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「史上最高のモテ男」1000人と関係をもったカサノヴァが、元カノたちから愛されたワケ

プレジデントオンライン / 2022年1月12日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/danielkrol

数多くの女性と生涯を通じて浮名を流した、イタリアの作家・カサノヴァ。評論家の長山靖生氏は「カサノヴァほど幸福な人生はない」という。その知られざる生涯を紹介しよう――。

※本稿は、長山靖生『独身偉人伝』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■モテすぎて一人に絞り切れず、生涯独身

モテる男といえば、誰もが思い出すカサノヴァもドン・ファンも、実はどちらも生涯独身です。モテてモテて、一人に絞ることなどできないという、羨ましいというか、「体力あるなあ」的な人生がここにあります。

長山靖生『独身偉人伝』(新潮新書)
長山靖生『独身偉人伝』(新潮新書)

ただしドン・ファンは光源氏同様、実はフィクション上の存在。伝説によると貴族ドン・ファン(ドン・ジョヴァンニ)は騎士長の娘を誘惑し、咎めたその父を殺害。復讐を怖れて逃亡したものの、その後も悪さを続け、遂に娘の父の亡霊に捕らえられて地獄に引きずり込まれたとされています。

モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』、バイロンの叙事詩『ドン・ジュアン』、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』など、多くの作品に描かれているのは、それだけ人々の関心を引き付ける(心当たりがあるのか、魅了されるのか、羨ましいのか)物語なのでしょう。

一方、カサノヴァは実在の人物で、関係を持った女性は生涯に1000人を数えると言われています。もっとも、これは自伝『我が生涯の物語』(『カザノヴァ回想録』)に基づいた話なので、多少話を盛っている可能性はあります。しかしモテたのは事実で、多くの浮名を流しました。

■11歳にして教師の妹と……

実在する史上最高のモテ男カサノヴァは、どんな人物だったのでしょうか。

ジャコモ・カサノヴァ(1725~1798)はヴェネチア共和国に、俳優のガエタノ・ジョゼッペ・カサノヴァと女優ザネッタ・ファルッシの息子として生まれました。そういうことになっています。

けれども本当の父親は、二人が当時所属していたサン・サムエーレ劇場の所有者で貴族のミケーレ・グリマーニでした。

そのことは周知の事実で、法律上の父であるガエタノが生きていた頃から、ジャコモの養育費はグリマーニ家から出ており、彼は上流家庭の子息が入るパドヴァの寄宿学校で教育を受けました。

ジャコモは家族の愛情には恵まれなかったものの、学力優秀なために教師たちから愛され、腕っ節が強くて機知も豊かだったので友人たちからも一目置かれました。

これは持って生まれた頭脳や容姿の賜物というだけでなく、周囲の人々に愛されるよう努力した結果でもあったでしょう。学校には彼より頭が悪くても、家柄の良さや財力を自慢して威張っている者、さらにそれに阿(おもね)る級友や教師もいました。

ジャコモはそうした身分格差や世間の理不尽に憤るのではなく、巧みに利用し、周囲に気を配って、他人を楽しませながら、自分も高い評価を得るという処世術を、早々に身につけました。

それだけに謹厳実直な秀才ではなく、陰に隠れての悪戯というジャンルでも、人に先んじていました。11歳にして教師の妹に誘惑されたとか、誘惑したとか。ともかく自分も他人も楽しむのがカサノヴァの流儀です。

その後、カサノヴァはパドヴァ大学に進んで意外なことに倫理哲学を学び、化学、数学、さらに法学を修めて、なんと16歳にして法学博士号を取得しました。また薬学も学び、後年はいろいろと薬を調合して魔術師とも噂されました。精力剤はお得意だったでしょう。

■十代で聖職者から軍人、ヴァイオリニストへ

1739年、ヴェネチアに戻ったカサノヴァは教会に籍を置いて法律業務に携わります。一応は聖職身分ながら事務官のような立場で、世俗の楽しみを我慢する気はなかったようです。長身で身嗜(みだしな)みがよく、健康的な浅黒い肌をして、手入れの行き届いた長髪からは芳香が漂ったといわれる伊達男(だておとこ)ぶりで、たちまち評判になりました。

当時、ヴェネチアは共和国でしたが貴族階層が政治も文化も経済も動かしており、社交界が重要な権力の場でした。社交界は一つではなく、階層ごとに細かく分かれており、出入りできるメンバーは、不文律ながら厳然たる決まりがありました。

貴族の庶子とはいえ平民であるカサノヴァは、もともとのメンバーではありません。しかし彼を気に入った老評議員アルヴィーゼ・ガスパロ・マリピエロの手引きによってヴェネチア最上流の社交界に容れられ、そこでも人々を魅了していきます。

マリピエロは彼に極上の料理やワインを教え、社交界の作法やふるまいを伝授しました。老人はこの若者に、もはや自分には出来ない何かをさせたかったかのようです。

カサノヴァはたちまち、いくつもの浮名を流すようになります。教会にとどまっているのが窮屈になった彼は、軍人としての冒険と出世を夢見て、ヴェネチアの下級士官職を買いました。

そしてコンスタンティノポリスに赴任したものの軍務はあんがい退屈で、昇進の機会もなかなか巡ってこないように思われました。さっそく軍職を放り出したカサノヴァはヴェネチアに戻ると、父グリマーニが経営する劇場のヴァイオリニストになります。これらのことが20歳までの出来事というから驚きます。

■知力と腕力と大胆さ

日本では色男は腕力に乏しいイメージがありますが、カサノヴァは知力も腕力も備わった男であり、女性だけでなく冒険も愛しました。21歳の時、ふとした偶然で大貴族ブラガディーノ家の一員を救い、生涯のパトロンを得ています。

相変わらず華やかな女性関係を楽しんでいたカサノヴァは23歳の時、少女を強姦した嫌疑をかけられ(後に無罪)、ヴェネチアを離れるとパリ、ドレスデン、プラハ、ウィーンなどを遍歴、フリーメイソンに加盟していたともいわれます。

この噂のために、彼は教会権力から疑念を向けられる一方、特別な力を望む人々からは尊重されるという不思議な立場を手に入れます。知識、知性、創造力、話術、そして大胆な行動で人々を魅了した彼は、行く先々で浮名を流しました。

カサノヴァは1753年にヴェネチアに戻りましたが、2年後には娘とカサノヴァが恋仲になったことに激怒した大貴族の訴えで宗教裁判にかけられ、有罪となります。そして監視厳重なことで有名な「鉛の監獄」に収監されてしまいます。

しかし何とそこから脱獄し、パリに逃亡を果たしました。この監獄はカサノヴァ以外、誰も脱走したものはいないといわれ、彼の“名声”に一層の箔をつけることになりました。

以降、カサノヴァは騎士ド・サンガール、ファルッシ伯爵などいくつかの変名を使いながらヨーロッパ中を股にかけて暮らしました。

その生活は逃げ隠れするというには大胆不敵な活躍ぶりで、各国の宮廷に出入りし、教皇クレメンス一三世やロシアのエカチェリーナ二世、プロイセンのフリードリッヒ大王、フランス国王ルイ一五世の公妾ポンパドゥール夫人らの知遇を得ています。

山の尾根を駆け回る男性
写真=iStock.com/AscentXmedia
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AscentXmedia

■恋愛当初から心が通い合う関係を結ぶ

知識人との交流も多く、哲学者のヴォルテールやベンジャミン・フランクリンとも親交を持ちました。彼はヴォルテールとの対話で「人類を愛しなさい。しかし、あるがままの姿で愛しなさい」と述べています。

カサノヴァは「女性をたくさん楽しませた」と豪語しています。それは肉体的な快楽だけが目的ではありませんでした。彼が関係した女性たちの多くは、恋愛関係が終息したのちにも、深い友人としての好意を抱き続け、彼を助けてくれました。

カサノヴァは恋愛当初から心が通い合う関係を結んでいたのです。そう感じさせること自体が、一種の詐術だとしても。

それにしても彼は神出鬼没。1761年に七年戦争を収拾するために開かれたアウクスブルク会議には、カサノヴァはなぜかポルトガル使節団の一員として参加しています。また一説には、求められてモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の脚本(ロレンツォ・ダ・ポンテ作)に目を通し、筆を入れたともいわれます。

行く先々で派手な生活をしたカサノヴァにとって、パトロンの支援のほか、博打も大きな収入源でした。当然ながらいかさまをしていたのですが、その手際は見事で、巧みに騙す詐欺師というより、公正ではないと薄々気づいている相手をも魅了し感心させる一種の芸術家でした。

もっとも手品の御代にしては高いので、たまには野暮な相手が騒ぐこともありましたが、彼は長身壮健の偉丈夫で剣の名人。決闘となればむしろ望むところでした。

■老不死の薬や特別の媚薬などを求める者も

お尋ね者なので様々な偽名ではありましたが、逃げ隠れすることなく大貴族の邸宅や居城、各国の宮廷にも姿を現します。時に異国の貴族や騎士や魔術師というふれこみで。

その正体がカサノヴァであることは分かる人にはすぐ分かります。それでも彼の話術や博識や大胆さに魅了された人々は、後ろめたさというスパイスまで付いた非日常的体験を楽しみ、その対価のように恋や金品を提供しました。

彼の“魔術”に期待して、大金を積んで不老不死の薬や特別の媚薬などを求める者もいました。

被害を受けた大貴族や、教皇庁などいくつかの組織は、彼の違法行為や異端行為(魔術師としての噂など)を咎めて、追いかけまわします。

ただ、公的には彼を咎めている筈のヴェネチアの在外大使などは、カサノヴァの行為をけっこう愉快がっており、野暮な詮議は差し控えていた節も見られます。

そもそもカサノヴァが犯した「罪」というのが大したものではなく、娘を誘惑された大貴族が腹いせで捏造した書類によるものともいわれており、ヴェネチア政府自体が、表向きの追及と粋なお目こぼしを通してカサノヴァを泳がせておいた方が、自国の評判が高まる――そう計算していたものと察せられます。

■“旅する王権”の時代

カサノヴァの振舞いを見ていて、ふと思いだしたのは中世の“旅する王権”です。国家は国民が納める税によって運営され、国王の宮廷も当然ながら税収がなければ成り立ちません。

しかし中世ヨーロッパは交通事情も治安状態も悪く、また各地の大貴族が国王にも匹敵する領地と兵力を抱えており、近代のような厳格で効率的な徴税制度はありませんでした。

国王の領地は国内に分散しており、特に遠方の領地への権能は滞りがち。

そこで国王とその取り巻きたちを中心とした宮廷のほうが、遠方の領地に出かけていき、そこで生活し消費することで、実質的な税の取り立てとする方法がとられました。

道中、国王一行をもてなすことは、地方の領主貴族にとっては名誉であり、競うようにして豪華な宴会や舞台や狩りを提供し、貢物もしました。

これもまた封建領主からの実質的な収税です。とはいえ税金として事務的に収めるのに較べたら、献納する側も自尊心を満足させ、当人たちも王の傍らで一緒に楽しむという祝祭的な納税です。時に宮廷の旅は数年に及びました。

カサノヴァの派手な放浪は、そんな国王の旅の縮小模倣であり、彼の場合は権利としての徴税ではなく、祝祭の機会の提供、心身の悦楽を通しての、出す側も気持ちのいい提供でした。

カサノヴァが去ったのちも、彼を支援するパトロンは男女を問わずおり、送金や苦境の救済を工作しています。

■ケ・セラ・セラの信条を貫く

男にとっては「カサノヴァから手ほどきを受けた」「カサノヴァと共にちょっとした冒険をした」というのは自慢でした。女性にとってもカサノヴァに口説かれるのは不名誉ではありませんでした。何しろ人を見る目に定評のある男です。

そして意外にもカサノヴァは、一方的に援助を受けただけでなく、かつて関係した女性や出来た子供に対して、気まぐれな形ながら援助を与えたりもしました。それなりに情の深いところもあったのでしょう。

ただし子供に会いたいとか、将来を心配する風情は見られず、人はしょせん孤独なもの、自分は自分でどうにかするほかなくケ・セラ・セラの信条を貫きました。

彼はその時々を優雅に楽しく過ごすことを何より重んじました。行く先々で色事をしているので、そこここに彼の子供がいて、ある時は危なく自分の娘と知らずに関係しそうになったなどという話も『回想録』に出てきます。

こうしたカサノヴァの生き方は、軽薄で行き当たりばったりのように見えますが、それは私たちが合理的で効率主義的な考え方を身に付けた近代以降の人間だからなのかもしれません。

ロココ時代の貴族や知識人のありようを見ていると、効率的であるよりも幸福であることを優先する思考が見て取れます。現代的視点からは愚行に見えても、たしかに彼らは楽しそうです。

逆にカサノヴァは「あなたたちは何が楽しくてそのように分刻みの生活をしているのか」と問うかもしれません。私には「そうでないと生きていけないから」としか答えられません。不幸とは思いませんが、幸福かと問われたら「あなたほどでは」と言うよりほかにありません。

キッチンで歌って楽しむシニアカップル
写真=iStock.com/fizkes
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fizkes

■バロック的でロココ調な生き方

カサノヴァが生きていた頃、既に世は啓蒙主義時代に入っており、不合理で享楽的な社会から、理性的で合理的な思考を重んずる社会へと転換しつつありました。

カサノヴァの生き様は、ヴォルテールに代表される啓蒙主義に対する、果敢な抵抗だったといえるかもしれません。彼の饒舌は豊穣なレトリックに彩られた甘美な虚言であり、行動もまた奸計と誠実が奇妙に入り交じっていながら、どこか憎めないところがありました。

カサノヴァはフォンテーヌブローの宮殿でルイ一五世の公妾ポンパドゥール夫人とも知り合っています。ルイ一五世も多くの愛人を持った多淫の人でした。国王なだけに彼の浪費はカサノヴァの比ではなく、「自分が死んだ後には大洪水が来るだろう」と述べています。

日本語なら「後は野となれ山となれ」に相当する慣用表現で、自分の放蕩が国庫を痛めているとの自覚はあったのでしょう。それでも身を慎まないところがバロック的でありロココ調です。

ルイ一五世はヴォルテールの啓蒙主義思想を理解し高く評価していましたが、自身の生活に取り入れはしなかったのです。一七八九年のフランス革命は、バロックやロココといった不合理な祝祭的浪費の王権に、啓蒙主義の洗礼を受けた合理的市民層が挑んだ戦いといってもいいかもしれません。

とはいえ、そんなカサノヴァの魔力にも40歳頃からは陰(かげ)りが見え始めます。若さを失い、まだまだ色男とはいえ、もはやすべての女が彼に靡(なび)くというわけではない。『カザノヴァ回想録』は49歳で終わっていますが、後半はさすがに精彩を欠き、誘惑に失敗することも目立ちます。それどころか一時の快楽のために女に金を払うことすらありました。

さらに放蕩者を罰する病といわれた梅毒をもらってしまい、苦しむようにもなりました。それでも薬学の知識がある彼のこと、転んでもただでは起きません。

さまざまな治療法を編み出しては自分で試し、梅毒治療の専門家として、同病に苦しむ貴族や富裕層の人たちの信望を集めました。

■恋と冒険に彩られた豊かな人生

カサノヴァは政府から直接の指令を受けていたのかどうかは不明ながら、各地の景観(地形や産業)や政情、重要人物の観察や宮廷の噂話を手紙で祖国の知人に書き送っており、実質的にはヴェネチアの有能なスパイでもありました。その功を認められたのか、晩年は帰国を許されました。

ただ、それではカサノヴァは愛国者だったのかといえば、そうとも言えず、スパイ行為になるような外国情報の手紙は、ヴェネチアだけでなく他国へも送っていました。

ロシア宮廷での見聞をプロイセンに伝え、プロイセンの情勢をフランスに伝える。それらの通信は公的な文書ではなく、あくまで私信ですが、相手の大貴族や貴婦人が、政府高官や王の愛人であるからには、国家執政部に直達の通信でした。

能力が高かった割に、カサノヴァは「これは」という業績を残しませんでした。しかし恋と冒険に彩られた彼の人生は、誰より楽しく豊かなものだったでしょう。無論、それを楽しめるだけの才知があればこそでしたが。

伝記文学で知られるツヴァイクは、カサノヴァを図々しく一生を終わっただけでなく、しゃあしゃあと不滅の人物に仲間入りしてしまったと書く一方、男として最も羨ましい人生とも述べています。

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長山 靖生(ながやま・やすお)
評論家、アンソロジスト
1962年茨城県生まれ。鶴見大学大学院歯学研究科修了。歯科医の傍ら、近代文学、SF、ミステリー、映画、アニメなど幅広い領域を新たな視点で読み解く。日本SF大賞、日本推理作家協会賞、本格ミステリ大賞(いずれも評論・研究部門)を受賞。著書多数。

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(評論家、アンソロジスト 長山 靖生)

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