1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「NHK大河ドラマではやはり描きづらい」20人の婚外子をもうけた渋沢栄一の”婦人ぐるい”

プレジデントオンライン / 2021年12月26日 9時15分

NHK大河ドラマ『青天を衝け』公式ウェブサイトより

NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一は、どんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「500もの企業、600もの事業の設立や育成に関わった大人物だった。ただ、妻以外の女性たちとの『婦人ぐるい』もかなりのものだった」という――。

■「美人のことを除けば少しもやましいことはない」

約500もの企業の設立や育成に関わり、大学や病院をはじめ600前後もの非営利事業にも携わったという渋沢栄一の業績は、教科書では案外軽く扱われている。

その偉業が広く理解されるうえで、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の力は大きかった。

渋沢こそ、日本の実業界を創成させ、牽引した英雄であり、自分でもその業績を振り返って「俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じることなし」(少しもやましいことがない)と公言していたという。

もっとも、いま引用した言葉には以下の留保がつけられていた。「明眸(めいぼう)皓歯(こうし)に関することを除いては」。「明眸皓歯」とは美人のことである。

英雄色を好むというが、その意味でも渋沢は英雄然としていた。

■吉原に20両をつぎ込んだ青年時代

記録にある最初の女遊びは、最初の妻千代との間に長女の歌子が生まれた文久3(1863)年のこと。父の市郎右衛門から100両をもらって、いとこの渋沢喜作とともに京都に旅立ったが、このとき初めて吉原に行っている。

渋沢自身、「たちまち24、5両の金がなくなってしまった」と、のちに語っている。

京都では討幕の志が転じて一橋家に仕官し、八面六臂の活躍でたちまち重用されるが、その力の源は吉原にあったのかもしれない。

栄一は京都から妻の千代に宛てて、「一度も婦人ぐるい等も致さず、全く国の事のみ心配いたし居り申候」と書き送ったが、後妻の兼子との間に生まれた渋沢秀雄も著書『父 渋沢栄一』に、「なるほど『婦人ぐるい』と『女遊び』はカテゴリーが違うようだ」と書いているから、おもしろい。

■大河で唯一描かれた女性問題

大河ドラマで唯一、栄一の女癖がハッキリと描かれていたのは、「大内くに」についてだ。ドラマでは、栄一は宮中女官の女中だったというこの女性と、大阪に出張した際に出会っていたが、出会いについてたしかなことはわかっていない。

ともかく、次女の琴子が生まれた明治3(1870)年ごろ栄一と関係をもった「くに」は、明治4年に「ふみ」、6年には「てる」と、2人の娘を産んでいる。しかも妻の千代の許しを得て、神田北神保町の屋敷で、妻妾同居の生活を始めてしまったのである。

渋沢栄一
渋沢栄一(国立国会図書館ウェブサイトより)

明治2(1869)年に大蔵省に出仕した栄一は、翌年に大蔵少丞、翌々年には大蔵大丞、その翌年の明治5年には、現在の事務次官に当たる少輔事務取扱にまで驚異の出世を遂げているが、そのエネルギッシュな猛進を支えていた裏には妻妾同居があった。

ちなみに、くにが産んだ娘は、「ふみ」は、妻の千代の実兄でもあった尾高惇忠(あつただ)の次男、尾高次郎に。「てる」は千代の姉の息子で、のちに日本の製紙王と呼ばれる大川平三郎に嫁がせている。

さらには、明治15(1882)年に千代を亡くした栄一が伊藤兼子と結婚すると、「くに」を官僚の織田完之(かんし)に嫁がせている。

栄一は広範な人脈を生かして、女遊びの「後始末」にも、常に抜かりがなかったのだ。

■会社の一大事に探すと妾宅にいる

明治6(1873)年に実業界に転身してからの栄一は、明治の花柳界でも五指に入るほど鳴らしたと伝わる。

実際、息子の秀雄(兼子との間に生まれた4男)も「そのころの栄一には、(中略)芸妓をキッパリことわったような殊勝さはなくなっていたらしい」と書く。「婦人ぐるい」も解禁になったということか。栄一は方々に妾を置くようになっていった。

明治中ごろ。栄一が社長で、明治の実業家、植村澄三郎が専務だった会社に事件が突発し、植村は急ぎ栄一に知らせて対策を講じたかったが、栄一は自宅におらず行方が知れない。

あれこれ探査したところ、日本橋浜町の妾宅にいることがわかり、植村はやむなくそこに向かった。そして来意を告げると、家の奥から生来大きな栄一の声が聞こえてきたというのだ。

「かようなところに、渋沢がおるべき道理はありません。御用がおありなら、明朝宅をおたずねになったらよろしいでしょうと申し上げなさい」

 栄一本人が「おるべき道理はない」と言うのを、植村はおかしく思ったという。

■各所に住む「一友人」の宅に頻繁に立ち寄る

渋沢秀雄はこんなことを書いている。

「私は父の明治四十二年の日記を見ていたところが、夜の宴会へ招かれたあとなどに、ときたま『帰宅一友人ヲ問ヒ、十一時半寄宿ス』と書いてあるので、思わず失笑したことがある。宴会帰りに『おい、きたぞ』と立ちよるような、打ちとけた友人を持っていなかった父の『一友人』は、二号さんなのである」(渋沢秀雄『父渋沢栄一』)

そして明治末年から大正初年ごろのことか。夜、秀雄と兄の正雄は、時々、兜町の事務所から帰宅する栄一の自動車に乗せてもらったそうだが、正雄が「ご陪乗願えましょうか」と打診して、「ああ」という返事のときはまっすぐ帰宅だが、「うん?」という曖昧な返事のときは、自動車が本郷四丁目の角を左に曲がる晩だったという。

本郷真砂町のあたりに「一友人」が住んでいたのだ。

■当時の学生から見た渋沢栄一像

本郷の妾といえば、大佛次郎著『激流 渋沢栄一の若き日』に、こんな逸話が書かれている。

大佛が本郷の第一高等学校の寄宿寮にいたころ、友人の一人が「渋沢栄一って、妾があるんだってな」と言ったそうだ。

だれかが「渋沢さんて、人格者なんだろう? 妾なんて持つかしら……」と問い返したが、「あすこに質屋があるだろう。あの少し先の横手の道を入ったところだってよ。渋沢は、人力車で、こっそり来るんだって」

「その家に赤ん坊がいて、渋沢の顔にそっくりだってよ」。

大佛たちは、待ち伏せして渋沢の顔を見てやろうと盛り上がる。結局、それは実行されなかったが、「伝え聞く渋沢栄一の円満な人格や、社会的な活動の模様はその当時の私たちの心を知らずしらず惹きつけて」、「尊敬の念さえ抱いて」いただけに、「なんとなく堪忍出来ないような気持が動いた」のだそうだ。

自ら「俯仰天地に愧じることなし」と公言していた渋沢の人格者ぶりは、学生に伝わっていても、美人に関しては除外されていることまで、学生は知らなかった。

ただ、大内くににしたように、女性たちにはいつもしかるべき行先を用意し、恨みを買わなかったことも、「人格者」という伝説につながったのだろう。

ちなみに大佛が一高生だったころ、栄一はすでに「後期高齢者」だった。

■「若気の至りでつい…」

佐野眞一『渋沢家三代』(文春新書)にはこんな逸話が記されている。

第一銀行頭取などを務めた長谷川重三郎が栄一の息子であることは、「関係者の間でよく知られ」、明治41(1908)年生まれの長谷川は、栄一が68歳のときの子になるという。それに触れられると、栄一は「『いや、お恥ずかしい。若気のいたりで、つい……』といって、禿げ頭をかいたという」。

昔からこの長谷川が、本郷真砂町の妾の子だと噂されてきたという。

■論語でなく聖書だったら「てんで守れなかった」

栄一の「一友人」は、秀雄によれば「芸者もいたし、家に使っている女中もいた。現に『一友人』の子は一高のとき私と同級になり、現在もなお半分他人のような、半分兄弟のような交際をつづけている」という。

明治25(1892)年、秀雄が生まれる4カ月ほど前に、辰雄という男児が生まれている。実業家の星野錫の養子になった辰雄が、秀雄がいう同級生と思われる。

夫の「婦人ぐるい」がここまで及べば、妻はさぞかし苦労が絶えなかったことだろう。兼子は晩年、子供たちによくこう話していたという。

「大人(たいじん)(栄一のこと)も論語とはうまいものを見つけなさったよ。あれが聖書だったら、てんで守れっこないものね」。

たしかに、聖書はモーゼの十戒に「汝、姦淫するなかれ」と書かれているが、論語は性道徳に関してほとんど触れていないのだ。

■古い時代の倫理感覚があったからこそ

「英雄色を好む」を地で行った栄一だが、その周囲にも色を好んだ男が多かった。伊藤博文の女遊びは栄一の比ではなかったと伝わるし、栄一が若い日々に仕え、生涯敬慕した徳川慶喜は10男11女をもうけ、ほとんどが側室から生まれている。

では、栄一は何人の子をもうけたのか。定かではないが、少なくとも20人程度はいたといわれる。(佐野真一『渋沢家三代』など)

大佛次郎は前掲書に、自身の一高時代の空気について、「古い時代の人間の倫理感覚が、性の問題には放縦なくらいにゆるやかで、明治の大官など、権妻(ごんさい)を持つのが公然のこととして許されて、それが現在も社会的な遺伝となって残っている」と書いている。

500もの企業、600もの事業の設立や育成に関わるには、尋常ならざるパワーが必要だった。栄一の場合、「一友人」との交流も原動力だったに違いない。

各分野から「大物が現れなくなった」といわれるようになって久しいが、良くも悪くも、「性の問題には放縦なくらいにゆるやか」な「倫理感覚」が失われたことと、無縁ではないだろう。

----------

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください