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ミャンマー国軍に寄り添うままでいいのか…日本財団・笹川陽平会長が続ける「沈黙の外交」のリスク

プレジデントオンライン / 2021年12月25日 10時15分

笹川陽平会長率いる日本財団は、長年ミャンマー全土でハンセン病制圧や学校建設などの活動を続けてきた――ミャンマーのシャン州南部にあるピンダヤの町で、小学校の新校舎を贈呈する式典に出席した笹川会長(中央、2013年2月9日) - クレジット表記:写真=AP/アフロ

■実は微妙な笹川会長の立ち位置

笹川陽平会長の日本財団は、ハンセン病制圧から小学校の建設にまで至る保健・教育に力点を置いた活動を、多数派のビルマ人地域のみならず、山岳部の少数民族地域においても実施してきた。それに加えて、笹川陽平会長が2013年に「ミャンマー国民和解担当日本政府代表」に任命されると、日本財団は「平和構築」も視野に入れるようになった。

本来であれば、「モーターボート競走法」第31条にもとづいて、「競走の収益をもつて、社会福祉の増進、医療の普及、教育文化の発展、体育の振興その他住民の福祉の増進を図るための施策を行うのに必要な経費の財源に充てる」活動を行うのが、日本財団である(*1)。独立以来70年以上にわたって続いているミャンマーの内戦を終結させる調停活動は、このように定義された「施策」に含まれるだろうか。

日本財団のミャンマーでの活動の中心は、あくまでも人道支援活動である。「平和構築」を行うといっても、必ずしも調停活動までをするわけではない(*2)。ただし、それとは区別した形で、頻繁にミャンマーを訪問して日本政府代表としての活動をしている日本財団会長の笹川陽平氏についても伝えている(*3)

「ミャンマー国民和解担当日本政府代表」としての活動を行うのは、あくまでも笹川陽平氏個人であり、日本財団ではない、という微妙な一線が引かれたうえで、笹川氏と日本財団は表裏一体なものとして、結びつけられる。実はミャンマー人たちは、そこに日本政府そのものも結びつけて、一体のものとして扱う。

■国際標準の「役割分担」とのズレ

笹川会長自身も、「沈黙の外交」を唱えながら、ミャンマーでワクチンが不足している現状を見て、「政治体制が悪いのは事実ですよ。しかしだからといって(ミャンマー)国民が苦しんでいるのに、人道支援をしないというのは、これはいけません。日本政府がもっと積極的に介入すべきことです」と述べたりもする(*4)

ただしミャンマーでのワクチン供与は、「中立性・不偏不党性」を掲げる国連の人道機関やNGOに主に扱ってもらわざるを得ない。アメリカはミャンマー国軍の幹部に標的制裁をかけているが、国連人道機関に対する世界最大の資金提供国もアメリカだ。これがむしろ国際標準の役割分担である。こうした仕組みに異議を唱えながら、笹川会長は、何を目指しているのか。

■日本の対ミャンマー外交のイメージと不可分

好むと好まざるとにかかわらず、笹川会長の思想や言動は、日本の外交の一環として、ミャンマー情勢に影響を与える。日本政府そのものが、ミャンマー情勢に対してほとんど何も語らないがゆえに、なおさらその傾向が出てくる。笹川会長が何を体現しているのかは、ミャンマーに対する日本外交の対外イメージと不可分なものになっているのだ。その観点からの検証が必要である。

ミャンマーのダウンタウンストリート
写真=iStock.com/gionnixxx
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gionnixxx

2013年から2019年まで日本財団ミャンマー事務所を統括するシニア・プログラム・ディレクターを務めたのは、シエラレオネやハイチにおける国連PKO(平和維持活動)でDDR(武装解除・動員解除・社会再統合)部門を率いた経験を持つ元国連職員だ。私の大学の同僚の伊勢崎賢治氏の元部下であり、東京外国語大学Peace and Conflict Studiesで博士号を取得した元アイルランド軍人である。私自身にとっても旧知の友人である。

笹川陽平氏は、このアイルランド人を引き合いに出して、ミャンマー人の西洋人嫌いを語る。「……アイルランド人は紛争解決の専門家なんだけれども、少数民族の土地に入れてもらえません。『西洋人は立ち入り禁止、信用できない』っていうことで、いちばん腕のある人間が入れないで、ウンウンうなっているんですよ、かわいそうに(笑)。やっぱり上から目線で偉そうなことを言うでしょう。そういうのを嫌うんですよ、彼らは誇り高いからね。……」(*5)

■言葉からにじみ出る根深い欧米不信

笑い話のように述べている笹川陽平氏の言葉は、日本財団の立ち位置もよく言い表している。和平調停のあっせんを狙って活動しているが、国際標準の平和構築活動を適用しているという姿勢ではない。欧米人は「上から目線で偉そうなことを言う」が、ミャンマー人はそれを嫌う。それに対して笹川会長の日本財団は偉そうなことを言わず、ミャンマー人に好まれる。

笹川陽平会長自身の言葉を見てみると、あらためて根深い欧米不信を持つ人物であることがわかる。決して反欧米主義者だ、と言うべきではない。財団の活動を通じて、外交的な意味での日米関係の安定にも寄与しているだろう。しかし、欧米人はアジアやアフリカを下に見ている、アジアやアフリカの問題の多くは欧米の植民地主義がつくり出したものだ、と繰り返し語る態度からは、この世界観が笹川会長の一貫した国際問題へのまなざしとなっていることを感じさせる。

■「イギリス陰謀説」を“定説”として紹介

ミャンマーの民族問題も、もちろん大英帝国の植民地政策がつくり出したものにほかならない。そして、笹川会長によれば、「アウン・サン・スーチー女史の父のアウン・サン将軍自身、イギリスのインテリジェンスに殺されたと言われています。にもかかわらず、スーチー女史はイギリスに留学し、イギリス大好き人間になっているんです。」(*6)

ちなみにアウン・サン将軍がイギリスの諜報機関によって殺害された、というイギリス陰謀説は、決して歴史検証を経た定説ではない。実行犯は、親日派で、アウン・サンの政敵であり前首相のウー・ソオの一味であった。その背後にイギリス人がいた、というのは、証明されていない。だが笹川会長は、この(故アウン・サン派のビルマ人を中心とした)ミャンマー人の間に流布している陰謀説を定説として紹介するだけでなく、しかもその逸話を通じて、親欧米的なアウン・サン・スーチーへの違和感を暗に吐露する。

ここで特徴的なのは、欧米諸国への懐疑心を隠そうとしない笹川会長が、歴史観において戦前の日本に親和的な点である。ミャンマー国軍の淵源が大日本帝国時代に反英工作をしていた「南機関」にあることを誇るのは、笹川会長以外の右派系の方々に広く見られる傾向である。笹川会長の場合には、それだけではなく、「インドの国軍というのはまさしく日本人がつくった」とも断言する(*7)

■ロヒンギャ問題についての笹川会長の見解

こうした傾向は、笹川会長において、土着主義とも呼べるアジア主義と結びついていく。たとえばイスラム世界は、その際に、アジアの一部ではない。そこでロヒンギャ問題などをめぐっても、どうしてもビルマ人中心主義的な見方になる。笹川会長は、国際的に共有されている見方に挑戦するかのように、次のように述べる。(*8)

ミャンマーでは『ロヒンジャ』と読みますが、一切使われていません。『ベンガリーズ(ベンガル人)』と呼んでいます。ベンガリーズの多いラカイン州には、もともとイスラム教徒が住んでいました。その人たちは仏教徒と普通に生活していますよ。問題なのはバングラデシュから渡ってくるベンガリーズです。

ミャンマーの人たちはベンガリーズを非常に怖れている。ミャンマーの国民ではなく、市民権も持っていないし、いちばんの問題は人口増なんです。一家族32人なんていう人たちもいる。ラカイン州はいずれ彼らに占領されるんではないかという恐怖心があるんです。今回の問題(2017年8月)はベンガリーズの過激派が警察を襲って、それを軍が出動して退治に行った。追いかけていくうちに過激派が人民のなかに紛れちゃったんです。今はバングラデシュとの間で話がついて、証明書を持っている人から入れていこうとなっています。(後略)

笹川会長の説明からは、ミャンマー国軍系の武装集団の虐殺行為、それに起因する100万人ものロヒンギャ難民の発生、限定的な形でしか「証明書」が発行されていないためほとんどのロヒンギャ難民が帰還できないこと、などの点は、すっぽり抜け落ちている。

■視点の背景にある実父・良一氏の世界観

確かに、国軍関係者をはじめとする、多数派のビルマ人の信頼を得ることだけが笹川会長の目標なら、これでいいだろう。だが、ひとたびミャンマーに危機が訪れて、ミャンマー情勢を国際社会の規範的原則の観点から語らなければならなくなったときには、この視点のままでは、大きな困難を招き寄せてしまうだろう。

ミャンマーの村で水牛を連れた女性
写真=iStock.com/Leandro Zubrezki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Leandro Zubrezki

笹川会長は幼少期に東京大空襲に見舞われ、母と一緒に逃げまどいながら、九死に一生を得る体験をしている。多数の市民が哀れな姿で死んでいく中を生き残った笹川会長が、広島・長崎をはじめとしてアメリカが各地で犯した残虐な攻撃を繰り返し参照しようとするのは、むしろ当然だろう。

笹川会長が尊敬する実父の笹川良一氏は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収容されていた際、トルーマン大統領に宛てて手紙を書いている(*9)。良一氏は、東京裁判で陳述する機会を心待ちにしていたとされるが(実際にはその機会を与えられないまま不起訴となった)、それは連合軍の戦争犯罪を糾弾し、勝者が敗者を裁く裁判所を糾弾し、日米開戦の原因をつくったのは米英の方だと演説したかったからであった(*10)

■受け継がれた「差別への怒り」

笹川陽平氏を数十年にわたる社会活動へと駆り立てたのは、良一氏から受け継いだ「差別への怒り」だという。父・良一氏は、裕福な家庭の生まれであった点ではむしろ恵まれていたのだが、政治的な思想においては特異な屈折を抱えていた。

強い正義感から学校教員の権威にもしばしば挑戦したりしたため、「このままでは良一は社会主義者になる」と学校や両親に警戒されて、成績優秀であったにもかかわらず中学進学を許されずに寺での修行に出された。

同級生だった川端康成はその後に東大まで進学した。小卒で終わった良一のほうは、紆余(うよ)曲折を経て、成人してからはむしろ右翼的な国粋主義運動に没頭した(*11)。良一氏が受けた「差別」は、強い劇的な逆転志向を生み出すものであった。

■「耐え抜いて、最後には勝つ」

婚外子として16歳になるまで父と会うこともない不遇の少年時代を送った笹川陽平会長の場合、父とは全く異なる家庭環境を持った。しかし父を継承して、日本財団を切り盛りするようになった陽平会長が、父から受け継いだものの中核には、「差別への怒り」があった(*12)

「戦後最大の被差別者は笹川良一です」と言い、左派系メディアの不当な誹謗中傷に繰り返し憤る笹川陽平会長が、父のつくった日本財団を通じて「差別への怒り」を社会活動で表現する。その際、笹川会長が、政治的な思想の傾向としては反欧米的で戦前の日本に同情的な世界観を持って活動するとしても、それは自然なことではあるだろう。「耐えて、耐えて、耐えて、そしてまた耐えて、時間がいくらかかろうと耐え抜いて、最後には勝つ」と述べる笹川陽平会長にとって、「差別への怒り」に駆られた人道支援活動と、反欧米的な性格をぬぐえない政治的思想は、全く自然に結びついている(*13)

■裏切られた6年前の「楽観論」

笹川陽平会長の世界観は、今年の国軍のクーデター以降のビルマ人同士の騒乱のような場合には、どうなるのだろうか。さすがに欧米の植民地主義の影響でクーデターが起こり、弾圧がなされているわけではないだろう。笹川会長は、どのようにして一貫性ある情勢理解をするのだろうか。

実は笹川会長は、民主化後最初の国政選挙となった2015年選挙の直後に、次のような楽観論を述べていた。「総選挙と前後して、一部メディアは政権による不正選挙や、大敗に反発した国軍が動く可能性を指摘した。この国ではこのような事態がもはや、起こり得ないところまで民主化が進んでいる。」(*14)

笹川会長のビルマ人の一体性に期待した情勢理解は、見事に2021年に裏切られた。これまで多大な努力で「和解」を求める調停活動を続けてきた笹川会長としても、ショックは大きかったことだろう。クーデター直後、笹川会長は、「アメリカをはじめ、各国が早急な経済制裁を実施しないことを願うばかりである。……アメリカがミャンマーの経済制裁に走れば、同盟国の日本は苦しい立場に追い込まれる。ここは何としてもアメリカを説得する日本の外交努力が喫緊の課題となってきた。」と書いた(*15)。だが、その後、沈黙し続けた。

■「あえて『沈黙の外交』を堅持する考えでいる」

笹川会長が、ようやくブログであらためてミャンマー問題について書いたのは、クーデターから3カ月以上が過ぎ、数百人の市民が抑圧の犠牲になった後の5月中旬になってからであった。「沈黙の外交」と題された5月13日の笹川会長のブログは、ミャンマーに携わる人々の間で反響を呼んだ。笹川会長は、言論人・メディア不信を披露しながら、次のように述べた(*16)

ミャンマー問題について、「『ミャンマー国民和解日本政府代表の笹川』は何故ミャンマー国軍を批判しないのか」と、にわかミャンマー専門家やSNS上で批判を受けている。(中略)

今回の事態が発生した2月1日以降も人命尊重に向け、懸命の説得工作を重ねた。にもかかわらず極めて残念な事態に発展したミャンマーの現状は、痛恨の極みであり、悶々とした日々を過ごしている。

ならば何故、非難声明を出さないかと人々は私を批判する。(中略)

民間人である私がミャンマー国民和解日本政府代表を拝命したのは、長年にわたるミャンマーでの人道活動が評価された結果である。この役職に任期はない。(中略)

私の立場はそれぞれの指導者に寄り添い、意見を聞いて話合いの場を作り、なによりも関係者から信頼を勝ち得ることが大切である。面子を重んじるミャンマーにおいて外国人である私の発言はことのほか注目されているだけに、言葉には細心の注意が必要と心している。(中略)

如何なる批判、中傷を浴びようとも、何とか問題解決への道筋はないかと日々、苦慮し、問題解決の任を負った者として、覚悟をもって任務を全うするため、あえて「沈黙の外交」を堅持する考えでいる。

つまるところ、国軍非難をしてしまえば、国軍からの信頼を失って「日本政府代表」として調停活動を行うこともできなくなる。それはしたくない、ということである。

人道支援活動を通じて得た信頼を生かして、政治調停分野での貢献も期待されて「日本政府代表」となった笹川陽平会長にとっては、これ以外にはとりうる立場はない、とも言えるかもしれない。

■標的制裁を科す欧米は問題解決を目指していないか

だが翻って考えてみると、標的制裁を科している欧米諸国は問題解決を目指しておらず、「沈黙」している笹川会長だけが問題解決を模索している、という理解があるのだとしたら、それはあまりに一面的だろう。欧米諸国が「沈黙」するために、国軍幹部や国軍系企業に狙いを定めた標的制裁を停止したら、ミン・アウン・フライン最高司令官は態度を和らげるのだろうか。そのような根拠のない空想を信じるわけにはいかない。

「指導者に寄り添う」という笹川会長の姿勢に、国軍に弾圧されている市民に同情的なミャンマー人たちは反発している。笹川会長は、華麗な経歴の中で、一流の「指導者」との付き合いが長かっただろうが、実は世界のほとんどの「指導者」は、そのような一流の人物たちではない。仮に民主化を始めて笹川会長とも親交の深かったテイン・セイン元大統領が優れた人物だったとしても、ミン・アウン・フライン最高司令官がそのような人物であるという保証はない。むしろ全く逆であるように見える。それでも笹川会長は、「指導者に寄り添う」ために「沈黙」する。

■日本政府も「沈黙の外交」を続けている

笹川会長は、そして日本政府は、自らの役割を見いだそうと必死になりながら「沈黙」している。それは不真面目な態度ではないとしても、いずれにせよ結果は出ていない。制裁をしている欧米諸国を「上から目線」で批判できるほどの立場ではない。

もちろん笹川会長が日本外交に第一義的な責任を負う必要はない。しかし、その責任の一端は担ってしまっている。人道支援と政治調停の間で、反欧米主義的な性格のあるアジア主義の姿勢をとりながら、ミャンマーに対して「沈黙」を続ける日本外交は、仮に笹川会長が全責任を負うものではないとしても、かなりの程度笹川会長によって象徴されている。

果たして本当にミャンマー国軍は、「差別への怒り」をぶつけるべきではない相手なのか。特に、笹川会長が選挙監視団長として不正はなかったと結論づけた選挙を覆してクーデターを起こし、自らの利権は手放そうとせず市民を殺害し、拘束し、拷問し続けているミン・アウン・フライン国軍最高司令官は、笹川会長が求める「差別との戦い」の観点から見ても、やはり「沈黙の外交」によって寄り添うべき「指導者」なのか?

■怒りを持って立ち向かった過去もあるはず

笹川陽平会長は、若い時分に、倒産した会社の破産管財人として「乗っ取り魔」と言われた横井英樹氏に立ち向かった経験を持つ(*17)。父・良一氏に、資金をだまし取る詐欺師たちと縁を切れ、と迫ったこともある。日本船舶振興会を乗っ取ろうとして陽平氏自身の追い落としも図った、私腹を肥やしていた元部下たちに、解雇を宣して、訴訟対決も辞さず、対決したこともある。陽平氏もまた、これまで何度も悪と思われる人々に、怒りを持って立ち向かってきたのではなかったか?

陽平会長の父・良一氏は、決して「沈黙の外交」などを美徳にしていなかった。時には軍部に抗して大政翼賛会を批判し、時にはガーナ大統領を叱責し、それでも自らの信じる道を貫こうとした人物だったのではなかったか?

「沈黙の外交」は、「差別との戦い」とは違うものだろう。だがもし「沈黙の外交」が「差別との戦い」ではないとしたら、いったいそれは何なのか。結果責任は、誰が、どのようにとるのか。

■長期的国益を見据えても「沈黙」は妥当なのか

われわれ日本人は皆、笹川会長が代表し、日本政府全体で実践している「沈黙の外交」に、責任を負っている。われわれが沈黙している間にも、数多くのミャンマーの人々が殺され、拘束されている。もちろん制裁したからといって、すぐに何かが変化するわけではないのは確かだろう。だがそれは「沈黙」についても同じだ。沈黙したからといって、すぐに何かが変化するわけではない。

果たして本当に全てのミャンマー人に寄り添う気持ちで、日本の長期的な国益を見据えたうえで、政策責任者が自らの結果責任を引き受ける、という覚悟を定めて、政策を決定し、遂行しているのか。

ミャンマーで起こっている厳しい現実を目にして、もちろん誰にも、何をどうすればいいのか、という「答え」はわからない。しかし、だからこそ明らかにしておかなければならない。われわれ日本人は皆、日本の「沈黙の外交」に、責任を負っている。

(*1)「モーターボート競走法」第31条(収益の使途)
(*2)日本財団公式サイト「ミャンマー支援プログラム」
(*3)日本財団公式サイト プレスリリース「ミャンマー国民和解担当日本政府代表・笹川陽平の談話」(2018年12月21日)
(*4)テレビ朝日 報道ステーション「キーマンに聞く“ミャンマーの今”」(2021年11月25日放送)での発言
(*5)伊藤隆(編)『ソーシャル・チェンジ 笹川陽平、日本財団と生き方を語る』(中央公論新社、2019年)P.283
(*6)伊藤(編)『ソーシャル・チェンジ』P.274
(*7)伊藤(編)『ソーシャル・チェンジ』P.276
(*8)伊藤(編)『ソーシャル・チェンジ』P.289~290
(*9)高山文彦『宿命の子 笹川一族の神話』(小学館、2014年)P.24
(*10)高山『宿命の子』P.57
(*11)笹川陽平「川端康成と笹川良一」『総合教育技術』44(13)1989年、P.18~19
(*12)高山『宿命の子』P.20
(*13)高山『宿命の子』P.50
(*14)笹川陽平『愛する祖国へ』(産経新聞出版、2016年)P.97~98
(*15)笹川陽平ブログ「『ミャンマーでクーデター』―国軍司令官に全権―」(2021年2月2日)
(*16)笹川陽平ブログ「『沈黙の外交』―ミャンマー問題―」(2021年5月13日)
(*17)「横井英樹対笹川陽平(良一二世)の対決 富士観光をめぐる攻防戦のゆくえ」『財界展望』1972年2月号、P.118~123

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篠田 英朗(しのだ・ひであき)
東京外国語大学教授
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』(風行社)、『ほんとうの憲法―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。

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(東京外国語大学教授 篠田 英朗)

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