは大河原CEOだそうですね。

オープン当初、たまたま店の近くのミッション系の幼稚園から、「クリスマスにフライドチキンを買ってパーティーをしたいので、サンタ役をやってくれませんか」と言われたのです。当時は売上も苦戦していたので、大歓迎でサンタクロースに扮装(ふんそう)して、フライドチキンのバーレルを抱えて教室内を踊り歩きました。

それが評判になって、あるときテレビのインタビューを受けたのです。そこで、「アメリカではクリスマスにチキンを食べるのか」と聞かれたので、本当はターキー(七面鳥)と知っていたのですが、つい「はい」と答えてしまって。それからです、日本では「クリスマスにはケンタッキーのフライドチキン」となったのは。

■日本1号店は名古屋、「ジャスコの駐車場」が原点

――よくある企業のマーケティング戦略が大成功したのですね。それで、ケンタッキー・フライド・チキンが一気に広まったんでしょうか。

最初は本当に大変でした。1970年11月23日に、日本の1号店をオープンしました。ジャスコさん(当時)が名古屋の西区に郊外型のショッピングセンターをつくるということで、そこの駐車場にプレハブでの店舗がスタートでした。

大河原毅さん
大河原毅さん(写真提供=大河原毅)

名古屋といえば鶏の本場だから、さぞかし売れるだろうと思って期待していた。当日も、オープンするとわーって人が店を取り囲んだから、これはすごいぞと、どんどん鶏を調理しはじめたら、鶏ができたころには誰もいない。

名古屋では、お祝いの花が出ると、みんなそれをもらいに来るんです。それで花だけもらって、店には入らずにそのまま帰っていってしまったという、苦い思い出です。

赤と白の三角屋根の店で、お客さんは何を売っているのかもわからない。フライドチキン自体馴染みがなかったのでしょうね。それからはもう売れなくて塗炭の苦しみです。1年ちょっとで閉店しました。ですから私は日本で最初にKFCを開けた店長でもあるし、最初に閉めた店長でもある。

■高度成長期の流通・外食・小売業界で学んだこと

——そこで岡田卓也イオン名誉会長相談役とお会いしたのが最初ですか。

そうです。それからいろいろなところで、岡田さんにお会いしましたけど、いつもニコニコして、真顔になることがないのではないかと思うほどでしたね。

その後、ジャスコさんだけではなく、ダイエーさん、西武さん、イトーヨーカ堂さんともお付き合いさせていただきました。だから、岡田さん、中内㓛さん、堤清二さん、伊藤雅俊さん、鈴木敏文さん、皆様直接存じ上げています。ちょうど外食産業の勃興期で、マクドナルドの藤田田さん、すかいらーくの茅野亮さん、モスバーガーの櫻田慧さんにも目をかけていただいた。私は皆様より10~20歳くらい下で一番若い世代ですからとてもかわいがっていただきました。

藤田田さんは、「お前には全部勝てるけど、年だけは勝てねぇ(笑)」って。藤田商会でアルバイトをしていたからマクドナルドにくると思っていたのではないかな。まさか、ライバルになるとは思ってもいなかったでしょうね。

流通・外食・小売りは、とても狭い業界なのでお互いよく知っているんですよ。セブン&アイさんは、伊藤雅俊さんの商人道と鈴木敏文さんの組織化をとても参考にさせていただきました。

岡田さんは合併をすることで根を大きく張り巡らすという感じを受けましたね。あの頃の日本は、高度成長期の真っただ中で、みなさん、とても個性がはっきりしていました。それぞれの性格がそのまま経営にも表れていて、だからこそ日本経済もダイナミックな動きができていたのではないかと思います。それぞれが、日本を背負って立つというくらいの気概を持たれていたように思います。

■ダイエー・中内㓛のアラモアナSC買収の裏側

——マスメディアの記事バリューということで考えると、やはり中内さんは興味深かったです。

中内さんは、とにかく即断即決、即行動。例えば、ダイエーさんがハワイのアラモアナショッピングセンターを買われましたが、紹介したのは私なんです。本土からハワイ経由で帰る途中、アラモアナのオーナーとお会いして、誰か買う人はいないかって冗談みたいにおっしゃっていたのです。それで、日本に帰ってきて、たまたま中内さんにお会いしたので、アラモアナを買えるかもしれませんよと申し上げたら、気づいたらもう決めていた。同じ話を伊藤さんにしてもまず買わなかったと思いますし、西武の堤さんも買わなかったでしょう。

ハワイのホノルル
写真=iStock.com/carmengabriela
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/carmengabriela

■植樹に象徴される「バランス型」の経営スタイル

東海友和『イオンを創った男』(プレジデント社)
東海友和『イオンを創った男』(プレジデント社)

とにかくダイナミックでスピード感がすごかったですね。沖縄にアメリカのスーパーをそのままもってきたりして、カートが大きすぎて、おばあさんはカートの上まで手が届かないといったことなどもありましたが、まず行動。それから修正といったタイプでした。伊藤さんは持ってきたとしても、日本ナイズさせて小さくするだろうし、その前にまずアメリカから持ってこないでしょう。

そういう意味では岡田さんはバランス型ではないでしょうか。岡田さんの中庸性というか、芯は強いんだけど表に出さないで、まわりを薫陶していく。そういう点が『イオンを創った男』にはよく書かれていましたね。それに、岡田さんは植樹を熱心にされていて、自然が好きでしょ。自然に寄っている人って、永続性を求める。というのは、木を植えたら60年はかかりますから。レンジが長いのです。

■イオンの強みは岡田卓也の人間的魅力

——出店戦略という点でも大きく違うんですね。

ジャスコさんの出店戦略は、地場のスーパーと合併することが多かったので、選定がきめ細かいように思います。何年後に地下鉄ができるとか、市街地開発が進むという情報を持っているような地元の企業と合併する。しかも、交渉は交渉で担当者がやっていても、上では岡田さんがニコニコしていると。そうすると、小異を捨てて大同につくといったことになるのではないでしょうか。

実態は厳しく、計算もあるでしょうけれど、雰囲気としてはまったく出さない。特に対自然に関しては、全開放ですから。それが岡田さんの人間的な魅力なのだと思います。しかも、岡田さんのご子息もしっかりされている。二代目というのは、組織志向のほうがいいんです。自分の個の能力よりもむしろオーガナイザー。岡田さんのご子息はそうじゃないかなと思います。弟の克也さんも政治家として素晴らしい人物ですし、やはり教育がよかったんじゃないかと思いますね。

そこはお姉さんの小嶋千鶴子さんの影響もあるのかもしれません。小売業界には、そういった傑出した女性が出てきますから。小嶋千鶴子さんもそうですし、成城石井さんにもいらっしゃいましたね。今の成城石井の原社長は、彼女の申し子で、彼がいなくなったら成城石井が崩れるんじゃないかというほどの逸材です。

■「あの子は苦労したんだよ」の真意

——数年前に岡田名誉会長にお会いした際、大河原CEOのことをお伝えしたら、「ああ、あの子は苦労したんだよ」っておっしゃっていました。

1号店で、上手くいかなかったという印象が強かったんじゃないかな。3号店まで失敗していますからね。私はいつも負け組からのスタートなんです。それと、岡田さんは、私が三菱商事さんとアメリカの間で、苦労していたのを見ているから。

僕はアメリカサイドだったのですが、アメリカでは3年に1度は買収されるのです。そのたびに前の方針をひっくり返したがって、問題を起こす。それを、まあまあと抑えて、三菱商事さんとの間も取り持ったりしていたので。岡田さんは三菱商事さんから「あいつ(大河原)はいうことを聞かなくて大変だ」とかいろいろ聞いていらしたのでしょう。

特に三菱商事の諸橋さんと岡田さんは仲が良く、海外にも一緒に行かれていました。そこに私もよく同行させていただきました。諸橋さんには特にかわいがっていただいていたし、上智の後輩でもあったから、「お前も、来い」と。岡田さんにも「大河原くん、大河原くん」と、かわいがっていただきました。

■植物を育てるように、長いスパンでモノを考える

——岡田会長はほとんどメディアには出ない方なのですが、唯一植樹事業の話のときには出てくださいました。

岡田さんが植樹に熱心だというのは、子供の頃の記憶にある四日市が公害でどんどん自然をやられて、心を痛めていたのではないかなと思いますね。それが潜在意識の中にあるから、熱心にされている。それで企業イメージをどうこうしようというよりも、本当になんとかしたいという強い思いなのだと思います。だから、ショッピングセンターをつくるときに木を伐採したりすると、必ずそれを戻そうとされています。

植樹
写真=iStock.com/SbytovaMN
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SbytovaMN

それを見習ってではないですが、私も一般社団法人ほのぼの運動協議会というのをつくって、東北の震災復興で忘れな草プロジェクトをさせていただいていますけど、やっぱりあそこまで長く続けるというのは素晴らしいですね。

イオンさんは海外でも、すごく息が長いんです。少々の赤字は気にしないという印象です。商社さんの社長の在任期間は長くて6年くらいです。6年で結論が出る投資というのはあまりないんですよ。その点、問屋のオーナー系の国分さんやサントリーさんは、長い視点でものを見る。サントリーさんはビールで何年も損をしていましたね。実際はサプリなどの業績が良いこともあり、少々の赤字は気にしない。だから、ウイスキーなど、10年20年30年と寝かせることができる。

オーナー系はやっぱりしぶといですね。しかも植物が好きだと、長いスパンでモノを考えるようになる。自分が死んでも種が落ちて伸びていけばいいというようなね。そうすると、目先はあまり関係なくなって、育てる先に興味が行くようになるのでしょう。

私自身も、岡田さん、中内さん、堤さん、伊藤さん、鈴木さんといった方々にいろいろな意味で教わって育てていただいた。それで1号店から1500店にまでできたから、今度はそれを他の人に伝えようと、今は自身の会社で後継者を育てている最中です。

■カーネル・サンダースからも調理方法を教わった

——ところで、KFCのカーネル・サンダースはお年を召されてから起業されていますよね。

64歳ですからね。それまでに18回仕事を失敗したんです。KFCもカーネルは親善大使のような存在で、実務はカーネルの後ろにいたピート・ハーマンがしていました。カーネルは好きなワイン4ケースでイギリスの権利を売るような人でしたから。

私は、日本のお店が上手くいかないので、現場で本物を見せてほしいと1971年の春頃からアメリカに渡りました。アメリカにいる間に親会社が売られてしまって、本社でうろうろしていたら、ピートが肩を叩いて「お前、困るだろう」と声をかけてくれたのです。ピートはサンフランシスコの自宅に連れて行ってくれて、そこで訓練をしてくれました。タダじゃ駄目だというので、何をやるのかと思ったら、馬のブラシと犬の風呂入れ。それをやりながら、何週間かピートのところにお世話になったのです。だから、フランチャイジーに育ててもらったのが本当のところです。それでフランチャイズってすごくいいなと思ったんですよ。

もちろん、カーネルからも直接調理方法を教わりました。日本にも何回か来てくれたし、孫のようにかわいがってもらいました。直接教わったのは、もう私しかいないんじゃないかな。カーネルとピート、ふたりにもとても良くしてもらいました。

雲の上を飛ぶ飛行機
写真=iStock.com/spooh
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/spooh

■フランチャイズは無理して広げない、パートさんを大切にする

——KFCはコロナ禍でも業績がとてもいいですね。

私が社長の頃に決めたことが、今も生きていて、それで業績が安定していると、今の社長からも感謝されています。国産の鶏を使う、現場主義、素材、フランチャイズも無理をして広げないといったことですね。あの当時、どこもフランチャイズをどんどん増やした。そうすると、自店間競争で大変なんです。だから、それをやらずに都道府県に1社ずつ。それで、投資をしたら償却が終わって再投資できるまでゆっくりと待つ。

それから、正社員だけではなくパートさんを大切にすること。自分がハワイに行って楽しいからみんなも行きたいだろうと思って、毎年コンテストを行い、全国から成績の良い方を集めてハワイに行きました。累積で5000人はいるのではないかと思います。

■国産の鶏にこだわったから、輸入に振り回されない

それと、国産の鶏にこだわること。鶏は、他に何も産業のないような山襞(やまひだ)で育てられるんです。あるとき、すごい嵐で鳥が騒いでいた。でもおじいさんがパッと顔を見せるとそれがすっと落ち着く。それだけ愛情を注いで育ててくれている。そういった鶏がフレッシュなままお店に届く。円が強くて、中国やタイから鶏がどんどん入るようになったとき、アメリカから何度も国産から輸入に変更するように言われました。それでも頑なに国産にこだわりました。1年で23億も利益が下がっても聞き入れなかった。

それだから今のように輸入が止まっても、まったく関係ない。KFCの業者は50年間続いているところが多いんです。しかもちゃんと安くもなく、高くもない、適正な値段を出してくれる。そのように決めたことをしっかりと今もやっていてくれて、お陰で業績がとてもいいと。感謝されています。KFCは、決して巨大にはならない。1500~1600億、それで200億の利益。それがずっと続いて、それでいいと思いますね。

今はもうカーネル直伝のフライドチキンの製法を守っているのは日本だけです。他は全部変わってしまった。我々の頃は、アメリカも大統領の名前を知らなくてもカーネルの名前は知っているくらいだったのですが。その本場ですら、もうカーネルの製法は残っていない。

1号店から50数年になりますが、やはり永続する企業であってほしいですね。

目先にばかりとらわれがちですが、長いスパンで物事を考えることが、最終的には上手くいくんじゃないかと思います。

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大河原 毅(おおかわら・たけし)
デルソーレ代表取締役CEO
1943年生まれ。上智大学卒、ハーバード大学経営大学院修了(AMP取得)。大日本印刷を経て、1970年日本ケンタッキー・フライド・チキンの設立メンバーとして同社に入社。直営1号店の店長を勤める。1984年に代表取締役社長となり、業界オンリーワンの地位を築き上げる。三菱商事顧問、KFCJ特別顧問を歴任。2003年4月藍綬褒章受賞。2014年旭日中綬章受章。

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(デルソーレ代表取締役CEO 大河原 毅 構成=プレジデント社書籍編集部)

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