「イケメンは出世するが、ブサイクは就職もむずかしい」古代中国の露骨すぎるルックス主義
プレジデントオンライン / 2022年1月22日 11時15分
※本稿は、柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書)の一部を再構成したものです。
■大都会で生活する人びとの移動手段
道ゆく人びとのようすをみてみよう。戦国時代には、田舎の若者が大都市の邯鄲(かんたん)にいって都会風の歩き方をまのあたりにし、それを学びきらぬうちにほんらいの歩き方も忘れ、よつんばいで故郷に帰ったという笑い話がある(*1)。
どうやら都会の者と田舎の者とでは、歩き方さえも異なるらしい。さしずめパリコレ経験のあるモデルと、筆者の歩き方が異なるようなものであろうか。邯鄲は、秦漢時代にも屈指の大都市として知られるところであり、その大通りを颯爽(さっそう)と歩く者の情景がありありと目に浮かぶようである。
道ゆく人びとのなかには、徒歩の者もいれば、馬車や牛車に乗る者もいる。当時、馬車は最上級の乗り物であり、牛車はそれにつぐものであった(*2)。日本古代の貴族がもっぱら牛車に乗っているのとは異なり、馬車のほうがハイクラスであった。
皇帝はもちろんのこと、諸侯クラスはだいたい馬車に乗るが、前漢後期以降は諸侯が力を失い、牛車に乗る諸侯もあらわれる(*3)。馬車は二輪であることが多く(*4)、とくに高官の馬車は「朱輪(しゅりん)」とよばれ、その車輪は朱塗りであった。
一方、商人は差別的な扱いを受けており、たとえお金をもっていたとしても、馬車に乗ることは許されなかった(*5)。ただし、大商人はたいてい役人も兼ねており、役人に袖の下を渡していることも多く、うやむやのまま乗車することもあった。
政府の高官は法律上、高利貸しを営むことはできず、商人の子は官吏になれないはずであるが(*6)、じっさいには商人出身の官吏の例も少なくない。高貴な女性も乗車していることがある。
■イケメンとそうでない人との違い
徒歩の者をみてみよう。ここでは男性の顔をみる。遺伝学的に、1万年まえ~5000年まえの中国には、黄河中流域と長江中流域にそれぞれ別系統の集団がいたようであるが、秦漢時代にはすでに交雑がかなりすすんでいた(*7)。
春秋時代までは山東半島にヨーロッパ系に連なる人びとの痕跡もあるが、秦漢時代にはそれもなくなり、現代中国人に連なる人びとが圧倒的になってゆく(*8)。そのほとんどが平たい顔で、ごく一部に中央アジアからやってきた彫りの深い人がいる程度である。
男性の顔をのぞきこんでみると、イケメンとそうでない人がいる。当時の人にとってその境目はどこにあるのか。一般には、春秋時代の子都(しと)や、三国時代の何晏(かあん)、西晋時代の潘岳(はんがく)といった人がイケメンとして名を残している。
かれらはマッチョでなく、色黒でもない。むしろ透き通るような白い肌をもち、瞳を輝かせ、美しいヒゲをもった男子であった。伝説的美女の羅敷(らふ)も、みずからの夫を色白美男子(潔白皙(けっぱくせき))で、ふさふさのヒゲがあるとのべ、そのイケメンぶりを自慢している(*9)。
■イケメンの乗る馬車を取り囲む女性たち
かれらが大通りを歩くと、女性の黄色い悲鳴が聞こえる。女性は積極的で、イケメンの乗る馬車にフルーツを投げ入れたり、馬車をとりかこんだりする(*10)。既婚・未婚を問わず、人妻さえもイケメンに駆けよる。そのようすはイケメンのアイドルにむらがる現代の女性たちとなんら変わらない。
もちろん男性のほうが女性をナンパすることもある。イケメンのなかには、鏡をみながら、みずからの顔にうっとりするナルシストもいた(*11)。
一方、イケメンでない男性はいつの時代もあわれである。好みは人それぞれで、男からみたイケメンと、女からみたイケメンとでは異なることもあるが、当時ブサイクといえばツリ目、いかり肩、ふくろう鼻、曲がった鼻、出っ歯、顎なしなどの条件があてはまる(*12)。
またヨーロッパや中央アジアでよく目にするブロンドヘア(紅毛(こうもう))、青い目(碧眼(へきがん))、彫りの深い顔つきも、じつは肯定的に捉えられてはいない(*13)。ブサイクが美男子のマネをして街中を闊歩(かっぽ)しようものなら、女性陣から唾(つば)を吐きかけられる(*14)。
もちろん男性の性格も重要ではあるが、外見が悪くとも女性にモテるという実例はめったにない。そのめずらしい例が哀駘它(あいたいた)である。かれは春秋時代の衛国のブサイクであるが、かれと話をした男性は心惹(ひ)かれ、女性は両親に「どの人の妻になるよりも、あの方の妾(めかけ)でいたい」と頼む始末。
その理由は、かれが徳を深く湛(たた)えた人であったためらしい(*15)。
![男性の頭部](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/b/670/img_5b7dacb7f6e6fe7b15c46e0f55f8f852398314.jpg)
■吃音はキャリアに影響をおよぼすが、太っていても出世はできる
だが例外は例外であるからこそ、その記録が驚きとともに史料に残っているのである。ハゲや低身長、もしくは吃音(きつおん)や、身体のどこかに障害をもつ者は、さらに悲惨であった。
とくに吃音はキャリア形成に悪影響をおよぼすもので、その障害を乗り越えて名を成したのは韓非子(かんぴし)・曹叡(そうえい)・鄧艾(とうがい)・成公綏(せいこうすい)など、けっして多くはない。
一方、太っているために就職できなかった者の話はみえず、むしろ巨漢でも士人(しじん)として高い評価を得た者の例がある(*16)。とはいえ、あまりに重そうだと、からかいの対象くらいにはなったようである(*17)。
いずれにせよ、当時ふつうの家庭に体重計はなく、ウエストのサイズによって体重を表現していたので、人びとはおおよその体重しかわからなかったはずである。
身長も低くないほうがよい。秦漢時代には民を労役にかりだすとき、身長と年齢が基準とされるので、国家は民の身長を記録していた。平均身長を明記した記録はさすがに残されていないが、史書をひもとくと、成年男性はだいたい七尺(約161cm)と表現されている(*18)。
■古代中国でも高身長であることはステータスだった
また文献には、とくに高身長の者の記録が残っており、だいたい八尺(約184cm)以上の者は「姿貌甚偉(しぼうじんい)」「容貌絶異(ようぼうぜつい)」「容貌矜厳(ようぼうきんげん)」などとよばれ、巨躯(きょく)とされた。
『三国志』を例にとると、劉備が七尺五寸であるほかは、だいたい八尺以上の者のみが高身長の者として特記されている。「八尺の体躯(たいく)があっても病気にならぬ者はない(*19)」という慣用句があり、身長八尺は健康で丈夫なことのあかしであった。
一方、六尺(138cm)未満は労役に就かずともよく、むしろ一種の身体障害者とみなされていた。どれほど高位高官にのぼり、栄華をきわめようとも、戦国時代の孟嘗君(もうしょうくん)のように、身長が低いとバカにされた。
ゆえに、たとえば高身長の一家に生まれた馮勤(ふうきん)は、兄弟のなかで自分だけ身長七尺未満で、子孫が自分に似るのを恐れ、高身長の妻を娶った(*20)。かれは身長が代々似ることに気づいていたふしがある。
なお、当時の人びとの視力や聴力についてはよくわからない。ただ、視力にすぐれた離朱(りしゅ)や、聴力にすぐれた師曠(しこう)の伝説があるので、視力や聴力に個人差のあることは知られていたようである。
![2005年4月20日、中国湖北省、武漢の亀山にある三国時代の武将たちの石像](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/f/670/img_1f68b102e7722daab831f7019e38c7aa410763.jpg)
■役所の官吏はイケメンであることが採用条件にふくまれていた
ここで役所に近づいてみよう。前漢の首都長安であれば、役所群のそばに未央宮(びおうきゅう)があり、皇帝はそこで臣下と会議を重ねた。後漢時代には首都洛陽に朝堂(ちょうどう)という会議室があり、皇帝はそこで会議を開いた(*21)。
![柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/6/200/img_26866ffddd9d8347fe1633b78917ba5c207489.jpg)
漢初には、臣下は必要におうじて昇殿(しょうでん)したが、そののち、昇殿は5日に1回となり、皇帝に拝謁(はいえつ)するには事前予約が必要となった(*22)。高位の臣下といえども、おいそれと皇帝の尊顔(そんがん)を仰ぐことはできなくなった。庶民にとってはなおさら無縁である。
ここで、役所にあつまっている官吏の顔ぶれをみておこう。驚くべきことに、いわゆる顔面偏差値がかなり高い。それもそのはずで、漢代ではイケメンであることが官吏の採用条件にふくまれることがあった(*23)。
かの孔子でさえ、外見で人を判断したことがあり、のちに後悔しているほどであるから(*24)、イケメンが得(とく)なのは古今変わらぬ真理といえよう。なかには、身体に障害があり口唇裂(こうしんれつ)の男が君主に評価されたとの伝説や、醜い男性が外交官に任じられたとの説話もあるが(*25)、それらは現実的にほとんどありえないことだからこそ伝説化・説話化して、史書に特記されているのである。
■コネ社会ではあったが清潔感は保っておいたほうがいい
とくにきらびやかなのは、宮廷の護衛・侍従官(執金吾(しつきんご)や侍中郎(じちゅうろう))のたぐいである。かの光武帝(こうぶてい)も、若いころは執金吾になることを夢みている(*26)。
かりに15歳で小役人、20歳で中央官僚、30歳で侍中郎、40歳で城主ともなれば、女性から大モテである(*27)。当時はコネ社会ゆえ、有力者の子弟なら、外見を問わず、かなり上位にゆくこともできるが、清潔感は保っておいたほうがよい。
護衛官にはとうぜん武芸の心得もなくてはならないが、太平の世においては武功を立てる機会も少ない。そのため漢代には実戦のかわりに、投石(いしなげ)・抜拒(ひっこぬき)・格闘技(手搏(しゅはく))などの競技をおこなわせ、その腕前を昇進の条件とすることもあった(*28)。
(註)
(*1)『荘子』外篇秋水篇。
(*2)『史記』巻30平準書。
(*3)『漢書』巻38高五王伝論賛。
(*4)林俊雄「車の起源と発展」(『馬が語る古代東アジア世界史』汲古書院、2018年、3~38頁)。車馬にかんしては岡村秀典『東アジア古代の車社会史』(臨川書店、2021年、133~274頁)も参照。
(*5)『史記』巻30平準書、『漢書』巻24食貨志下。
(*6)張家山漢簡「二年律令」襍律(第184簡)、堀敏一『中国古代の身分制』(汲古書院、1987年、187~223頁)。
(*7)David Reich, Who We Are and How We Got Here: Ancient DNA and the New Science of the Human Past(Oxford: Oxford University Press, 2018), 1-368.
(*8)Li Wang et al., Genetic Structure of a 2500-Year-Old Human Population in China and Its Spatiotemporal Changes, Molecular Biology and Evolution 17-9 (September 2000),1396-1400.
(*9)『玉台新詠』巻1古楽府詩6首「日出東南隅行」。
(*10)『世説新語』容止篇。
(*11)『初学記』巻第19人部下美丈夫引臧榮緒『晋書』。
(*12)『後漢書』巻53周燮列伝、『後漢書』巻34梁統列伝付梁冀列伝、『呂氏春秋』巻第14遇合篇。
(*13)張競『美女とは何か 日中美人の文化史』(角川書店、2007年、9~28頁)。
(*14)『琱玉集』醜人篇引『晋抄』。
(*15)『荘子』内篇徳充符篇。
(*16)『九家晋書輯本』引臧榮緒『晋書』巻7王戎伝。
(*17)『琱玉集』肥人篇引王隠『晋書』。『太平御覧』巻378人事部19肥引『語林』にほぼ同文。
(*18)『列子』黄帝篇。
(*19)『三国志』巻48呉書三嗣主伝孫晧伝注引干宝『晋紀』。
(*20)『後漢書』巻26馮勤列伝。
(*21)渡辺信一郎『天空の玉座 中国古代帝国の朝政と儀礼』(柏書房、1996年、18~104頁)。
(*22)『三国志』巻13魏書王肅列伝。
(*23)『史記』巻112平津侯列伝、『東観漢記校注』巻14呉良伝、『漢官六種』所収衛宏『漢旧儀』。
(*24)『史記』巻55留侯世家太史公曰、『史記』巻67仲尼弟子列伝。
(*25)『荘子』内篇徳充符篇、『呂氏春秋』巻14孝行覧遇合篇。
(*26)『後漢書』巻10皇后紀上。
(*27)『玉台新詠』巻1古楽府。
(*28)『漢書』巻70甘延寿伝、顔師古注引孟康曰。
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早稲田大学文学学術院教授
1980年生まれ。東京都出身。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。2009年に博士(文学)学位取得。中国古代史・経済史・貨幣史に関する論文を多数発表。中国社会科学院歴史研究所訪問学者、早稲田大学文学学術院助教、日本秦漢史学会理事、帝京大学文学部専任講師、同准教授等を歴任し現職。2006年3月に小野梓記念学術賞、2016年3月に櫻井徳太郎賞大賞、2017年3月に冲永荘一学術文化奨励賞を受賞。著書に『中国古代貨幣経済史研究』、『中国古代の貨幣 お金をめぐる人びとと暮らし』などがある。
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(早稲田大学文学学術院教授 柿沼 陽平)
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