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「信仰心が篤いからではない」江戸時代の男たちが熱心に寺社参詣した"意外な理由"

プレジデントオンライン / 2022年1月1日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BernardAllum

江戸時代の旅行ブームでは、人々は神社やお寺への参詣に熱中した。歴史家の安藤優一郎さんは「講という組織が旅行ブームの火付け役になった。だが、男たちが寺社参詣に熱中したのは信仰だけが理由ではない」という——。

※本稿は、安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■江戸時代の「旅行ブーム」の火付け役

江戸の旅行ブームを牽引した寺社への参詣は個人もさることながら、団体での参詣が定番である。そんな団体旅行が旅行人口増加の最大の要因となり、「おかげ参り」のような熱狂的な「群参」も生み出すが、団体旅行の基盤となった組織に目が向けられることはあまりない。

その組織とは、「講」である。

講とは寺院や神社、あるいは霊山、霊場に参拝して奉加(ほうが)や寄進を行う集団組織のことで、講中とも言う。信徒側から自然発生的に講が結成される場合もあったが、大半は寺社側のアプローチで結成された。まさしく布教活動の成果だった。

寺院の講からみてみよう。

成田山新勝寺(現千葉県成田市)といえば、近頃は明治神宮に次いで初詣での人数が多いことで知られる。その信徒が組織する講は成田講と呼ばれた。本尊の不動明王を篤く信仰していることから、不動講ともいう。

関東の初詣での人気では成田山と双璧の川崎大師平間寺(へいげんじ)(現神奈川県川崎市)の信徒が組織する講は大師講、同じく関東の高尾山薬王院(現東京都八王子市)の信徒による講は高尾講、雨降山大山寺(あぶりさんおおやまでら)(現神奈川県伊勢原市)の講は大山講と呼ばれた。

神社の講としては、伊勢講、富士講、秋葉講などが挙げられる。それぞれ、伊勢神宮(現三重県伊勢市)、富士山の浅間(せんげん)神社(現山梨県富士吉田市)、東海の秋葉神社(現静岡県浜松市)の信徒により組織された講である。

言うまでもなく、寺社の経営は講からの奉納金に大きく依存していたが、寺社への参詣も講単位で行われることが多かった。寺社も講による参詣を大いに歓迎した。そして至れり尽くせりの「おもてなし」が展開された。

■講による団体旅行——ファンクラブのような組織

講、そして所属した人数についての貴重な史料が成田山には残されている。

文化十一年(一八一四)に作成された「江戸講中在所記」という江戸の成田講の会員名簿によれば、講の数は五百十五講にものぼった。大半の講は二十~四十人ぐらいのメンバーで構成され、総人数は一万七百三十二人を数えた。その家族を含めれば、数万人の規模となっただろう。

講中はその寺社の信徒で組織されてはいたものの、当時の講はいわばファンクラブのような組織で、入退会も自由と見た方が事実に近い。ゆるやかなまとまりの集団であったが、ゆるやかな組織の方が敷居が低くて入会しやすい。

つまり、成田講だけに入会している江戸っ子もいただろうが、高尾講や大山講にも入っている講員も珍しくなかったはずだ。むしろ、ごく当たり前のことだったのではないか。

宗派が異なる寺社に参詣することは現在でも日常的な光景で、そうした事情は江戸も同じである。大半の江戸っ子はご利益があれば、またその評判を聞き付ければ、どの宗派の寺社でも参詣した。そうした江戸の信仰事情を踏まえれば、複数の寺院の講に入っていても何の不思議もない。

浮世絵
写真=iStock.com/BernardAllum
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BernardAllum

■数万人を組織化…講が成田山の経営を支えた

もちろん、江戸っ子数万人が成田講のメンバーであったとしても、その信仰の度合いはおのずから異なる。だが成田山としては数万人を講という形で組織化できたことは、経営基盤にプラスになったことは間違いない。

講を通じて参詣を促すことで参詣者が増加すれば、いきおい浄財(寄付金)も増えて経営強化に直結する。

成田山に限らず、どこの寺社も講を活用していた。

講は町や村という共同体単位で結成されるのが普通だが、江戸のような都市では商人や職人仲間単位で組織された講もあった。商人仲間で組織された講としては、魚屋や酒屋のほか、両替屋・札差(ふださし)(俸禄米の仲介業者)・米屋・材木屋などの講が挙げられる。

職人仲間では町火消で組織された講がある。成田山の山内には江戸町火消が奉納した石碑が今も数多く残されている。成田山を参詣した町火消の講中が信仰の証として奉納したものだ。そうした由緒を踏まえ、今も「江戸消防記念会」が成田山に毎年赴き、木遣(きやり)歌を奉納している。

■片道1泊2日の成田詣の中身

講単位で参詣する場合は、次のようなシステムで参詣することになっていた。講員がおのおの金銭を出し合い、積み立てておくのである。積もり積もって奉納金となるわけだが、それだけが使途ではない。参詣に要する旅費にも充てられた。

ただし、メンバー全員がうち揃って参詣したのではない。順番で参詣する仕組みになっており、講を代表した「代参講」のスタイルが取られた。数人から数十人ずつ連れ立って参詣したが、懐に入れていたのは旅費や宿泊費だけではなく、多額の奉納金も持参しての団体旅行だった。

成田山を事例に、江戸から成田までの行程をみていこう。ちなみに、成田山への参詣は成田詣でと呼ばれた。

成田山新勝寺
写真=iStock.com/sharrocks
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sharrocks

成田詣では片道一泊二日の行程だった。陸路の場合は江戸から東に向かい、隅田川に架かる千住大橋を渡って新宿(にいじゅく)に入り、小岩・市川関所を経て江戸川の先へ進んだ。八幡宿を経由した後、その日は船橋宿で宿泊した。翌日、船橋を出発し、佐倉城下を通過して成田に到着するのが一般的なコースである。

このルートは、もともと佐倉街道と呼ばれていた。ところが、成田詣でのため使われることが増えたため、いつしか成田街道と呼ばれるようになる。

■まるで旅行パック…宿泊先もセットでついてくる

水路も使って参詣する場合は次の二つのコースがあった。

一つは、深川の高橋(たかばし)から小名木(おなぎ)川を経由して下総国の行徳河岸まで船で進み、上陸した後は市川を経由して船橋宿で宿泊するコースである。翌日は陸路の場合と同じく大和田宿、佐倉、酒々井(しすい)を経由し、成田へと向かった。

もう一つは行徳河岸で上陸せずに、そのまま江戸川を遡って利根川との分岐点である関宿(せきやど)に向かうコースである。その後、今度は利根川を下って安食(あじき)河岸・木下(きおろし)河岸から上陸し、成田に向かった。主に船旅となって歩く距離が少なかったため、結構利用者が多かったようだ。参詣裏道とも呼ばれたコースだった。

陸路にせよ、水路・陸路併用にせよ、成田に到着すると門前の旅籠(はたご)屋に宿泊したが、講で成田詣でをする場合、泊まる宿屋は決まっていた。江戸の成田講に限らず、関東各地に点在する成田講は成田山門前の旅籠屋とそれぞれ契約し、参詣時の定宿としたのである。

■精進料理の献立表

翌日の早朝、成田講の面々は入山し、未明からはじまっている本堂での朝護摩(あさごま)に参加する。その後、護摩札を頂戴することになるが、護摩終了後に本坊では精進料理やお神酒(みき)を振る舞われることになっていた。これを、「坊入り」と呼ぶ。

成田山では、成田講に出す精進料理にたいへん気を遣ったようだ。それだけ、成田講の人たちは重要な客だったからである。

運良く、献立記録がいくつか残っている。一口に精進料理と言っても、奉納金額でかなりの違いがあったことが分かる。メニューは奉納金によってランク付けされていたのだ。

文政九年(一八二六)に参詣した講中に出された献立の記録には、煮染め、吸い物、硯蓋(すずりぶた)(口取り)、大鉢、大平、丼、大鉢、吸い物、大鉢などと書かれている。

最初の吸い物の具は、千本しめじ、白玉、かゐわり(貝割菜)、うど。二度目の吸い物の具は、水前寺のり(熊本の名産品)とまつたけ。最後の大鉢には、葡萄(ぶどう)と梨が盛られていた。

■至れり尽くせりの饗応

吸い物以外の料理では、どんな食材が使われていたのか。

文化十二年(一八一五)の献立記録によれば、きのこ類では、しめじ・きくらげ・まつたけ・しいたけ。野菜では、ゴボウ・しょうが・長イモ・れんこん・うど・竹の子・ワラビ。海藻類ではもずく、水前寺のりなどが用いられたことが分かる。

この時のメニューは、煮染めと赤飯、吸い物、硯蓋、大平、鉢積、丼、肴(さかな)で、その後、本膳、二の膳、三の膳が続く豪華な料理だった。煮染めにはゴボウ、しいたけ・かんぴょう・焼き豆腐・やまといもが食材として使われた。仏教の殺生戒を遵守(じゅんしゅ)した植物性の食材の数々である。

実に多彩だが、これだけの食材を取り寄せるのは、さぞ大変なことだったろう。いかに、成田山が成田講に気を遣っていたかが分かる献立だ(『成田山新勝寺史料集』第六巻)。

もちろん、信仰の証としての奉納金あってのおもてなしだったが、講中に対する至れり尽くせりの饗応は、どの寺社にもあてはまることなのである。

■「精進落とし」…男たちの密かな楽しみ

朝護摩に参加し、坊入りで心尽くしの接待を受けた成田講の面々は、同じ道を取って江戸に戻るのが一般的なパターンだった。その日は船橋宿で再び宿泊し、翌日に江戸へ到着するという往復三泊四日のスケジュールが多かった。

芸者
写真=iStock.com/martin-dm
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/martin-dm

ただし、成田から香取・鹿島神宮に向かう道もあったため、成田参詣の折に足を伸ばして両神宮に参詣する者も多かった。寺社参詣の際、直帰せずに近隣の寺社や行楽地も訪れるのは、成田詣でに限らずごく当たり前のことであった。

成田詣での一行が往路・復路の宿泊地とすることが多かった船橋は宿場町として成田街道、東金(とうがね)街道、房州街道、銚子街道の分岐点であるだけでなく、漁港として栄えた町でもあった。水陸交通の要衝として賑わったが、その賑わいに拍車を掛ける旅籠屋があった。

遊女を置いていた「飯盛(めしもり)旅籠」である。

成田詣ででは成田街道船橋宿、相模国大山寺への参詣(大山詣りという)では東海道藤沢宿での精進落としが定番だった。

この精進落としには飲食はもちろん、遊女屋での遊興も含まれていたのは言うまでもない。成田詣でや大山詣りに限らず、寺社参詣後の精進落としは男たちの密かな楽しみとなっていた。

要するに寺社参詣が、遊興を楽しむための方便となっていた事例が多かった。この精進落としなどは最たるものだろう。

■遊女を抱えた飯盛旅籠は参詣客で大繁盛

幕府は吉原など特別に認めた場所以外での遊女商売を禁じており、旅籠屋での遊女商売は本来認められないはずであった。

しかし、旅人に給仕する女性を飯盛女という名目で置くことは容認していたのである。

安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)
安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)

見て見ぬふりをしたのだ。ほぼ黙認されており、江戸っ子が寺社参詣にかこつけて宿場町で精進落としができたのも、旅籠屋が飯盛女を抱えていたからに他ならない。

幕府は旅籠屋一軒につき飯盛女は二名が上限と定めていたものの、上限を超えた旅籠屋は珍しくなかった。

といっても、旅籠屋に必ず飯盛女が置かれたわけではない。置かない旅籠屋(平(ひら)旅籠という)もあったが、多くは飯盛女を抱えることで大いに繁昌した。宿場の繁栄にもつながっていたことも事実である。

宿場全体の運営は、その主役たる旅籠屋や茶屋から徴収する「役銭(やくせん)」で支えられた。いわば営業税のようなもので、なかでも飯盛女を抱える旅籠屋が納める役銭は多額だった。それだけ利益を上げていたが、飯盛女の揚げ代が原資なのであった。

なお、宿場で遊女商売を営んだのは旅籠屋だけではなかった。茶屋も給仕する女性を遊女として密かに働かせていた。飯盛女とともに宿場を陰で支える存在だった。

船橋宿の飯盛旅籠では飯盛女(遊女)が盛んに旅人の袖を引いたが、その遊女は「八兵衛」と呼ばれたという。旅籠屋のうち飯盛旅籠が半数以上を占めた藤沢宿でも同じような光景が繰り広げられていた。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)

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