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「記者会見への同席は逆効果だった」新型コロナ分科会が"国民から支持されなくなった"本当の理由

プレジデントオンライン / 2021年12月28日 10時15分

記者会見する菅義偉首相(当時)(左)。右は政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長=2021年9月9日、首相官邸 - 写真=時事通信フォト

新型コロナウイルスの出現により、感染症対策をめぐる政治と専門家の関係が浮き彫りになった。行政学が専門で千葉大学名誉教授の新藤宗幸さんは「専門知は政治の意思を忖度し、政治に使われてはならない。専門家会議(分科会)は、より市民の感性に寄り添った、独立性のある立場を取ることができたのではないか」と指摘する——。

※本稿は、新藤宗幸『権力にゆがむ専門知 専門家はどう統制されてきたのか』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

■きわめて抑制的だったPCR検査

全国一斉の「学校閉鎖」問題は、コロナ感染症当初の政権と専門知の関係を象徴する事態といってよいが、これにくわえて専門家会議=分科会の行動に疑問がもたれ、今日なお問題視されているのは、PCR検査体制である。当初、PCR検査はきわめて抑制的であった。37.5度以上の発熱が4日以上つづいた段階で検査を受けられるとされていた。この基本的方針が政権と厚労省の協議の結果なのか、厚労省によってつくられたのか、それとも専門家会議からの発案だったのかは、いまだに判然としない。

ただし、当時の厚労省の医務技監(2017年に次官級ポストとして設置)は、大規模検査は感染リスクの低い人を拾うことになり、結果が信頼できないものとなる、と積極的な検査に否定的だったとされる(『選択』2021年6月号)。医系技官と専門家会議=分科会を主導する公衆衛生の専門知が、厚労省と足並みをそろえていたことは、事実といってよいだろう。実際、感染症の拡大がすすむにしたがってPCR検査件数の少なさには、批判が強まっていった。そして、当初の検査条件は撤廃されていくが、専門家会議=分科会が検査の拡充=徹底を政権に提言することはなかった。

■1990年代以降の保健所政策の失敗

PCR検査件数の抑制は、1990年代以降の保健所政策の「失敗」を物語る。保健所の設置数と人員数は、1994年の保健所法の廃止=地域保健法の制定以降、削減されてきた。歴代政権は真剣な議論を欠いていたし、学問的にも大きな関心を呼ぶことはなかった。少子高齢化社会の進行を前にして、母子保健や老人保健に力点をおくべきとの議論が主流となり、市町村を中心とした地域保健が重視された。保健所法は自治体が独自に「保健所」に類似する名称の組織の設置を禁じてきたが、地域保健法はその規定を削除した。

その結果、市町村には母子ないし高齢者を冠した「保健センター」といった名称の組織が多数設けられた。これ自体は時代状況に応えるものと評価できよう。だが、当時、厚生省幹部は筆者に「保健所はもともと結核対策でしたから、感染症対策から転換せねばならない」と語った。これには「感染症対策はけっして時代の遺物ではない」と応じたのだが、従来の保健所の再編統合=廃止にブレーキはかからなかった。その結果、新型コロナウイルス感染症の「突然」の出現によって、保健所のリソースの少なさが重要な問題と化しているのだ。

■現にあるリソースを活用することはできたはずだ

ただし、PCR検査体制の充実について専門知が発言することは可能のはずだ。もちろん助言者には、具体的施策や事業の決定権は存在しない。それは学校の閉鎖も同じだ。ただし、助言者である専門知は政権の「下僕」でもなければ下部機構でもない。政権への意見を西村担当相と協議する必要があるとしても、政権の行動が科学的リテラシーに欠けていると理論的に判断するならば、政権へ「提言」するとともに、ひろく社会的に訴えるべきだろう。

PCR検査をしている様子
写真=iStock.com/show999
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/show999

保健所は整理統合されたが、高齢化社会への対応としていまや全都道府県が公立保健・看護系大学を設置している。さきに都道府県・市町村との協働体制の必要性を述べたが、保健所体制の充実にむけて政治と行政が舵を切るとしても時間を要する。現にあるリソースを政府そして自治体は活用すべきであり、公衆衛生の専門知はこうしたリソースの存在を熟知しているはずである。ようは感染症とPCR検査との関連性を理論的にどのように位置づけ対策を立案するかである。偽陽性あるいは偽陰性の間違いが生じようとも、それを確率の問題として処理し悉皆(しっかい)調査に近い態勢をとる方が、科学的なのではないか。

■政権の本音は「経済の停滞を極力避けること」だった

さきに、政権の経済再生担当相が新型コロナウイルス感染症の担当相であることを述べた。ここには安倍=菅政権の未曾有のパンデミックへの「本音」が、よくあらわれていよう。新自由主義に立脚して「成長戦略」をひたすら追求してきた政権にとって重要なのは、経済の停滞を極力避けることにある。

細切れのごとく発令された緊急事態宣言にもとづき人の流れを抑制するといい、また「新しい生活様式」なるスローガンによって個々人の行動に注文をつけつつも、「Go To トラベル」「Go To イート」といった事業を推奨した。さすがにこれは社会的批判を浴びて「一時的」に休止されている。だが、刑事罰まで採用して都市の封鎖(ロックダウン)を指向したヨーロッパ諸国とはあまりにも対照的である。政権の経済にたいする思想的立場は、このパンデミックにおいてもまったく自省されていないところに、対策の「迷走」の基本要因があるといえよう。

■分科会会長は首相の会見に同席すべきではなかった

専門家会議=分科会の行動は、少なくとも2021年の6月初めまで政府にたいする助言機能をきびしい言葉で表現するものではなかった。それどころか、首相の記者会見に尾身茂は同席し首相からの補足説明の求めに応じるのが常態だった。まるで首相の態度は、国会の委員会審議において所管大臣、あるいは参考人として呼んでいる官僚に説明させるかのようだった。分科会会長の首相記者会見への同席には評価する向きもあった。

だが、筆者は「共同記者会見」はおこなうべきではないと考える。そうでなくとも、専門知の能動的助言が低調と見做されているなかにおいて、これは政権への専門知の「従属」といった印象を社会に与えざるをえない。行政の首長である首相は、記者会見前に専門家の意見を聴くとしても、それを咀嚼(そしゃく)して自分の言葉で説明すべきなのだ。それが行政の長の責任である。

■「尾身発言」は公衆衛生学者としての発言ではないか

ところで、尾身茂は東京オリンピック・パラリンピックの開催が迫った6月に入って、パンデミック状況のなかでの開催について疑問を提示するとともに、大会開催によって感染拡大の危険性のあることを、記者会見や国会委員会で述べた。これにたいして政権は案の定、“越権行為”“尾身氏とそのグループの自主研究の結果”といった批判をつぎつぎと浴びせた。これを分科会会長の「越権行為」というならば、政権の意に沿わない政策への提言は、すべて越権行為だ。即効性のある治療薬が開発されていない段階での対策は予防に限られる。

東京オリンピックのロゴ
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winhorse

知性を欠いた政権の対応によって、政権と専門家集団との「蜜月」はあっけなく崩れさったかにみえた。尾身茂の発言の「真意」にはさまざまな憶測が飛び交った。だが、アルファ株、デルタ株といった変異株が流行しだし、ワクチン接種状況も停滞している。この段階でオリンピック・パラリンピックという一大イベントを開催するならば、COVID-19のパンデミックは抑えられない。それは各国選手団が変異株を持ち込むという意味ではなく、一大「お祭り騒ぎ」が、人びとやビジネスの行動を制御できなくなるという意味だ。

尾身発言は、WHOでの経験も踏まえた市民の感情を直視した公衆衛生学者の発言だったとみておきたい。実際、東京オリンピック開催中に、東京をはじめとしてコロナ感染症は爆発的拡大をみた。

■専門知は緊急事態宣言について明確な意見を言うべきだった

とはいえ、「尾身の乱」とまでいわれた専門知の反転も腰砕けに終わった。東京オリンピック・パラリンピックの強行開催を指向する政権にたいする「無力感」にとらわれているのか、きびしい感染症対策についての提言は影を潜めた。21年6月17日、菅首相は記者会見を開き、20日で期限が切れる緊急事態宣言の解除とオリンピック・パラリンピック大会の予定通りの開催を述べた。そこには尾身分科会会長も同席したが、開催についてのきびしい意見は表明されなかった。政権と専門家集団のあいだでどのような意見の再調整があったのかは、外部からはまったく窺い知れない。

東京都の街
写真=iStock.com/GoranQ
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GoranQ

案の定、危惧されていたようにオリンピックを機として新型コロナ感染症の「爆発的拡大」が生じた。菅政権は7月12日に四度目の緊急事態宣言を東京都と沖縄県に発令した(沖縄は延長)。しかし、東京都にくわえて神奈川県、千葉県、埼玉県の首都圏での感染は拡大の勢いを増した。菅政権は東京、沖縄の宣言を延長するとともに、首都圏の三県と大阪府にも発令した。

こうした事態の責任はもちろん政権にある。ただし、一時は反転したかとみえた政権と専門知の関係は、再びもとに戻ったかのようだ。専門知は緊急事態宣言の解除・再発令についても明確な意思を表明するべきだし、宣言によっていかなる措置を充実させるべきなのかを、科学的知見をもとに提起すべきなのだ。政権は発令前に分科会に諮(はか)ってはいるが、そこで政権と分科会とのあいだで激論が交わされた形跡はない。政権が分科会の専門知の意見を受け入れないならば、説明責任は政権にある。

■専門知は政治に使われてはならない

COVID-19の感染者数は2021年10月以降急速に減少しているが、その要因は科学的に解明されていない。SARSのように「収束」を期待したいが、事態が再び悪化するか、それとも好転するかはまったく予測できない。

ただし、この降って湧いたような感染症の危機とそれにたいする政権と専門知の行動は、政治と科学のあり方が社会の将来に決定的な影響を及ぼすことを教えていえよう。政権と専門知は、それぞれの立場から、検査、ワクチン接種をはじめとする予防体制、医療体制の充実にくわえて、経済社会のありかたに叡智(えいち)を結集せねばならないだろう。

これらの課題のいずれにおいても、政治・官僚機構と専門知は方向や対策を同じくすることもあれば、異なることもあろう。むしろ寄って立つ思考空間が違うのだから異なることの方が多いだろう。だからこそ、専門知はその独立性を保つために、政治に果敢に意見を提示することが重要なのである。言い換えるならば、専門知は政治の意思を「忖度(そんたく)」し使われてはならないのだ。

■市民の感性をもとに、科学的知見を磨いてほしい

新藤宗幸『権力にゆがむ専門知 専門家はどう統制されてきたのか』(朝日新聞出版)
新藤宗幸『権力にゆがむ専門知 専門家はどう統制されてきたのか』(朝日新聞出版)

さらに、専門家会議=分科会が「権威」ある助言機関として政治および社会から見做されるためには、専門知は常に市民の感性に敏感であり、それをもとにして科学的知見を磨いていかねばなるまい。これはCOVID-19に関連して設けられた専門家会議=分科会を構成する専門知にのみもとめられることではない。市民の感性からの乖離は、科学分野の細分化と制度化によって失われがちな学問的態度だが、自然科学、社会科学を問わず自らの学問的営為を問いなおしてみる必要があろう。

政治(政権)は、常に使いやすい専門知を重用する。専門知は内輪の会合において議論を重ねても、社会的発信力が乏しいならば、政権の行動の「追認」と社会は受け取ってしまう。そして科学的リテラシーに欠ける政治は、社会的憤懣(ふんまん)をたくみに操作し独善性を強めてしまう。専門知にはこうした政治に対抗することが問われていよう。

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新藤 宗幸(しんどう・むねゆき)
千葉大学名誉教授
1946年、神奈川県生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。専攻は行政学。東京市政調査会研究員、立教大学法学部教授、千葉大学法経学部教授、後藤・安田記念東京都市研究所理事長などを歴任。著書に『官僚制と公文書 改竄、捏造、忖度の背景』『政治主導 官僚制を問いなおす』(いずれもちくま新書)、『原子力規制委員会 独立・中立という幻想』『教育委員会 何が問題か』『司法官僚 裁判所の権力者たち』(いずれも岩波新書)、『行政責任を考える』(東京大学出版会)など。近刊に『新自由主義にゆがむ公共政策 生活者のための政治とは何か』(朝日選書)がある。

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(千葉大学名誉教授 新藤 宗幸)

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