氷上を滑るように車いすを操る…22歳の鳥海連志が「車いすバスケの天才」になるまで
プレジデントオンライン / 2021年12月24日 10時15分
■パラアスリートを代表するスターになった鳥海選手の素顔
鳥海連志。ちょうかいれんし、と読む。東京パラリンピックが開幕するまで、この名前を知っている人はそれほど多くなかっただろう。
それが今では、メディアの引っ張りだこの日々。最近も、「第50回ベストドレッサー賞2021」のスポーツ部門で受賞し、12月2日の授賞式では著名人らと肩を並べて参列。同日夜には、テレビ番組『櫻井・有吉THE夜会』にも出演した。
彼を知らない人のために、おさらいする。鳥海は、車いすバスケットボールの日本代表として獅子奮迅の活躍を見せ、史上初の銀メダル獲得の原動力となった。その活躍ぶりは世界にもインパクトを与え、国際車いすバスケットボール連盟は「東京パラMVP」に鳥海を選出した。
まるで氷上を滑るように車いすを操作し、相手のディフェンスの間を縫うようにして鮮やかにシュートを決める。自陣のゴール下では、身体を張ってリバウンドを取る。勝負所で相手のボールをスティールし、流れを引き寄せる。
コート全域で縦横無尽にプレーする姿は、それまで車いすバスケットボールになじみのなかった人たちの心もつかんだ。大会前、1600人ほどだったインスタグラムのフォロワーは、5万人を超えた。
一躍、車いすバスケットボール、そしてパラアスリートを代表するスターとなった鳥海。しかし、決して浮かれてはいない。生粋の負けず嫌いの脳裏には、パラリンピック決勝で対戦したアメリカの、ある選手の姿が刻まれている。そして彼の視線は今、海の外に向けられているのだ。
■お手本であり、ライバルだった兄
鳥海が幼少時に通っていた菜の花こども園(長崎市)で撮影された、運動会のビデオ映像がある。そこには、両足の下肢がない鳥海が両手と膝から上の足を器用に使い、ほかの子どもたちと同じように竹の棒によじ登ったり、器用に逆立ちをして歩いたりする姿が残されている。
1999年に長崎市で生まれた鳥海は、先天的に両手、両足に障害を持っていた。右手の指は4本、左手は親指と人さし指の2本で、両足のすねの骨もなかった。
両親は将来のことを考えて、3歳の時に下肢を切断。それでも菜の花こども園ではほかの子どもと対等に扱い、まずはチャレンジさせてみて、できないことには寄り添い、温かく見守った。それが、運動会の映像にも表れている。菜の花こども園について、鳥海は「今の僕の人柄やバスケットを始めるきっかけにもなったし、いろんなところに繋がってる」と語る。
幼少の頃から身体能力が高かったようで、本人の記憶では5歳頃から家のなかでも逆立ちで歩いていたそうだ。身体を動かすことが好きで、普段は義足で友だちと一緒に外で駆け回っていた鳥海は、小学校に入るとサッカー、バスケットボール、野球、バドミントン、バレーボール、ドッジボール、スケートボード、スノーボードとなんにでも挑戦した。鳥海にとって最初のライバルは、1歳年上の兄だった。
「兄は運動神経もいいし、努力もするし、なにをするにも僕より上手くて、すごいなっていう感覚でしたね。でも兄に負けたくないという気持ちがあって、僕も一緒にいろいろとやってきました。一番身近にいるお手本であり、ライバルでもあり、大きな存在だったと思います」
友人や兄と同じように体を動かすことができない。それで傷ついたことはありましたか? と尋ねると、鳥海は首を横に振った。
「僕は成長してから障害者になったわけではないので、昔できていたことができなくなったという体験がありません。いつも、今ある自分の体でできることをしてきました。それに、友だちも家族も、みんなで楽しく遊ぶという感じだったから、僕が楽しめるようにもしてくれていたと思います。だから、障害があるからどうだと考えたことはないし、それでネガティブになることもなかったですね」
■「なんだこれ!?」車いすバスケとの出会い
小学校6年生の時、長崎大橋の先に浮かぶ西海市の大島に家族で引っ越し。そこで中学に上がると、友だちと一緒にテニス部に入った。
テニスコートの横に立つ体育館から、義足でテニスをする鳥海に目を留めたのは、女子バスケットボール部の監督。その監督は車いすバスケットボールの審判をしていたこともあり、ある日、「車いすバスケットボールをしてみないか?」と声をかけた。
もともと鳥海家はバスケットボール一家で、両親は学生時代にバスケットボールをしていて、1歳年上の兄も小学生の頃からプレーしていた。父親と兄とは家でよくバスケをして遊んでいたから、鳥海にとっては身近なスポーツだった。しかし、車いすバスケットボールは別物だった。
監督からの誘いを受けて、隣町の佐世保で活動する車いすバスケットボールクラブ「佐世保WBC」の見学に行った鳥海の感想は、「なんだこれ!?」。初めて触れる、競技用の車いす。乗せてもらったはいいものの、まっすぐ漕(こ)ぐことすら難しい。
その車いすに乗り、ゴール下からシュートを打ったらリングにも届かない。選手たちは当たり前のようにしているプレーがなにひとつ満足にできず、悔しさが湧き上がってくると同時に、なにもできないことへの面白さも感じた。
負けず嫌いの血が騒いだ鳥海は中学校1年生の6月、佐世保WBCに加入する。佐世保WBCは九州沖縄地区の強豪だ。しかも、チームの最年少選手でも鳥海と10歳離れていた。素人の中学1年生にとってはハードルが高そうな環境だが、鳥海は怯(ひる)まなかったし、チームメイトも温かく迎え入れた。
なにより幸運だったのは、チームがちょうど基礎を見直そうとしていた時期に重なったことだった。このタイミングで、競技の知識や車いすの操作をイチから学ぶことができた。
■先輩の家に泊まり込んで練習に没頭
鳥海の心に火が付くのは、早かった。
まだほかのチームメイトと雲泥の差があった頃に、「このクラブで一番になろう」と決意。週3日だったチーム練習に加えて、ほかのチームの練習にも参加し、週5日、練習するようになった。
他チームでの練習には佐世保WBCのチームメイトが先に参加していて、やる気に燃える鳥海をかわいがり、行き帰りは車に乗せてくれたという。
鳥海は週5日の練習でメキメキと力をつけ、車いすバスケットボールを始めて1年後には、ジュニア世代の海外遠征のメンバー選考会に呼ばれた。長崎からは3人が参加したのだが、選考会終了後、「パスポートを用意するように」と伝えられたのは、ほかのふたりだけ。
自分だけ選から漏れたのが堪(たま)らなく悔しかった鳥海は、驚く行動に出た。夏休みなどの長期休暇になると、佐世保WBCの先輩の家に泊まり込み、毎日練習するようになったのだ。
「うちは、親が毎日練習に僕を送れる環境ではなかったんですよね。チームには毎日練習している先輩がいて、その人の家に泊まれば一緒に移動して練習ができるので、1週間泊めてもらって一度帰宅するという感じでした。先輩と言っても親世代の方だったんで、親とも仲良くしてもらっていて、本当によくしてもらいました」
自らを追い込む怒涛(どとう)の練習量は、グングンと鳥海の力を伸ばした。2013年10月にマレーシアで開催されたアジアユースパラ競技大会では、日本代表選手団91名のなかで最年少の14歳8カ月で日本代表に選出された。
■「純粋に天才だと思う」
この大会で準優勝した日本代表で際立ってアグレッシブなプレーを見せた鳥海は、高校1年生の夏、特別推薦枠で日本代表の合宿に招集される。初めて目の当たりにした日本代表選手のプレーに、鳥海は度肝を抜かれた。
「桁違いでしたね。この合宿の前に25歳以下の大会で対戦して、『すごい!』と思っていた選手もいたんですけど、日本代表ではそんなに目立ってなくて。僕は、チェアスキルもシュート力もパススキルもぜんぜん足りなかった。とにかく、なんかすごい経験してるなっていう感覚でした」
日本のトップ選手たちとのレベルの差に圧倒された鳥海だが、日本代表のスタッフはポテンシャルを高く評価したのだろう。その年の12月に行われた強化指定選手を決める選考会にも呼ばれ、見事、強化指定選手に選ばれた。
ここからまた、鳥海の成長が加速する。翌年のアジア・オセアニア選手権では持ち前のスピード感あふれるプレーを存分に見せて、リオデジャネイロ・パラリンピック出場権獲得に貢献。
これで一気に日本代表内での評価を高め、高校3年生だった2016年8月、17歳にして初めてのパラリンピックに臨んだ。鳥海を日本代表に抜擢(ばってき)した及川晋平ヘッドコーチは、当時の会見で鳥海について「純粋に天才だと思う」と評している。
しかし、リオパラリンピックは天才にとって苦い思い出になった。チームは6位以上という目標を掲げながら敗戦を重ねて9位に沈み、鳥海も消化不良のまま大会を終えることになる。
「国内で通用していたプレーが通用しない。試合に出た時に、チームを勢いづけるプレーができない。なんでこんなにできないんだろうって苛(いら)立っていましたね。そういう状態のまま試合を重ねることへのメンタル的なタフさはその当時なかったし、かなりきつかったです」
■海外で通用するバスケを目指して
リオパラリンピックでの失望感と脱力感からか、過去のインタビューでは一時、車いすバスケットボールから離れようとしたと明かしている。しかし、続けるべきだという家族の言葉や、翌年に23歳以下の世界選手権が控えていたこともあり、再びコートに戻ることを決意。
「バスケを続けるなら関東に行きたい」という想いがあり、2017年春、日本体育大学に進学すると同時に、ジュニア時代からともにプレーしてきた古澤拓也選手が所属する車いすバスケットボールクラブ、パラ神奈川SCに加入した。
初めてのひとり暮らしで昼間は大学に通い、夜はクラブで練習という日々が始まった。練習を終えると帰宅は遅い時間になるが、朝から授業があるのでのんびり寝ていることもできない。自炊をしながら大学とパラ神奈川SCに通うのは「かなり大変だった」と振り返る。
同年6月にカナダで開催された23歳以下の世界選手権で、日本代表はベスト4に食い込む。副キャプテンを任された鳥海は、大会優秀選手のベスト5に選出された。さらに、同年10月には日本代表として中国の北京で行われた「アジアオセアニアチャンピオンシップス」に参加。3位になった日本は翌年に開催される世界選手権の切符を手に入れた。
国際大会ともなれば、大会前に合宿が組まれ、大会の期間と合わせると拘束時間はかなり長くなる。普段の練習を含めて車いすバスケットボール中心の生活を求める鳥海にとって、次第に大学との両立が難しくなっていった。そして、次の年は1年間、大学を休学することになった。
「事前に大学に相談していなかったので、バスケットの活動が忙しくなった時に、授業やレポートをどうするか、コミュニケーションが取れていませんでした。僕はバスケットをしたいのに、大学はレポートがかなり多くて。それで親や先輩に相談して、一度休学することにしたんです」
■代表監督と毎日LINE
この頃、鳥海がどれだけ車いすバスケットボールに没頭していたか、よくわかるエピソードがある。大学1年生の頃から、練習の内容や練習で気づいたこと、課題や改善点、練習以外で感じたことなどを日本代表ヘッドコーチの及川晋平にほぼ毎日LINEで報告していたのだ。
例えば、「今日、こういうシチュエーションでこういうプレーがあったんだけど、どう思いますか?」と質問すると、及川からこまめに返信があった。さらに、月に一度は及川と一緒に試合の映像を観て、プレーの選択肢やほかの選手の思考や動きについて、ディスカッションを重ねた。このやりとりは、鳥海が休学して車いすバスケットボールに専念するようになってからも続いた。
日本代表監督にここまで前のめりにアドバイスを求めるアスリートは、珍しい。鳥海にとってはそれが大きな糧になったという。
「晋平さんに毎日報告をするという意識があるから、ダラダラと1日を過ごしたり、ダラダラと練習をするということもありませんでした。今日はこういう報告したいから、練習でこれを意識してみよう、試してみようとか、日々のモチベーションにもつながりましたね。日本代表で活動していくなかで、僕はずっとバスケットの理解を深めたかったからすごく助かりました」
■大学を中退して就職
大学を休学した2018年は、6月の国際親善試合「三菱電機ワールドチャレンジカップ」(日本)、8月の世界選手権(ドイツ)、10月のアジアパラ競技大会(インドネシア)と、大きな大会が続いた。日本代表としてフル参戦した鳥海はこの年、大学を中退することを決断した。それは、身近にロールモデルとなる先輩、日本代表キャプテンの豊島英がいたからだ。
10歳年上の豊島は、高校卒業後、プレーを続けながら東京電力、宮城県警で勤務し、ロンドンパラリンピックの後、さらにバスケに打ち込みたいと放送局のWOWOWに移った。同社は多数のスポーツ番組を放送していることから障害者アスリート雇用を始めたところで、その1号となったのが豊島だ。
仙台市に拠点を置く強豪クラブ、宮城MAXに所属していた豊島は仙台を拠点にしたまま車いすバスケに集中して取り組める雇用体系になり、プレーに集中できる環境を手にした。さらに、リオパラリンピック後の2016年10月からは長期海外出張扱いでドイツのクラブに移籍し、2018年4月までプレー。東京パラリンピックでのメダル獲得を目指して帰国した後は、仙台に戻って勤務を続けていた。
いつの頃からか、海外でのプレーを意識していた鳥海にとって、これ以上ないお手本だった。大学をやめた鳥海は、2019年5月、豊島の紹介を受けてWOWOWに就職した。
「日本代表でお世話になった豊島さんは、WOWOWのアスリート雇用で毎日バスケットを仕事として生活していました。休学中の僕もバスケットを中心に生活をしていたので、それならしっかりと区切りつけて、バスケットが仕事ですって言える環境にしたいと思いました。豊島さんが海外でもプレーしていたので、WOWOWなら僕が海外に行きたいとなった時に前例があるので行きやすいだろうし、アスリートや車いすバスケットボールへの理解があるのも大きいですね」
■新たな武器は諸刃の剣
20歳にして、パラアスリートとして勝負する道を選んだ鳥海。それからは、「楽しくて始めたバスケットだったけど、楽しむだけじゃなく、プロとして向き合い、結果を出さないといけない」と意識が変わった。
日本には車いすバスケットボールのプロチームはないので、日本代表の活動期間以外は、平日夜に行われるパラ神奈川SCの練習がベースになる。それに加えて、鳥海は日々個人トレーニングを重ね、ウエイトトレーニングをしたり、1日に朝、昼、夜と3度の練習をする日もあるという。
東京パラリンピックでメダルを獲るために、大胆な決断もした。9位に終わったドイツでの世界選手権の後、車いすの座面をそれまでより約20センチ高く上げ、車輪も25インチから26インチにして、攻守で有利になる「高さ」を求めたのだ。
これは、鳥海にとってひとつのターニングポイントでもあった。車いすバスケは、障がいのレベルによるクラス分けがある。最も障害が重い1.0から0.5点刻みで4.5まで8段階で持ち点が定められており、コートに立つ5人の持ち点の合計は14以内に収めなくてはいけない。
両脚を切断し、両手の指に欠損がある鳥海の持ち点は2.5点で、障害が重いカテゴリーに入る。2.5点の選手は「ローポインター」と呼ばれ、守備に配置されることが多いが、鳥海はオールマイティなプレーを持ち味にしていた。
これに高さを加えることで、自陣、敵陣のゴール下でリバウンドを取ったり、相手のボールをカットするスティールの確率が高まるだけでなく、シュートの際にブロックされる確率が下がるというメリットがある。
一方で、座面を高くすれば不安定になり、車輪が大きくなれば車いすが重くなる。自分の持ち味である圧倒的なスピードやチェアスキルに影響を及ぼしかねない、諸刃の剣であった。この新たな武器を自分のものにするために、鳥海は走り込みや体幹トレーニングを重ねた。
■メンタルトレーニングの効果
メンタルトレーニングにも取り組んだ。これは日本代表がチームとして始めたことだったが、鳥海にとっても重要な意味を持った。
もともと、大舞台でもまったく緊張しない性格で、自身で「メンタルは強い」と自覚していた。しかし、トレーニングの一環で、練習中や試合中の感情を事細かに書き留め、感情の動きを客観視することで、明らかにプラスの効果があったという。
「まず、自分の感情傾向が見えたのが良かったですね。例えば、プレーがうまくいかない時、大きく分けて、落ち込むのか、苛立つのか、反省点をすぐ見つけるのかという3パターンに分かれます。僕は落ち込まないし、苛立ちもしないけど、反省はしてないかもな……とか、感情的ではないけど、次のプレーに思考が働いてなかったな……みたいなことに気づきました」
あの場面ではどうだったと感情が逐一可視化されると、その後のプレーが変わる。試合中に反省点を意識できれば、同じミスをしなくなる。瞬時に思考を切り替えられるようになれば、コンマ数秒の動きが速くなる。
攻守を素早く切り替える「トランジション・バスケット」を目指した日本代表でのプレーにおいても、メンタルトレーニングは効果を発揮した。
「僕が一番成果を得られたと思うのは、トランジション・バスケットの切り替えの部分です。プレーがうまくいかないとかミスをした時に、動きだけじゃなくて感情の切り替えを早くしなくちゃいけない。その点は、メンタルトレーニングやったことでより良くなったと感じました」
■「史上初の銀メダル」から得た新しい目標
もともともっていた身体能力を鍛え抜き、どん欲に技術を磨き、メンタルも強化した。17歳にして「天才」と評された男は、東京パラリンピックに向けてストイックに鍛錬を積み、一回りも二回りも自らを進化させた。
その成果は、コート上で表現された。初戦のコロンビア戦でトリプルダブル(15得点、17リバウンド、10アシスト)を達成すると、その勢いはもう誰にも止められなかった。
決勝戦までの8試合を通して日本代表の誰よりも長くコートに立ち、1試合平均10.5得点、7.0アシスト、10.75リバウンドを記録。スティールの数も全選手中3位と攻守にわたってチームをけん引し、日本代表を史上初の銀メダルに導いた。
東京パラリンピックを経て、鳥海が次のチャレンジの舞台として射程に捉えているのは、海外。すでに「お誘いはたくさんいただいている」状態で、これからじっくりとチームを選んでいくという。
「ヨーロッパのどこかのリーグで、2.5点のプレイヤーとしてどれだけ価値を高められるか、勝負したいですね。ヨーロッパは秋ごろからシーズンが始まるので、可能であれば来年のシーズンからプレーしたいと思っています」
今、鳥海には意識している選手がいる。東京パラリンピック決勝で戦ったアメリカのキャプテンでエースのスティーブ・セリオだ。アメリカで1、2を争う得点力を持つだけでなく司令塔でもあるセリオは、日本との決勝戦で28得点、9アシストを叩き出し、日本に引導を渡した。そのプレーは、鳥海にとって新たな目標となった。
「彼はゲームメイクに長けているし、時間帯によってゲームをどうコントロールしていくかという能力も肌身で感じました。そういうプレーはこれからの僕の課題で、今後、練習に取り組んでいくうえで参考にする選手ですね」
車いすバスケットボールは息の長い選手が多く、今、世界最高の選手のひとりと言われるセリオは34歳。しかも彼は、鳥海よりも障害の程度が軽い3.5点のハイポインターだ。現在22歳、ローポインターの鳥海がアメリカのエースのプレーに近づいた時、日本代表は再びパリで羽ばたく。
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フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。
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(フリーライター 川内 イオ)
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