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「NHK大河ドラマでは描きづらい」薩長と戦わず逃げた徳川慶喜の苦しすぎる弁明

プレジデントオンライン / 2021年12月18日 12時15分

渋沢栄一(国立国会図書館ウェブサイトより)

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は晩年、渋沢栄一が進める伝記の編纂に協力した。歴史家の安藤優一郎さんは「慶喜は30年以上の沈黙を破って薩長との戦いを放棄した弁明を試みた。そこには大河ドラマでは描きづらい慶喜の『したたかさ』が確認できる」という――。

■朝敵になった徳川慶喜が渋沢栄一に語った弁明

12月26日に最終回を迎えるNHK大河ドラマ『青天を衝け』は、渋沢栄一が徳川慶喜に成り代わる形でその伝記を編纂(へんさん)・完成させたところで幕を閉じるだろう。

渋沢が私財を投じて慶喜の伝記を編纂・刊行したのは、今の自分があるのは慶喜が取り立ててくれたおかげという信念からであった。慶喜の功績を後世に伝えることで、それまでの恩義に報いたいという強い思いの現れだろう。

戊辰戦争が長引くことなく明治維新が実現したのは、臆病者と謗(そし)られても朝廷への恭順を貫いた慶喜の政治姿勢に求められる。朝廷への恭順姿勢を貫いた慶喜こそが、明治維新の最大の功労者であることを伝記を通じて伝えたい。とりわけ戊辰戦争の折に浴びせられた批判に対し、自分が慶喜に代わって反論する意図もあった。

一方、慶喜は渋沢たちの尽力もあって、明治35年(1902)に維新の功臣に対して授けられた爵位のなかでもトップの公爵となったことで、名誉が回復される。

そして、渋沢がプロデュースした伝記編纂事業の場を借りて、過去の政治行動を語りはじめる。慶喜は渋沢が提供してくれた弁明の機会を活用するのである。

本稿では伝記の編纂事業から見えてくる姿を通じて、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする慶喜の評価を試みたい。慶喜自身の言葉には、苦しい弁明と同様にしたたかさが感じられる。

■もう一つの伝記『昔夢会筆記』に記された質疑応答

『徳川慶喜公伝』と名付けられる伝記の編纂事業がスタートしたのは明治40年(1907)のことである。編纂所は日本橋兜町の渋沢事務所に置かれ、編纂主任となった東京帝国大学教授の萩野由之たち歴史学者たちが通った。

東京日本橋
写真=iStock.com/redtea
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/redtea

当事者の慶喜に編纂員が直接質問できる場も渋沢により設けられた。編纂員にとっては願ってもない機会だったが、慶喜にとっても何かと物議をかもした政治行動を弁明できる貴重な機会となる。鳥羽伏見の戦いそして大坂城脱出はその象徴と言えよう。

徳川慶喜
徳川慶喜(国立国会図書館ウェブサイトより)

この慶喜を囲む会は昔夢会と称された。名付け親は慶喜だったが、このことにも伝記編纂に対する積極的な姿勢が読み取れる。

昔夢会における慶喜と歴史学者たちのやり取りなどを収めた筆記録は『徳川慶喜公伝』に先立ち、『昔夢会筆記』として印刷され、当時は編纂員のみに配布された。現在は刊行されているため、たやすく読むことができる。

『昔夢会筆記』は筆記録と速記録から成る。当初は質疑応答を編纂員が編集した筆記録のスタイルだったが、途中から速記者が入り質疑応答の具体的な様子が分かる速記録となる。ところが、速記者がいては話しにくいという慶喜の要望に従い、再び筆記録に改められた。

速記録は編集されておらず、質疑応答の様子がリアルに出ている。慶喜が返答に窮する場面もそのまま記録されたため、これはまずいと慶喜は考えたのだろう。

■鳥羽伏見の戦い――慶喜は戦意旺盛だった

昔夢会で取り上げられたテーマは実に多岐にわたるが、後世まで批判を浴びることになった鳥羽伏見の戦いに関する質疑応答はたいへん興味深い。

大政奉還により将軍の座を自ら降りた慶喜は、その後、政敵・薩摩藩などが決行したクーデターで樹立された新政府と一触即発の状況に陥る。新政府から排除された慶喜だったが、薩摩藩に対する諸藩の反発を背景に、当時大坂城にいた慶喜が上京すれば議定に任命される運びとなった。

これは新政府入りの内定を意味したが、新政府側は軽装で上京するよう慶喜に求めていた。しかし、実際は幕府や会津・桑名藩など徳川方の兵士が大挙京都に向かう。

その際、徳川方は慶喜自ら起草した「討薩の表」を携えていた。薩摩藩討伐を新政府に届け出た上での進軍であり、慶喜が戦意旺盛だったことは明らかだろう。

ところが、慶応4年(1868)1月3日に徳川方は京都南郊の鳥羽・伏見で防衛線を張る薩摩・長州藩に敗北を喫する。5日には、官軍であることを示す錦の御旗が薩長両藩の陣営に掲げられた。これを知った慶喜は大きな衝撃を受ける。

尊王の志が篤かった慶喜は賊軍つまり朝敵の烙印(らくいん)を押されたことで、一転弱気となる。戦意を失った。徹底抗戦を諸将に訓示して味方を欺いた直後、城内にいた会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬たちに密かに同行を命じ、6日夜に大坂城を脱出する。翌7日朝、軍艦開陽に乗船し、海路江戸へと向かった。

一方、置き去りにされた格好の前線の将兵たちは驚愕する。というよりも、憤激したと言った方が事実に近かった。

日本ウォリアーズ
写真=iStock.com/ZU_09
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ZU_09

■慶喜の苦しい弁明

昔夢会の場でも鳥羽伏見の戦いの顛末(てんまつ)は取り上げられており、慶喜は編纂員から討薩の表について問われる。慶喜の名で起草された薩摩藩に対する宣戦布告書である以上、薩摩藩と戦う意思は明らかなはずで、編纂員はその点を確認しようとしたのである。

ところが、速記録によれば慶喜はこれに答えず、話をそらしている。重ねて問われると、こう答えた。

「それは確かに見たようだった。実は、うっちゃらかして置いた。討つとか退けるとかいう文面のものを持っていたということだ」

慶喜自身は大坂城を出陣せず、徳川方を京都に向かわせたが、これについては次のように答えている。

「私は不快で、その前から風邪をひいて臥せっていた。寝衣のままでいた。するなら、勝手にしろというような考えも少しあった」

鳥羽伏見の戦いは戦意旺盛な家臣たちと薩長両藩が起こした戦いだったとして、ひとごとのようなスタンスを取っている。朝敵に転落した原因となった戦いは自分が起こしたものではないと言いたかったわけだが、さすがに無責任の誹(そし)りは免れないだろう。

■旧桑名藩士の無念の思い

慶喜を囲む昔夢会の場には、旧桑名藩士で漢学者の江間政発という人物も加わっていた。

伝記編纂に必要な史料の収集にあたった江間は、松平容保(会津藩主)と定敬(容保の弟、桑名藩主)を同行させて大坂城を脱出したことを話題に出し、2人をひそかに大坂城中から連れ出した理由を直接尋ねている。慶喜は次のように答えた。

「あれは残しておけば始まる」。

自分が大坂城を脱出しても2人を城中に残してしまえば、徳川方は2人を奉じて徹底抗戦するとみたのだ。戦意を喪失した慶喜は何としても戦いを終わらせたかった。

江間は「実に危ないところであります」と感想を述べているが、慶喜に置き去りにされた桑名藩士にしてみると、心中、実に複雑な心境であったことは想像に難くない。

「なぜ、あの時江戸に帰られたのか。残念だと定敬に申したところ、慶喜公がちょっと来いとおっしゃったので御供した」という話も慶喜の前で江間は披露した。

「慶喜公が戦えとおっしゃれば薩長両藩を叩き破ってしまうことなど何でもなかったのです」とまで発言している。痛烈な皮肉であった。

一連の江間の発言に対し、慶喜は沈黙したままだった。バツが悪かったのだろう。

■坂本龍馬も慶喜の名誉回復に一役買った

慶喜が編纂員たちからの質問に対し、自分に都合の悪いことは沈黙したり、あるいはのらりくらりと答えたりしていることが『昔夢会筆記』の速記録からは読み取れる。

速記者を入れることに難色を示したのも、都合の悪いことが記録されるのを危惧したからだった。

こうした過程を経て『徳川慶喜公伝』は編纂されたが、慶喜に配慮した記述も少なくなかったのが特徴である。当然と言えなくもないが、慶喜の代名詞でもあった大政奉還については、「公の勇決と竜馬の赤心」という見出しのもと以下のエピソードを紹介する。

慶喜が大政を奉還したとの報(しらせ)を受けた坂本龍馬は感激した。その時、傍らにいた土佐藩士中島信行に向かい、自分は誓って慶喜のために一命を捨てると言った。

この話を紹介した上で、慶喜の勇気ある決断と龍馬の偽りない赤心(せきしん)は、ともに歴史を飾るべき美談と結んだ。

龍馬が言ったという言葉を使いながら、慶喜の偉業をたたえている。慶喜の名誉回復のために、龍馬の言葉も一役買ったのである。

■恭順、謹慎を続けた慶喜のしたたかな一面

大坂城を脱出して江戸に戻った慶喜は抗戦することなく、新政府に寛大な処置を願う恭順路線を選択する。だが、幕臣たちの不満は大きく、新政府との決戦を求める意見が噴出する。当時フランスにいた渋沢も同じ思いだった。

恭順路線を堅持した慶喜は謝罪に徹することで、やがて赦免されるが、渋沢は慶喜の考えに納得できなかった。帰国後に対面した際に不満を吐露するが、慶喜に制せられたことで何も言えなくなる。

しかし、慶喜が朝廷への恭順姿勢を貫き、赦免後も謹慎生活を長期にわたり続けたことで、明治政府もその姿勢を諒(りょう)とした。弁明も一切せず、沈黙を守った姿勢を評価したのだ。その結果、渋沢たちの奔走もあって維新の功労者に授けられる爵位のトップ公爵となった。

武家の家紋
写真=iStock.com/Tom-Kichi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tom-Kichi

一時、朝敵の烙印(らくいん)を押されたものの、長い雌伏の時代を超えて名誉回復を果たしたわけであり、人生の大逆転に成功したのである。慶喜の粘り勝ちと言えようが、並々ならないしたたかさも透けてくる。

そして、慶喜の恩義に報いたい渋沢は、慶喜こそ明治維新の最大の功労者だったという史観を後世に伝えようと伝記編纂を企画する。慶喜は昔夢会という編纂の場を通じて、批判を浴びた自分の政治行動の弁明を試みたが、そこでも同様のしたたかさが確認できるのであった。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)

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