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三菱UFJや三井住友では起きない…みずほ銀行だけが大規模システム障害を繰り返す根本原因

プレジデントオンライン / 2021年12月23日 10時15分

記者会見するみずほ銀行の藤原弘治頭取(右)とみずほフィナンシャルグループ(FG)の坂井辰史社長=2021年11月26日、東京都千代田区 - 写真=時事通信フォト

■社長、頭取、会長がいっせいに退陣

「グループトップとして最大の責任を担う私がけじめをつけるべく辞任することが、みずほにとって一番いいと判断した」

みずほフィナンシャルグループ(FG)の坂井辰史社長は、こう言い残して辞任を決断した。2月から8度にわたるシステム障害を起こし、金融庁から業務改善命令を受けたみずほ銀行の責任問題は、FGのトップ辞任を含む経営陣の刷新で決着した。坂井辰史社長、藤原弘治みずほ銀行頭取は2022年4月1日付で辞任、佐藤康博FG会長も同時に退任し、6月下旬に取締役を辞す。

大規模なシステム障害の始まりは2月28日、みずほ銀行の全国のATM(現金自動預け払い機)のうち約8割にあたる4300台が稼働しなくなった。キャッシュカードや預金通帳を取り出せなくなった顧客取引は累計で5244件に達した。その後も3月3日と7日には一部のATMやインターネットバンキングが使えなくなったほか、11日夜から12日にかけて外国為替のシステムで生じた不具合で263件の送金手続きが滞るなど、ほぼ2週間で4回のシステム障害が続いた。

金融庁はすぐさまみずほに検査に入ったが、この時点ではまだトップの辞任は必要ないのではないか、との認識が庁内では優勢だった。しかし、その後もみずほのシステム不具合は9月まで断続的に発生。金融庁検査は異例の8カ月にわたった。

■なぜ、みずほ銀行だけが障害を起こすのか

みずほ銀行は発足直後の2002年、東日本大震災直後の2011年3月にも大規模システム障害を起こしている。10年前の2回目のシステム障害時には就任2年目の富士銀行出身の西堀利頭取(当時)が辞任に追い込まれた。当時、この人事に関与した金融庁幹部は「もう一度、(システム障害を)起こしたら、野球に例えるなら3振・バッターアウトになりますよ」と因果を含んでいたほどだった。

銀行は巨大な社会インフラである。「システム障害は社会問題に直結するだけに万全であって当たり前」(メガバンク幹部)でなくてはならない。だが、同じメガバンクであっても三菱UFJ銀行や三井住友銀行では大規模システム障害は見られない。何故、みずほ銀行だけシステム障害が繰り返されるのか。原因を解明し、根本的な改善策を講じるためには、その誕生時にまで立ち返った企業文化の検証が必要だろう。

みずほは2000年に都市銀行の第一勧業銀行と富士銀行、長信銀であった日本興業銀行の3行が統合して誕生した。まず1990年代後半に第一勧銀、富士の2行が急接近したのが始まりだ。ともにバブル崩壊後の不良債権処理に苦しみ、再編に活路を見出そうとしていた頃だった。「両行は安田信託銀行(現みずほ信託銀行)を結節点にして急接近した」(みずほ銀行元役員)とされる。そこに分け入ったのが日本興業銀行だった。

■「3行が一緒になれば世界一の銀行が創れる」

1998年に日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が相次いで倒れ、次は興銀の番かと市場の圧力は高まっていた。すでに長短金融の分離行政は解かれ、長信銀という枠組みは制度的に行き詰まっていた。そこで興銀の西村正雄頭取(当時)は安倍晋三氏の叔父という政治的な力も駆使して第一勧銀の杉田力之頭取、富士銀行の山本惠朗頭取に統合を持ち掛けた。「3行が一緒になれば日本一、いや世界一の銀行が創れる」というのが殺し文句だった。

1900年、明治の殖産興業を支える特殊銀行として設立されたのが興銀である。「工業の中央銀行」と称され、戦後は金融債で資金を調達し、重厚長大企業への長期資金の供給を行い、日本の高度成長を支えた。新日本製鉄や日産など日本を代表する大企業の再編を陰で差配したのも興銀だった。「天下国家を論じる」のが興銀マンの伝統だった。

しかし、高度成長期も過去のものとなり日本経済が成熟する中、興銀をはじめとする長信銀の存在意義は急速に失われていった。そしてバブル崩壊でその終焉は決定的なものとなった。1990年代後半に入り、制度的な行き詰まりと不良債権の重みに興銀は押しつぶされる寸前だった。危機に瀕(ひん)した興銀は第一勧銀と富士銀行の統合に活路を見出そうとした。そして西村頭取は1999年夏、みずほ誕生をものにした。みずほは一面では興銀救済の枠組みであったと言っていい。

ATM クレジット カード
写真=iStock.com/ilkaydede
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ilkaydede

■「どこのシステムを使うか」が主導権争いの火種に

3行統合で誕生したみずほ銀行は上場企業の約7割と取引を持ち、約2400万の個人口座を誇る巨大銀行である。「資産規模トップの第一勧銀」「実質的に邦銀トップバンクであった富士銀行」「天下国家を体現する興銀」の3行が統合して誕生した銀行であるため、広範な営業基盤は当然である。だが、このそれぞれ頂点を自負する3行が一緒になったことで、皮肉にも内部の主導権争いは長くみずほの宿痾(しゅくあ)となっていく。

3行の統合は持株会社方式とされ、当初は持株会社であるみずほホールディングスの傘下に、第一勧銀、富士銀、興銀の3行がぶら下がる形態が採られた。歴史も企業文化も規模も異なる大手銀行、しかも3行が統合することは容易なことではない。「行内で使われる用語そのものが違っていた」(みずほ銀行OB)ほどだった。

しかし、悠長に時間をかけられない課題もあった。システムの統合である。銀行は装置産業である。3行のシステムが併存したままでは、コスト面をはじめ統合効果は望めない。システム統合は焦眉の急となっていた。だが、具体的にどの銀行のシステムにサヤ寄せするかは難題だった。

基幹を司る勘定系システムは第一勧銀が富士通、富士銀が日本IBM、興銀が日立製作所製であった。銀行同様にシステムを担うベンダーも日本を代表するコンピューターメーカー、主導権争いは熾烈を極めた。いずれの銀行のコンピューターメーカーが勘定系システムを握るかは、銀行の主導権争いの写し鏡の様相を呈した。

■統合当日からATM停止、二重引き落とし…

議論の末、みずほのメインフレームである勘定系システムは富士通製に決まる。第一勧銀が法的な存続会社としてみずほ銀行が発足したこともあるが、「第一勧銀は不良債権の重みが少なく、統合では主導権を握れる立場にあった」(みずほ銀行元役員)だったことも影響した。みずほは、都銀2行を主軸とする「商業銀行」優位の銀行としてスタートしたと言っていい。

しかし、みずほ銀行のシステムは統合当日に大規模システム障害を起こす。3行のコンピュータをつなぐリレーコンピュータでバグが生じATMが停止、預入不能となり、振込操作もできなくなった。口座自動振替では二重引き落としも生じた。未処理は1日だけで10万5000件に達し、その後数日にわたり障害は続いた。みずほ銀行はスタート時点からシステムに祟られたようなものだ。

このシステム障害には、富士通製を核に3行のリレーコンピュータで結ぶシステム運用と、3行を個人、中堅・中小企業取引を対象とするみずほ銀行と、大企業取引を対象とするみずほコーポレート銀行という2行に再編する組織変更が同時に行われたことによる無理があったと指摘された。バックアップも効かず、想定の甘さによる人災の色彩が濃かった。

■旧第一勧銀と旧富士銀の失策だった

2度目の大規模システム障害は東日本大震災直後の11年3月15日に起こった。みずほ銀行東京中央支店に開設された義援金受付口座への振り込み件数が容量上限を超え、夜間のバッチ処理が追いつかず、翌日に処理が積み残された。このため翌16日の営業時間帯のオンラインシステムの起動が遅れ、未処理の決済データが積み上がって勘定系システムが不安定化し大規模システム障害に発展した。17日には勘定系システムが強制終了し、ピーク時に116万件もの未処理取引が発生した。

この事態を重くみた金融庁は銀行法に基づく業務改善命令を発出。経営責任をとって西堀利頭取とシステム担当常務が辞任に追い込まれた。金融庁は、業務改善命令の中で、みずほフィナンシャルグループの一体感の醸成への取り組みが十分ではなく、みずほの企業風土に問題があると指摘。タスキ掛け人事の解消、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行の合併による「2バンク制」の解消を求めた。

約10年刻みで発生した2度のシステム障害でみずほグループ全体の人事は大きく狂いを生じた。システム障害はリテールを担うみずほ銀行の問題であり、実質的な母体である旧第一勧銀と旧富士銀の失策と捉えられた。

銀行看板
写真=iStock.com/y-studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/y-studio

■他メガバンクは「1社1ベンダー」だが…

その結果、「みずほ銀行をみずほコーポレート銀行に吸収合併させる形で新みずほ銀行を立ち上げるワンバンク構想が練られ、その最初の頭取に持株会社の社長であった佐藤康博氏が就いた」(みずほ銀行OB)とされる。第一勧銀と富士銀出身者が務めていたみずほ銀行頭取に、はじめて興銀出身の佐藤氏が就き、持株会社の社長も兼務することは、みずほグループのガバナンスを完全に興銀が握ったことを意味していた。

その後、佐藤氏によるみずほ統治が続き、スローガンとして掲げられた「One MIZUHO」のもと、基幹システムを最新鋭の「MINORI」に移行させるプロジェクトに着手する。この間、FGトップは佐藤氏から同じ旧興銀出身の坂井辰史氏に継承された。だが、「三菱UFJが日本IBM、三井住友がNECを中核にシステム統合したのに対し、みずほは日本IBM、富士通、日立製作所、NTTデータの4社体制を活かして統合するマルチベンダー方式が採用された」(みずほ銀関係者)。それだけ移行作業は複雑化し、総投資額は4500億円規模、開発工数推定20万人月に及んだ。

新システムへの移行が順調に終われば、みずほのシステムは、業務・機能別にコンポーネント化された最新鋭のものとなり、競争力が飛躍的に高まる。新商品・サービスへも柔軟に対応でき、開発期間やコストも3割程度削減できると試算された。

■旧行出身者がいる限り真の融合はない

過去の反省に立ち、慎重な上にも慎重を重ねたシステム移行作業は無事終了する。みずほFGは、20年3月期決算で、システム統合に伴う償却負担額約4600億円を一括処理した。FGの坂井社長は「これで後年度負担が一気に解消し、より柔軟で機動的な運営ができる」と強調した。

だが、悪夢は新システムの移行時ではなく、思わぬところで起こる。2月28日の3度目の大規模システム障害の発生であった。

金融庁は今回の業務改善命令で、みずほ経営陣によるシステム軽視が障害の根底にあるとの認識を示している。坂井社長は19年に基幹システムが全面稼働すると大幅にシステム要員を減らし、コストカットの圧力をかけたとされる。「長信銀出身者にとって薄利多売のリテールやシステム部門は傍流扱いだった」(みずほ銀元役員)という。システム障害は起こるべくして起こったと言っても過言ではない。

みずほは11月26日、22年4月1日付でみずほ銀行頭取に旧富士銀行出身の加藤勝彦副頭取が昇格する人事を発表した。だが、坂井氏の後任となるFG社長人事は越年したままだ。

みずほの宿痾はシステム障害という形で露呈したが、その底流にあるのは、力が拮抗した3銀行統合の難しさに他ならない。しかも有力商業銀行2行と投資銀行の雄であった興銀が手を結ぶ異例の統合劇であった。「銀行の歴史は、合併の歴史でもある。融和がなにより優先されるが、実際は旧行出身者がいなくならなければ真の融合は実現しない」(メガバンクOB)という。みずほのシステム障害はそのことを象徴している。はたしてみずほは変われるだろうか……。

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森岡 英樹(もりおか・ひでき)
経済ジャーナリスト
1957年生まれ。早稲田大学卒業後、経済記者となる。1997年、米コンサルタント会社「グリニッチ・アソシエイト」のシニア・リサーチ・アソシエイト。並びに「パラゲイト・コンサルタンツ」シニア・アドバイザーを兼任。2004年4月、ジャーナリストとして独立。一方で、公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団(埼玉県100%出資)の常務理事として財団改革に取り組み、新芸術監督として蜷川幸雄氏を招聘した。

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(経済ジャーナリスト 森岡 英樹)

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