「負担の大きい参勤交代とはまるで違う」江戸時代の公家が日光出張を熱望した"意外な理由"
プレジデントオンライン / 2022年1月3日 12時15分
※本稿は、安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■貧乏公家に「日光出張」が人気だった理由
元和二年(一六一六)四月十七日、徳川家康は駿府城で波乱万丈の生涯を終えた。その遺言により、遺骸は駿河国久能山(くのうざん)にいったん埋葬されたが、翌三年(一六一七)には日光山に改葬される。
同年三月に、家康を祀る東照社が二代将軍秀忠により造営されたからだ。日光への改葬も家康の遺言に基づく対応であった。
前月の二月、朝廷は家康に「東照大権現」という神号を与えた。この神号に因んで東照社と名付けられたのである。そして、家康は「東照神君(しんくん)」となった。
天台宗の日光山輪王寺(りんのうじ)が東照社を管轄したが、そのトップの貫主(輪王寺宮という)は皇族つまり宮様で、京都から法親王(出家した親王)が迎えられるのが習いだった。
東照社の建物が面目を一新するのは三代将軍家光の時代である。寛永十一年(一六三四)、家光は総工費五十六万八千両を掛けて社殿の大改築を開始した。それから二年後の同十三年(一六三六)に壮麗な社殿が完成をみる。
正保二年(一六四五)、東照社は朝廷から宮号を下賜され、以後東照宮と呼ばれるようになった。日光東照宮の誕生である。
■徳川家康の命日に合わせて派遣された勅使
以後、日光には将軍をはじめ諸大名や公家、そして一般庶民も参詣した。併せて、日光街道の整備も進み、現存する杉並木も植樹されていく。
毎年、家康の命日にあたる四月十七日には例祭が執行された。将軍みずから参列することもあり、これを日光社参と呼ぶ。
日光社参は往復で八泊九日の道中だったが、将軍に御供をする形で諸大名も随行した。もちろん、将軍も大名も大勢の家臣を連れて日光に向かったため、幕府や藩は莫大な出費を余儀なくされる。
沿道の農民たちも幕府から助郷役(すけごうやく)を賦課され、その負担に苦しむ。助郷とは、物資輸送を目的として人馬を提供することであった。
そのため、幕府は次第に日光社参を控えるようになる。毎年の例祭には将軍の名代という形で代参使を派遣することで済ませた。日光への代参使を務めたのは、殿中儀礼の指南や勅使の接待を職務とした旗本の高家(こうけ)である。
■「日光例幣使」の派遣とは何か
日光東照宮の例祭には幕府だけでなく、朝廷も幣帛(へいはく)を奉献するための勅使(ちょくし)を派遣した。この勅使は「奉幣使」と呼ばれ、毎年派遣されたため「例幣使(れいへいし)」とも称された。
東照宮への奉幣使派遣とは、そもそも幕府からの要請に応えたものだった。一方、幕府は朝廷の権威を借りることで東照宮の権威向上を狙った。
最初に奉幣使が派遣されたのは元和三年のことだが、正保三年(一六四六)からは毎年の派遣が恒例となる。ここに、日光例幣使の歴史がはじまる。
例幣使に任命されたのは、朝廷では参議などを務める中級クラスの公家である。一行の人数は五十~六十人ほどで、家康百回忌など特別な時は倍増となる。
例幣使は、どういう経路を取って日光に向かったのか。
京都を出立した例幣使は、まず中山道を経由して東へ向かう。碓氷(うすい)峠を越えて関東に入り、上野国の倉賀野宿まで進んだ。この倉賀野宿で中山道を離れて道を東に取ったが、倉賀野宿から下野国の楡木(にれぎ)宿までが、日光例幣使街道と称された道筋だった。楡木宿からは日光街道壬生(みぶ)通りを今市宿まで進み、今市からは日光街道を進んで目的地の日光に至る。
■京都から日光への道のり
例幣使一行が京都を出立するのは、例年三月末から四月一日までの期間であった。中山道と例幣使街道、そして壬生通りや日光街道を経て、遅くとも四月十五日には日光に到着することになっていた。
往路に中山道を取って東海道を避けたのは、大井川などでの川留めを恐れたからである。中山道は東海道に比べれば山道や峠道が多かったものの、河川は少なかった。その分、川留めの危険性は低い。
例祭の前日にあたる十六日、例幣使は神前への奉幣を行い、翌日の例祭に備えた。ただし、例祭自体には参列せず、奉幣を済ませると帰路に就く。
帰路は今市宿から壬生通りを経由し、小山からは日光街道に道を取る。その後は、一路江戸に向かった。
江戸では、奉幣が済んだ旨を幕府に報告した。その後、東海道を経由し、四月末には京都に戻っている。
例祭に遅れるわけにはいかなかったため、往路は川留めの危険性が少ない中山道を取ったが、任務を果たした後は旅程が遅れても構わなかったわけだ。川留めの危険性があっても、山道の少ない東海道を選んだのである。
つまり、帰路は例幣使街道を通っていない。日光例幣使街道とは、いわば年に一回、片道しか利用されない街道だった。
■日光例幣使になると財産を築ける謎
幕府の要請に応えて毎年京都から派遣された日光例幣使には、中級クラスの公家が任命されたが、例幣使を望む者は非常に多く狭き門となっていた。
なぜ、公家は例幣使に任命されることを強く望んだのか。役得があったからだ。例幣使を一度でも務めると、「御釜を興(おこ)す」ことができたという。財産を作れたのである。そのため、生活苦に喘(あえ)ぐ公家たちにとり例幣使に任命されることは垂涎(すいぜん)の的だった。
当の公家だけではない。その話を聞き付けた出入りの米屋、豆腐屋、薪炭(しんたん)屋などが押し掛け、御供をさせて欲しいと求めてくる。概して公家は懐が寂しく、出入りの商人への払いが滞っていた。ところが例幣使の御供をすると、出入り商人側にもこれまた役得があったのだ。
例幣使は駕籠に乗って日光へと向かったが、道中でわざと駕籠から落ちるのが日常的な光景となっていた。身分が高い公家であるから、怪我でもされたら一大事である。
その上、例幣使の役目とは歴代将軍も頭が上がらない東照神君へ幣帛を奉献することだった。そんな大事な役目を帯びた身分の高い公家に怪我を負わせたとなれば、ただで済むはずがない。
一行には宿場で用意した駕籠かき人足や荷物を運ぶ人足たちが同行していたので、例幣使は彼らにクレームを入れる。徴用された人足たちはその土地の農民であり、次の宿場まで一行を送り届けることが役目だが、落ち度があったと糾弾するのである。
まったくの言いがかりだが、農民(人足)たちには相手が悪すぎた。公家から幕府に訴えられては厳罰を免れない。
■「パタル」と呼ばれた例幣使のインチキ収入
そこで登場するのが、お決まりの袖の下だ。例幣使に金銭を渡すと、落ち度はなかったことになる。
駕籠からわざと落ちることは「パタル」と呼ばれた。「パタル」の回数分だけ、例幣使の懐は重くなるというからくりだ。こうして、ひと財産作れたのである。
例幣使がこんなありさまであるから、御供の者たちも何かと難癖を付けて金子を巻き上げるのが常だった。袖の下がたんまりと貯まり、京都へと戻る。
そんな話が知られていたからこそ、出入りの米屋たちが例幣使の御供に加わりたいと求めてきたのである。「つけ」があった公家は弱みに付け込まれた形で御供に加えた。それは米屋たちへの支払いが済むことを意味していた。
例幣使が行き来する道中ではこんな光景が毎年繰り返されていた。運悪く例幣使に関わった人足たちからすると災難に他ならない。道中、御供に化けて駕籠に乗っていた出入りの米屋たちの行状については、次のような証言も残されている。
下向の途中イヤモウ辛(ひど)い言懸りをする。特(こと)には米屋、薪屋、豆腐屋、豆屋が烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の扮装(いでたち)ゆえ、威張り散すのみか、役徳をしようしようと目懸けて、人足の百姓に辛(えら)い無心を引掛けたもんです。一、二例を挙げますが、コノ御供廻りが言合したように皆駕籠から落ちるのでがす。ソレが無理やりに落ちるのではない飛出すので、落ちて置いて「誠にその方共は怪(けし)からぬ。公儀へ申上げ、何分の御沙汰に及ぶ」という難題。一同恐入って「何分共(なにぶんとも)に御内済(ごないさい)」と、両の袂(たもと)へ若干金を入れると、渋い顔がニコニコ顔となり、「一同注意せイ」。(『増補 幕末百話』)
烏帽子や直垂を付けて公家に化けた米屋たちが幕府に訴えるぞと人足たちを脅していた様子が、鮮やかに浮かび上がってくる証言である。
■切り刻んだ古い幣帛が初穂料に化ける
例幣使の役得は「パタル」や、接待に落ち度があると宿にクレームを入れることで巻き上げた金子だけではない。色紙や短冊に揮毫(きごう)して、本陣に支払う宿泊料に代えることも珍しくなかった。
宿泊代は支給されているわけであるから、その分例幣使の懐に入る。宿泊料を期待する本陣にとっては、有難迷惑この上ない。
例幣使が領内を通過する諸藩にとっても、招かざる貴人だった。通過の際には御機嫌伺いの使者を送る必要があったが、何と言っても勅使であるから粗略にはできない。何らかの進物を携えて宿所に出向くことになる。財政難の藩にとっては小さくない負担だった。
さて、東照宮に赴いた例幣使は新しい幣帛を神前に奉献し、去年奉献した幣帛を持ち帰ることになっていた。だが、それで話は終わらない。古い幣帛を細かく切り刻み、諸大名から庶民に至るまで希望者に配っている。
もちろん、無料ではない。「初穂料」はしっかり受け取る。元手は掛かっていないため、配った分だけ、帰路は懐が重くなった。
こうした役得により、一度でも例幣使に任命されると財産を作ることが可能だったのである。
■庶民にとっては大迷惑なサイドビジネス
日光例幣使は、人足として徴用された農民、宿所の本陣そして道筋の諸藩にとり、幕府や朝廷の権威を傘に着る迷惑この上ない存在だった。
だが、見方を変えると、それほど公家は生活苦に喘いでいた。公家のトップである摂関家の近衛家でさえ、所領は中級旗本クラスの三千石に届かない。他の公家などは推して知るべしだ。
所領から徴収する年貢だけでは生計を立てられなかったのが実情で、サイドビジネスで糊口(ここう)を凌いでいた。和歌や書道など伝統文化の家元となることで、その免許料を貴重な収入源としたのである。だから、多大な役得が期待できる例幣使への希望が殺到したのも無理はなかった。
公家だけではない。禁裏御料(きんりごりょう)と呼ばれた皇室の所領にしても三万石に過ぎず、その経済力は小大名レベルだった。幕府はもとより、諸藩と比べても朝廷の経済力は微々たるものに過ぎない。
しかし、そうは言っても天皇の権威は幕府にとって必要不可欠だった。そもそも、将軍にとり天皇は任命権者であり、天皇から大政を委任されることで幕府は存在し得た。
天皇つまり朝廷あっての幕府であり将軍だった。朝廷から箔付けされることが幕府権力の源泉となった。それゆえ、家康を祀る東照宮への例幣使の派遣を朝廷に求め続ける。
こうした幕府側の事情を背景に、日光には公家が毎年派遣された。その裏では、例幣使や御供の者による所行に泣かされる者が毎年出ていたのである。
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歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。
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(歴史家 安藤 優一郎)
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