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「誤解を招いたのであれば申し訳ない」そうした謝罪が炎上を招いてしまう根本原因

プレジデントオンライン / 2021年12月30日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RichLegg

「謝罪する」とは何をすることなのか。東京大学大学院の古田徹也准教授は、「謝罪は一方的な行為や儀式ではない。だから『謝ったんだから、もうそれでいいだろう』とは必ずしもならず、場合によってはさらなる謝罪を求められることにもなる」という――。

※本稿は、古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■「申し訳ないと思う」だけで果たしてよいのか

謝罪する、ということを子どもに教えるのは難しい。

何か悪さをした子どもを叱りながら、「そういうときは『ごめんなさい』と言うんだよ」と教えることを繰り返す。すると子どもはやがて、「ごめんなさい」と言うことはできるようになる。けれども今度は、場を取り繕おうと「ごめんなさい、ごめんなさい……」と言い続けたり、「もう『ごめんなさい』と言ったよ!」と逆ギレをし始めたりする。

「違う違う! ただ『ごめんなさい』と言えばいいってもんじゃないんだよ」――そう言った後の説明が本当に難しい。謝罪というのは必ずしも、たんに「ごめんなさい」と言ったり頭を下げたりしただけでは終わらない。「すみません」ではすまないのだ。では、どうすれば謝ったことになるのだろうか。

声や態度に出すだけではなく、ちゃんと申し訳ないと思うことだろうか。しかし、「申し訳ないと思う」とはどういうことなのだろうか。そして、思うだけで果たしてよいのだろうか。結局のところ、「謝る」とは何をすることなのだろうか。

■「ご不快な思いをさせて申し訳ございません」は謝罪なのか

たとえば、電車で立っていてふらつき、隣の人の足を思わずちょっと踏んでしまった、といったケースでは、すぐに「すみません」とか「ごめんなさい」と言えばすむ場合が大半だろう。踏まれた相手もなぜそう言われたのかを了解しているし、普通は、その一言をもらえれば十分だと思うはずだ。(むしろ、土下座までされたら気味悪く思うだろう。)

問題なのは、それではすまないことをやってしまったケースだ。

ビジネスマンの謝罪
写真=iStock.com/itakayuki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/itakayuki

たとえば、有名人が大きな舌禍事件を起こして、謝罪会見を行ったり謝罪コメントを発表したりするとしよう。その際に皆の顰蹙(ひんしゅく)を買いがちな物言いの典型は、「私の発言が誤解を招いたのであれば申し訳ない」といったものだ。というのも、これでは、「皆さんが意味を誤解しただけであって、私は非難されるべきことを言ったつもりはない」と弁解していることになるからだ。

また、「ご心配をおかけして申し訳ございません」とか「ご不快な思いをさせて申し訳ございません」という言葉もよく用いられるが、これもまるで、謝るべきは心配をかけたことや不快な思いをさせたことであって、自分のした罪や過ちではない、と言っているように聞こえる。

たとえば、交通事故の後に当て逃げをした人物が、謝罪会見の場で「皆さまに不快な思いをさせて……」と言ったとすれば、その人物は、自分が法や道徳にもとることをしたことや、被害者を傷つけたことなどを謝っているのではないという風に、多くの人が受けとめるだろう。

■謝罪の定番フレーズに含まれている“言い訳のニュアンス”

謝罪の言葉として悪名高い常套句はほかにも色々とある。たとえば、非難されるべきことをなぜしたのかと問われた際の、「自分の弱さで……」とか「私の未熟さによって……」といった言葉、あるいは、「私の不徳の致すところで……」という類いの言葉だ。

こうした常套句はどれも、自分がなぜそれをしたのかについての具体的な説明を拒否するものであり、かつ、自分のしたことが主体的で意図的なものであったことを否定するニュアンスを帯びている。つまり、自分がそのとき気持ちを強くもてたり、成熟していたり、徳をちゃんと備えてさえいれば、そんなことを敢えて自分からしようなどとは思わなかったはずだ。自分の性状に流されて、どうしようもなくやってしまったんだ――そういう言い訳のニュアンスである。

■「謝る」とは、出来事に対する自己認識の表明

以上のような「お約束」の言葉たちから逆に見えてくるのは、謝罪が謝罪であるために必要な本質的特徴だ。それは、「謝る」というのはまずもって、当該の出来事をいま自分がどういうものとして認識しているのかを表明することである、ということだ。(しかもその際には暗に、当該の認識が、謝罪する相手や世間の認識とおおよそ合致していることが期待されているとも言える。)

たとえば先述の、電車内でふらついて人の足をちょっと踏んでしまうケースにおいて、「すみません」と言うことは、私があなたの足を踏んでしまったのであり、悪いことをしたと認識している、ということを、端的に相手に伝える言葉になっている。

男子高校生の足を踏んでいる女子高校生の足
写真=iStock.com/Satoshi-K
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Satoshi-K

逆に、たとえば性的マイノリティに対する酷い差別発言をした人物が、謝罪の場で「誤解を招いたのであれば……」と言うとすれば、差別発言だと捉えているのは皆さんの方であり、自分の発言が差別行為であったとは認識していない、と表明していることになる。

同様に、「不快な思いをさせて……」とか、あるいは「私の未熟さゆえに……」などと言うとすれば、その人物は、自分の行為の問題はたんに誰彼に不快な思いをさせた点に過ぎないと認識していることや、自分が未熟なために行為の意味を十分に理解していなかったことを示唆している、と見なされるだろう。

もっとも、そうした釈明で皆の納得を得られるケースもありうる。たとえば、問題の発言をしたのがまだ幼い少年で、本当にその言葉の意味を分かっていなかったと皆が認めるケースなどだ。しかし、発言の主が十分に年を重ねた大人であったり、普段から性差別的な言動を繰り返していたりしたならば、たんにごまかしの言い訳を並べていると判断されるだろう。

■謝罪の言葉を発することは、謝罪のはじまりに過ぎない

いずれにせよ、謝罪がまさに当該の差別行為の謝罪であるためには、自分が確かにかくかくのことを行い、それにはしかじかの意味があり、これこれの点で問題のある悪い行為であった、という認識を明らかにすることが欠かせない。謝罪の弁を聞く者は、まずもって当人の認識の如何(いかん)を問うているのである。

ただ、それだけでは謝罪として十分ではない。たとえば、口先だけなら何とでも言えるから、本当にそう思っているかどうか分からない、という疑念が周囲から湧くこともしばしばある。それゆえ、長く頭を下げ続けるとか、土下座するとか、涙を流すといった態度が、本当にそう思っていることの印として示される場合もある。ただ、当然それらの態度もフリでありうる以上、本当にそう思っていることを究極的に証し立てるものにはならない。

そしてこのことは、謝罪というものを構成する、もうひとつの主要な特徴に結びついている。それは、謝罪は儀式ではないということだ。

謝罪は多くの場合、自分が何をしたのかを説明し、それが悪いことだったと認める所作を行うだけで終わるのではなく、むしろそこから始まる。それだけで常に謝罪を謝罪として完成させるような、そうした魔法の言葉や態度などは存在しない。軽微なケースを除けば、謝罪の言葉を発したり頭を下げたりすることは、謝罪のスタートライン、謝罪という実践のはじまりに過ぎないのである。

■どうすれば「本心からの謝罪」が伝わるのか

実際、私たちは普通、謝罪の言葉や態度の後に当人が何をするかによって、当人が本当のところどう思っているかを判断する。簡単な例では、謝罪した直後に人目につかない場所でげらげら笑っていたりした場合には、あの謝罪は本心からではなかった、と見なされるだろう。

「本心」そのものはどこまでも不確かでありうるからこそ、人はしばしば、当該の出来事を自分はかくかくのように認識した以上、これからしかじかのことをすると約束しそれを実行することによって、本心そのものの証明の代わりとする。

たとえば、自己を処罰するという約束。相手の溜飲を下げる何らかの行為をするという約束。生じた損害を賠償する約束。手紙を出し続けることなどによって、出来事を忘れずに反芻し続けるという誓い。人を殺(あや)めてしまった場合の、その人の墓前にずっと花を供え続けるという誓い。麻薬に手を出した場合の、もう二度と手を出さないという誓い、等々。

そして、そのような約束の内容の多くは、自分がしてしまったこと(=謝罪すべき自分の行為)によって損なわれたものや失われたものを何らかのかたちで埋め合わせる――その意味で責任をとる――という意味合いをもつ。たとえば、損なわれた相手の気持ちを晴らすとか、物的損失に対して補償を行うといったことである。

もちろん、この場合の「埋め合わせる」――償(つぐな)う、贖(あがな)う――というのは、文字通りの意味で「元通りにする」ということではない。とりわけ、人の思い出の品を壊したり、生き物の命を奪ったりした場合などには、その損失を埋め合わせることなど不可能だ。

それでも、自分がしてしまったことを後悔し、責任を感じている人であれば、どうにかして「償い」に相当する行為を行おうとする。埋め合わせられないものを埋め合わせようとするかのように、場合によっては自分が死ぬまで「償う」ことを続けるのである。

■「謝罪はいつ、どうやって完了するのか」という難問

土下座のような、一般にきわめて屈辱的と見なされる行為は、そうした「償う」行為のうち、まさに自己処罰や、相手の溜飲を下げる行為に当てはまるだろう。そして、謝罪の言葉とともに土下座をし、それが相手や周囲に受け入れられて許される場合には、謝罪はいわば最速に近いかたちで完了すると言える。

土下座するビジネスマン
写真=iStock.com/Tomwang112
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tomwang112

しかし、土下座がいつも誰に対しても効力を発揮するわけではないし、むしろそのような振る舞いがひどく嫌悪される場合もある。繰り返すように、常に謝罪をそれだけで完了させる魔法の言葉や態度など存在しないのだ。

つまり、土下座のような極端な行為であっても、「謝ったんだから、もうそれでいいだろう」とは必ずしもならず、むしろ、軽微でないケースでは通常、長く継続的な行為の履行を約束する言葉を、謝罪の一環として提示することが求められる。そして、その約束が履行されなかったり、途中で破られたりすれば、「謝罪は嘘だった」とか「謝罪が十分ではなかった」などと評価されることになるのである。

さらに言えば、自分で勝手に約束してそれを果たすだけでは、謝罪が終わったとは必ずしも見なされない。謝罪はいつ、どうやって完了するのか、というのは実に難しい問題だ。たとえば、謝罪の終わりは「許される(赦される)」ということと深く結びついていると思われる。

しかし人は、決して許されなくとも謝り続けることもあれば、逆に、謝罪がなくとも許されることもある。謝罪と許しの関係を、私たちはどう考えればよいのだろうか。――こうした、より踏み込んだ問題の検討にはかなりの紙幅を要するから、これ以上は本稿とは別の機会に譲ることにしよう。

■謝罪とは「認識の表明」と「約束の実践」である

ともあれ、以上のことから、謝罪とはある種の認識の表明と約束の実践として、さしあたりは特徴づけることができそうだ。

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)
古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)

すなわち、(1)当該の出来事をいま自分がどういうものとして認識しているのかを表明し、(2)その認識の帰結として、自分がこれから何をするかを約束する(そしてそれを実行していく)、という一連の実践である。

そして、そうだとすれば、子どもに対して謝罪とは何かを教えることとは、たんに「ごめんなさい」と言わせることではなく、〈自分が何をしてしまったのか〉ということ、そして、〈それをしてしまった者として、自分がこれから何をするのか〉ということを、子どもが徐々にでも自分で表現できるように促し、また、大人もそれに応えることだと結論づけられるのではないだろうか。

本稿で確認したのは、謝罪は一方的な行為や儀式ではないということだ。他の多くの実践と同じく、謝罪もまた、多くの場合、言葉が織り込まれた対話の実践にほかならない。そして同様のことは、感謝や賞賛といった、もっと明るい実践についても当てはまるだろう。

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古田 徹也(ふるた・てつや)
東京大学大学院 人文社会系研究科 准教授
1979年生まれ、熊本県出身。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現職。専攻は、哲学・倫理学。著書『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)で第41回サントリー学芸賞受賞。そのほかの著書に『それは私がしたことなのか』(新曜社)、『不道徳的倫理学講義 人生にとって運とは何か』(ちくま新書)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 シリーズ世界の思想』(角川選書)、『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)などがある。

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(東京大学大学院 人文社会系研究科 准教授 古田 徹也)

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