「江戸城は金ピカだったのか」近年の発掘調査で見えた"ある仮説"
プレジデントオンライン / 2022年1月21日 20時15分
※本稿は、齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■屏風に描かれた江戸の姿
江戸城の天守が焼失する以前、天守を含んだ江戸城と江戸の景観を描いた屏風がある。その一つが、「江戸天下祭図屏風」(図版1)である。六曲一双の屏風のなかで、祭礼の行列は右隻右端の麹町門(半蔵門)を通過し、紀伊徳川家邸北側を通過している。右隻の主題が中央の紀伊徳川邸だったのであろうか、その景観はひときわ立派に描かれている。
同時代とされる「江戸京都絵図屏風」(江戸東京博物館蔵)では、半蔵門より城内に入り、東に直進する道が記載される。この道は尾張邸と水戸邸の間を通る道で、西の丸の道灌堀の堀端でT字路となる。御三家(尾張・紀州・水戸)の屋敷は西の丸と向かい合って構えられており、屋敷と西の丸の間には大道通りと呼ばれる直線道路がある。堀端を北の丸に向けて進むと先の祭礼の道に合流する。
■ひときわ美しく賑やかな町として成長していた
とりわけ著名な屏風は「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)である。御三家を含む徳川一門の邸宅は優美に描かれ、江戸の華やかさの一翼を担っている。江戸城の周辺に屋敷を割り当てる際、徳川一門は優先して割り当てられ、徳川の本拠地である江戸を飾る装置として位置づけられた。日本橋方面を江戸の正面と考える現代の感覚からすると、いわば裏手とイメージされる吹上の位置に徳川一門は屋敷を有していた。日本橋を起点とする南北道を重視するのではなく、東西方向に江戸を貫く鎌倉大道の下道を重視して、徳川一門の屋敷が構えられていた。
江戸城の天守が建っていた頃、江戸の町は屏風に描かれるほど、ひときわ美しくかつ賑やかな町として成長していた。それにとどまることなく、江戸はさらに新しい町へと遷り変わっていった。その変化は決して急なものではなく、前代の遺産を引き継ぐように、徐々になされていった。東西道を意識して、城内の吹上に営まれた徳川一門の華やかな屋敷は、明暦の大火(1657年)の後になって、ようやく外へと移転していった。
■江戸の大名屋敷を金箔瓦が飾っていた
「江戸天下祭図屏風」をよく見てみよう(図版2)。右隻の中心には紀伊徳川家の屋敷が大きく描かれる。その屋根に注目すると、金色の点が直線状に塗られているのがわかる。軒丸瓦(のきまるがわら)の瓦当(がとう)に金箔(きんぱく)が押されている。いわゆる金箔瓦である。すべての屋敷が金箔瓦を葺いているわけではなく、江戸の大名屋敷を金箔瓦が飾っていた。この様子は「江戸図屏風」でも同じである。
金箔瓦は織田信長の安土(あづち)城が先駆とされ、豊臣期に各所の城館で用いられた。城館だけにとどまらず、豊臣家が拠点とした京都や大坂、そして伏見などの都市には金箔瓦で装われた大名屋敷が建てられていた。戦国時代から寛永期頃までは金銀の産出量が多かったことも背景にあり、都市の中では金で飾られた、豪華な建物がよく見られた。金装飾は権威の表出だった。
■江戸時代初頭の江戸は金で装われた都市だった
江戸城にも金箔瓦を葺いた建物があったのだろうか。存在したかもしれない。しかし江戸城中心部の発掘調査ではそのような確証をつかむに至っていない。とはいえ、城下の屋敷地に金箔瓦が葺かれていたことは発掘事例が語っている。道灌堀外側の大道通りの発掘調査によって、4分の1ほどの破片になった軒丸瓦には金箔があった。おそらくは明暦の大火以前の徳川御三家の屋敷に葺かれていた瓦であろう。また東京大学構内からも出土している。加賀前田邸の金箔瓦家(きんぱくがわらや)である。城下で金箔瓦が葺かれていたとすれば、江戸城内でも使用されていたと考えたい。
近年の発掘調査からは、江戸時代初頭の江戸は金で装われた都市であったことがうかがえる。新時代を迎え、将軍の居所として江戸はさらなる転換を迎えていく。
■時代の変化を示す「馬出から枡形門」への移行
徳川家康段階の江戸城本丸・西の丸に馬出(城の門の前面にある堀に囲まれた空間)があった。しかし、豊臣期という時代を象徴する施設である馬出は、「慶長江戸図」の段階以後に江戸城では消滅している。整備されたあとの江戸城の登城路で馬出は採用されていない。代わりに、次第に規格化された枡形門が採用され、城内各所に配置された。
徳川家が好んだ枡形門とは、高麗門(こうらいもん)と櫓門(やぐらもん)をセットにし、両者を城壁で連結させ、内部に平坦な四角空間をつくるという形式である(図版3)。ポイントは方形の区画の二辺に配置された櫓門と高麗門である。一般に枡形門は、ひと折れで方形を意識しつつ櫓門だけを構える形式が多いが、徳川家の枡形門は高麗門と櫓門の二つの門を連結している。この形式は江戸城だけでなく、大坂城・名古屋城など、徳川家が関係した城館を中心に広がっていった。
馬出が消え、枡形門という新しい形式の門が採用された。とかく門は家の顔として重要視され、城の設計と同じく、城主の権威を表す。門に独自の設計を採用するということは一つの表現である。また、豊臣期では馬出が権威の象徴であったものの、枡形門がこれに取って代わった。馬出から枡形門への移行は、時代の変化を如実に示しているであろう。
■権力者の交代を告げる石垣の変更
このように、城は権威を示す場であった。権力者の交代を告げるしるしは城内の随所で見られた。その多くは障壁画、金具など建物に関係するものである。そして外観の石垣もそうである。
家康の命令による慶長11年(1606)の普請のときの石垣は、伊豆半島付近の安山岩が使用されていた。石材の色調は灰色で白や黒の斑点模様があり、できあがった江戸城の石垣は全体として黒っぽい印象があった。そして組みあがった石材の形状じたい、一つ一つが整ったものではなく、実にさまざまな形を呈していた。
それが、石材にも変化が起きた。江戸城でも白御影石が使用されるようになったのである。ただし調達に問題を残したのか、大坂城や二条城のように白御影石は全面的にではなく、必要な場所だけに使用された。例えば、登城路の中雀門や中ノ門、算木積みの隅石、そして明暦の大火後に再建された天守台である。これらはいずれも目立つ場所であり、まさに権威を示す場所といってよい。それまでの不整形ではなく、白御影石の石垣は石材一つ一つが四角を意識して整形されている。
黒から白へ、不整形から整形へ、見た目の清浄感を生む石垣は、まさに征夷大将軍の権威をより高める装置と言える。時代は変わり、石垣も変わった。
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江戸東京博物館学芸員
1961年東京都生まれ。85年明治大学文学部史学地理学科卒業。89年明治大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程退学。2001年博士(史学)。1988年より東京都江戸東京博物館学芸員。組織改編をへて2010年より東京都歴史文化財団江戸東京博物館学芸員。専門は日本中世史・近世史・都市史。著書『中世東国の領域と城館』(吉川弘文館、2002年)、『戦国時代の終焉』(中公新書、2005年)、『中世武士の城』(吉川弘文館、2006年)、『中世を道から読む』(講談社現代新書、2010年)、『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)、『中世東国の信仰と城館』(高志書院、2021年)。編著『城館と中世史料 機能論の探求』(高志書院、2015年)。
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(江戸東京博物館学芸員 齋藤 慎一)
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