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曽野綾子「幸福を感じる力は不幸の中でしか養われない」人間の深淵を見つめ続けた90歳作家の"結論"

プレジデントオンライン / 2021年12月25日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Irina Vodneva

夫である三浦朱門さんを在宅介護で看取ってからというもの、一人になった作家・曽野綾子さんは静かに、慎ましく生きてきました。歩んできた歳月に思いをはせ、人間の優しさと悲しみ、人がこの世に生まれてきた使命とは何かを見つめる日々。そして90歳になってたどり着いた境地……。曽野さんがつづってきた言葉を厳選して編んだセブン‐イレブン限定書籍『人生の意味』が刊行されました。同書より、そのエッセンスを特別公開します──。

※本稿は、曽野綾子『人生の意味』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■人の世の不平等に悩むあなたへ

「人生の勝ち負けに単純な答えはない」

人間の勝ち負けというのは、そんなに単純なものではありません。私たちが体験する人生は、何が勝ちで何が負けなのか、その時々にはわからないことだらけです。

数年、数十年経ってみて、もう死の間際まできて、やっとその答えが出るものも多い。永遠に答えが出ないことだってある。それが人生というものです。

「幸福を感じる力は不幸の中でしか養われない」

闇がなければ、光がわからない。人生も、それと同じかもしれません。幸福というものは、なかなか実態がわからないけれど、不幸がわかると、幸福がわかるでしょう。だから不幸というのも、決して悪いものではないんですね。

荒っぽい言い方ですが、幸福を感じる能力は、不幸の中でしか養われない。運命や絶望をしっかりと見据えないと、希望というものの本質も輝きもわからないのだろうと思います。

■人間の完成は中年以後

「すばらしいのは、人生が未完であること」

人間の完成は中年以後にゆっくりやってきます。それは、人生が「生きるに価するものだった」と人が言えるように、その過程を緩やかに味わうことができるようにするためではないでしょうか。

早く完成すれば、死ぬまでが手持ち無沙汰になってしまう。そんな運命の配慮に、私は中年以後まで全く気がつきませんでした。

すばらしいのは、人生が未完であるということ。なぜなら人間の存在そのものが不完全なのですから、未完であり、何かを断念して死に至るということは人間の本性によく合っているのです。

■孤独に葛藤するあなたへ

「最悪を基準に考えると、不満が生じない」

基本的に、私は何に対しても最善を求めません。次善でもよし、次々善でもよし、という姿勢でものごとに向き合います。こうなったのは、私の生い立ちによるところが大きいかもしれません。

幼い頃から、私の両親は仲が悪く、家の中はいつも修羅場でした。父がいる時は両親の言い争いが絶えず、母は私を道連れに自殺を図ったこともありました。未遂に終われたのは、私が止めたからなのですが、そうやって生き残った娘は、その経験から「人生なんてろくなものではない」ということを学びました。この世に確かなものなんてない、運命は時に人を途方もなく裏切るものだと、それ以来、ずっと私は思っているのです。

以降、私が常に人生で「最悪」を想定して生きるようになったのは、自分を守るためだったのだと思います。現実が想定していたより幾分でもましであれば、絶望せずに済むのですから。それに、しょせん人生なんてその程度のものだと、私は思ったのです。完全なんてありえない。何かがいつも欠けている。どれかをあきらめ続ける。それが私の人生だろうと、考えるようになりました。

“苦労人”として育ったことは、その後の私の人生に色濃く影を落とすことにはなりましたが、今振り返って思うのは、そんな経験もまた人生の財産だった、ということです。

「最悪」を予感してものを考えると、起こったことをすべてプラスにとらえることのできる「足し算の発想」で生きていられることになります。そうすると、あんなこともしていただいた、こんなこともしていただいた、という幸運の連続と思えるから、不満の持ちようがありません。

■一人で生まれ、一人で死ぬ宿命

「皆、苦しく孤独な戦いを背負っている」

どんな仲のよい友人であろうと、長年つれそった夫婦であろうと、死ぬ時は一人なのです。このことを思うと、私は慄然(りつぜん)とします。人間は一人で生まれて来て、一人で死ぬのです。

人生の基本は一人。それ故にこそ、他人に与え、係わるという行為が、比類ない香気を持つように思えてきます。しかし原則としては、あくまで生きることは一人。

それを思うと、よく生き、よく暮らし、みごとに死ぬためには、限りなく自分らしくあらねばなりません。それには他人の生き方を、同時に大切に認める必要があります。その苦しい孤独な戦いの一生が、生涯、というものなのです。

「愛だけはいくら与えても減ることはない」

人は受けている時には一瞬は満足するが、次の瞬間にはもう不満が残るものです。もっと多く、もっといいものをもらうことを期待するからにほかなりません。

しかし自分が人に与える側に立つ時、ほんの少しでも楽しくなります。相手が喜び、感謝し、幸福になれば、それでこちらはさらに満たされる、という不思議さは、心理学のルールとしては基本的なものなのです。

あらゆる物質は、こちらが取れば相手の取り分は減る、というのが原則です。食料でも空気中の酸素でも日照権でも、すべてこの原則を元に考えられています。しかし愛だけは、この法則を受けません。与えても減らないし、双方が満たされるのです。

■人生の無常に苦しむあなたへ

「どんなに若くとも、生きて会える時間は数えるほどしかない」

ほんとうはどんなに若くとも、もう生きて会える時間は数えるほどしかありません。会ったところでどうなるというものでもないが、私は多くの人と会って楽しかったのです。人の向こうに一つひとつの人生が輝いています。人生を眺めさせてもらうことは、何よりも光栄だし、心をとろかすほどのすばらしさを味わえます。

そして敢えて言えば、終わりがあるから人生は輝くのです。

「死者は私たちのうちに生き続け、語りかけている」

通常、善意に包まれて命を終える死者が残した家族に望むことは、健康で仕事にも励み、温かい家庭生活を継続することでしょう。息子にはぜひ総理大臣になってもらいたい、という生々しい野望を残して死ぬ人もいるかもしれませんが、人間は、その誕生と死の時だけは、不思議なくらい素朴になります。

赤ん坊が生まれる時、親たちが願うただひとつのことは、健康であること。死者が残していく家族に望むことは、「皆が幸せに」という平凡なことです。だから私たちは常に死者の声を聴くことができます。死者が、まだ生きている自分に何を望んでいるか、ということは、声がなくても常に語りかけているのです。

おそらくその声は「生き続けなさい」ということではないでしょうか。自殺もいけない、自暴自棄もいけない。恨みも怒りも美しくない。人が死ぬということは自然の変化に従うことです。だから生きている人も、以前と同じような日々の生活の中で、できれば折り目正しく、ささやかな向上さえも目指して生き続けることが望まれているのです。

古いコンパスを持つ手
写真=iStock.com/kaisersosa67
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kaisersosa67

その死者が私たちのうちに生き続け、かつ語りかけている言葉と任務を、私たちは聞きのがしてはならないのです。

■永遠のものは存在しない

「川の流れの中に立つ杭のように」

品を保つということは、一人で人生を戦うことなのでしょう。それは別にお高くとまる態度を取るということではありません。自分を失わずに、誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところ、拒否すべき点とを明確に見極め、その中にあって決して流されないことです。

この姿勢を保つには、その人自身が、川の流れの中に立つ杭のようでなければなりません。

「あらゆるものを得た瞬間から失う準備をする」

私たちが持っているもの──命も、家族も、悲しみも、喜びも、物も、この世との係わりも、すべてがやがて時の流れの中に消えていきます。永遠に自分のものであるものなどないのです。さわやかな儚(はかな)さです。

こういうふうにみんなが認識できれば、何かを得るための争いや犯罪は減るでしょう。得られない苦しみや、失った時の悲しみも少しはなくなるでしょう。生に対する執着も弱くなって、死への恐怖も薄れるでしょう。

■現世の矛盾に憤るあなたへ

「ほとんどのことは『たかが』と思う」

ほとんどのことは、実は「たかが」なんです。それこそ救急医療とか、閣僚の決定というのは大変だと思いますが、あとのものは「たかが」です。

むしろ「たかが」と思うと、落ち着いて見られる。夫婦だって他人同士だった、そう思っていれば、ぶつからずに済む。自分もいい加減だけど、あいつもいい加減だよな、と仲良くなる。そう考えると、いろんなことはそんなに難しいことじゃないんです。

「人間は、自分の大きさの升をそれぞれに持っている」

日本には升というものがあります。人間は、自分の大きさの升をそれぞれに持っている、と思うんですね。

自分の升に半分しか入ってなければ、人間、不満なんです。もっといっぱい欲しいと思ってしまいます。七、八分目、あるいは九分目に入っている時、ああよかった、沢山頂いたと思えるようになれば、その人は幸せになれます。

曽野綾子『人生の意味』(プレジデント社)
曽野綾子『人生の意味』(プレジデント社)

他人と同じ分量の升を持とうとすると、多分、人は不幸になるんです。少食の人は大食の人と同じ大きさのお茶碗は要りませんしね。

また、同じ升でも、大きさのほかに、中に入れるものに対しては自分の好み、あるいは違いがある。私にもけっこう、好みがあるんです。人間はそれを、自分の運命という升に登録しているんです。

自分は特別に人より大きなものが欲しい、二つも三つも升が欲しい、専用の升がなければ、あるいは自分の升には金だけ入れなければ不満という人は、大きな勘違いをしていると思うのです。

これでは一生満たされませんから、いつも不幸という実感に苦しめられます。

■苦難が力をくれる

「矛盾こそが人間に生きる力を与える」

この世は矛盾だらけですが、その矛盾が人間に考える力を与えてくれています。

矛盾がなく、すべてのものが計算通りに行ったら、人間は始末の悪いものになったでしょう。少なくとも私は考えることをやめ、功利的になり、信仰も哲学もなくなったはず。

正義が果たされる現世など、決して、我々が考えるほどいいものではありません。逆説めくけれども、人間が人間らしく崇高(すうこう)であることができるのは、この世がいい加減なものだからです。

正義は行われず、弱肉強食で、誰もが容易に権力や金銭に釣られるから、私たちはそれに抵抗して人間であり続ける余地を残されているのです。

「たまたま生まれた場所で最善を尽くす」

人間は長い歴史の中で、たまたま自分が生まれ合わせた時代の、たまたまそこに居合わせた場所で、最善を尽くして生きればいいだけなのです。それ以上、小さな一人の人間に何ができるでしょうか。

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曽野 綾子(その・あやこ)
作家
1931年、東京都生まれ。作家。本名は三浦知壽子。カトリックのクリスチャン。聖心女子大学英文科を卒業後、1954年に『遠来の客たち』で芥川賞候補となり、作家デビュー。1995年から2005年まで日本財団会長を務め、国際協力・福祉事業に携わるほか、2009年から2013年まで日本郵政社外取締役を務める。

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(作家 曽野 綾子)

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