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「6年間、ずっと同じでないとダメ」イマドキの中高生を苦しめる"キャラ設定"という呪縛

プレジデントオンライン / 2022年1月28日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/taka4332

いまの子どもたちは、集団になるとそれぞれを定型的な「キャラクター」に置き換えることが多い。神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは「中高一貫校の場合、一番多感で変化する時期に、6年間も同じキャラを演じ続けないといけない。本人も親も教師も気づかないうちに子どもの成熟が邪魔されてしまう恐れがある」という――。

※本稿は、内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)の一部を再編集したものです。

■自分の居場所を保証する「キャラ設定」

いまの子どもたちは学校で集団の中に置かれると、まず「キャラ設定」をされます。いくつかの定型的なキャラクターがあって、それをあてがわれる。ジャイアンとかスネ夫とかのび太とかいうわかりやすい便宜的な「ラベル」を貼られる。仮に納得のゆかないラベルであっても、それを受け入れれば、とりあえず集団内部では自分の居場所が保証され、拒否すれば居場所がなくなる。

でも、このキャラ設定の怖いところは、一度それを受け入れると、もうそこから出られなくなるということです。この傾向は、時代が下るにつれて、しだいに強化されてきているような気がします。

3年くらい前に、ある大学新聞の記者という男子学生2人が取材に来たことがありました。教育に関して話を聞きたいということでした。話しているうちに「いまの学校教育がうまくゆかなくなった理由は何だと思いますか?」と質問されて、「一つは中高一貫教育ですね」と僕が答えました。特に男子の中高一貫教育がいけないって。

すると、2人ともちょっとびっくりした。2人とも男子中高一貫校の出身だったからです。「どうしてダメなんですか?」と訊くので、12歳から18歳まで一緒にいるというのは無理があると思うって答えました。

■中高一貫校の生徒の会話が猛スピードなワケ

その頃って、一番大きく変化する時期ですよね。でも、小学校を出たばかりの子どもが入学して、何となく同級生と顔見知りになって、グループができると、そこでキャラ設定されてしまう。

『坊っちゃん』には狸、赤シャツ、野だいこ、うらなり、山嵐、坊っちゃんと六類型が出てきますけれど、漱石の作家的想像力を以てしてもせいぜいそれくらいなんです。片手で数えられるくらいの定型しかない。その一つをラベルとして貼られる。そして、「あだ名」を付けられる。小学校を出たばかりですから、とりあえず仲間に入れてもらえるなら、自分らしくないキャラ設定をされても、誰も文句は言いません。

与えられたキャラを演じていると、それがだんだん身体になじんでくる。そうすると仲間うちでのやりとりが上手になる。僕はJR神戸線の住吉駅の近くに住んでいます。だから、灘中、灘高の生徒たちとよく駅で行き逢います。彼らの会話が耳に入る。もちろん何を話しているのか、中味まではわかりません。でも、わかることがある。それは受け答えが異常に速いということです。超高速コミュニケーションが展開している。卓球の世界選手権みたいなスピード感で言葉が行き交っている。

打てば響くという感じで。でも、そばでやりとりを聴いているうちに何となく僕は違和感を覚えてきた。言いよどむとか、言い直すとか、絶句するとか、質問を聞き返すとかいうことがほとんどないからです。ものすごい速度でパス回しをしているような感じです。でも、これを果たして「コミュニケーション」と呼んでよろしいのか。

路上で話す若者たち
写真=iStock.com/Ababsolutum
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ababsolutum

■期待されるリアクションをこなす会話は質が高いのか

この子たちは主観的にはたぶん「質の高いコミュニケーション」をしているつもりでいるんだと思います。でも、そういうことができるのは、参加者たちのキャラ設定があらかじめ決まっているからです。A君はこういうトピックについてはだいたいこういうコメントをする。それに対して、B君がツッコミを入れて、C君はそれをまぜっかえすと、D君が笑ってオチをつける……というふうにパスコースが決まっている。そういう下絵が書かれていないと、これほどのスピードは出せません。

でも、こういうやりとりが続いて、これしかコミュニケーションのスタイルが許されないとしたら、みんなずいぶんつらいだろうなと思ったんです。キャラが決まっていて、「こう振ったら、こう返す」ことが高い確率で予見できるからこそ、このスピードは確保されている。

ということは、期待されているリアクションと違うことを誰かがすると、そこでパスの流れが止まってしまう。たぶんそれはルール違反なんです。そういうことをすると「『らしくないこと』言うなよ」という否定的な査定が下される。

■「設定されたキャラから外れるな」という圧力

「らしくない」というのは、ある時期から日本社会で頻用されるようになった言葉です。それは「らしくしていろ」という遂行的な命令を同時に発令している。「設定されたキャラ通りの対応をしろ」「身の程を知れ」「身の丈から出るな」ということを子どもたちが互いに言い合っている。勝手にキャラを変えるな。1人がキャラを変えると、みんなが迷惑する、と。

たしかにそうなんです。記号体系の中では、一つの記号が決められた意味と違うふるまいをし始めると、記号体系全体に影響が出る。1人が変わると全部が変わる。だから「設定されたキャラから外れるな」という圧力が強まる。

■日々変化する思春期には必ず無理が出て来る

でも、思春期って、どんどん変化する時期です。それまでそんなものが自分の中にあると知らなかった、見知らぬ感情や思念が湧き上がってくる。攻撃性とか、邪悪さとか、歪んだ性的欲望とか、じゃんじゃん出て来る。

そういうものが12歳時点で設定されたキャラに収まるわけがない。でも、一度決められたキャラについては、マイナーチェンジしか許されない。おとなしい優等生キャラの子がボンクラ不良少年になるとか、「たいこもちキャラ」だった子が「へそまがりキャラ」に変わるとかいうような大がかりな仕様変更は許されない。

笑顔マークに隠れた不満な顔のマーク
写真=iStock.com/ThitareeSarmkasat
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ThitareeSarmkasat

そうすると、やっぱり無理が出て来るわけですよね。毎朝学校に行って、自分ではない役割を演じることが鬱陶しくなってくる。学校に行っても、そこにいるのは自分じゃない。たしかに自分の一部分ではあるのだけれども、それ以外の日々変化している部分は「キャラ認定」されない。

みんなが聴いていない音楽を聴いたり、みんなが読んでいない本を読んだり、みんなが観ていない映画を観たりした場合に、それを共通の話題にすることができない。そういう話題を振っても「らしくない」と却下されるリスクが高い。

■「にわかファンは黙っていろ」はおかしい

「にわか」という言葉が最近よく使われますね。これまで興味を持ったことのない領域のことに興味を持つようになって、それについて自分なりの感想を述べたりすると、「古手」の人たちから「昨日今日この世界を知った人間がわかったようなことを言うんじゃない」と語ることを抑圧される。

前に日本でラグビーのW杯があった時に、それまでラグビーなんか観たこともなかった人たちがテレビで試合を観るようになって、ファインプレーや戦術について語ったりするようになりました。すると、前からのラグビー・ファンの中にはそれを喜ばない人がいた。むしろ「にわかファンは黙ってろ」というような抑圧的な態度をとった。これはおかしいと僕は思った。ラグビー・ファンだったら、1人でも多くの人がラグビーに興味を持って、ラグビーについて語るようになる状況を歓迎するはずです。でも、そうなっていない。

同じことが思春期コミュニケーションでも起きているような気がします。「らしくないこと」を口にすると、一斉に「黙れ」という圧力がかかる。昨日今日思いついたようなことは「にわか」なんだから口にする資格はない、と。

だから、自分自身が新しい体験をして、新しいアイディアや、新しい感覚を獲得しても、それを仲間たちと共有することができない。それは思春期の少年少女にとっては、すごくつらいことだと思うんです。人間にとって、より複雑な生き物になることは自然過程なんですから。

■中高一貫校は効率がよいが、複雑化への禁圧がある

たしかに中高一貫校は受験勉強する上では非常に効率がよい。これは間違いないです。だから、どんどん増えるし、親たちもそういうところに行かせたがる。でも、12歳の時に設定したキャラクターを途中で大幅に変更することが許されない。それが複雑化することに対する制度的な禁圧として働いてしまう。

だから、中高一貫校だと、高校の途中ぐらいで壊れてくる子が出て来るんじゃないか。その学生新聞の取材の時に、僕はそう言ったんです。そしたら、取材に来た2人の学生のうちの1人が顔面蒼白になって、「僕がそうでした」って言い出した。

彼は自分に振られたキャラに耐えられなくなって、高2の時に1年間休学してアメリカに行って、1年遅れて、同級生が卒業した後の学校に戻ってきて卒業したそうです。自分のことを知っている人がいないクラスでひとりでいる方が、仲間に囲まれて決められたキャラを演じ続けることよりましだったんでしょうね。

■教師によるキャラ設定は呪縛になるかもしれない

東大はいまではもう半数ぐらいが中高一貫校の出身だと聞きます。もし東大生が幼児化しているとしたら、それはいくぶんかは中等教育の制度上の問題だと思います。人間は日々複雑化してゆくものであり、複雑化して昨日とは違う人間になることは、端的に「よいこと」であるということがいまの中等教育では常識になってない。「変わっていいんだよ」ということがアナウンスされていない。

それどころか、教師自身が、生徒をあだ名で呼んだり、あるいは「お前は、ほんとにそそっかしいなあ」とか言って、キャラ設定に加担することさえある。教師からすれば、生徒をあだ名で呼んだり、際立ったキャラを確認したりすることは、承認を与えているということであって、主観的には愛情の表現であったりするのかも知れません。

教室で授業をする日本の教師
写真=iStock.com/xavierarnau
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/xavierarnau

でも、気をつけて欲しいのは、そういう言葉は呪縛として機能することもあるということです。「お前はほんとうに要領がいいな」とか「お前はほんとうにそそっかしいな」とか言う時、教師はただ論評をしているつもりかも知れません。

■誰も気づかないうちに複雑化にブレーキがかかる

確かに「要領がいい」と言われたらその通りだし、「そそっかしい」と言われたらその通りですから、子どもも反論できない。でも、子どもは変わるんですよ。要領のよかったはずの子が、要領が悪くなることもあるし、そそっかしかった子が思慮深くなったりすることもある。でも、その決めつけの言葉があると、周りは設定されたキャラのように扱うし、自分でも無意識のうちにそれに迎合するようにふるまう。

そうやって複雑化にブレーキがかかる。自然な変化が阻害される。でも、そういうことが起きているということに、誰も気がつかない。本人も気づかないし、親も教師も友だちも気づかない。

人生で最も多感な中高の6年間に設定されたキャラを演じ続けなければいけないというのは、ほんとうに成熟にとってよくないことだと思うんです。その時期の基本的な心もちは「迷い」だからです。自分が何を思っているのか、何を感じているのかを、クリアーカットな言葉で表現できない。400字以内で自分の意見を述べよと言われても、自分がどんな意見を持っているのかさえはっきりしない。

だから、「自分が何を考えているのかよくわかりません」という回答を許してあげなければいけないと思うんです。むしろ、その方が「よいこと」なんだって。「曰く言い難い」心象がわだかまっていて、その全体はとてもきちんと言語化できないけれど、その断片についてなら、近似的に表現できるというのなら、それで十分じゃないですか。

■脱皮して変化することは不利益にならない

その時期の子どもたちは変化する途中、昆虫なら脱皮してゆく途中にいるわけです。脱皮してゆく途中って、かなり中途半端な生き物です。幼児であるような、すでに青年でもあるような、中途半端な生き物になっている。そういう時に、「自分らしく生きろ」と言って、単一の、すっきりしたキャラクターを演じることを強要するのはずいぶん残酷なことだと思うんです。いいじゃないですか、あるがままで。

内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)
内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)

だって、放っておけば、必ず変化するわけですから。カニが殻を破るように、脱皮した瞬間って、ふにゃふにゃなんです。身を護る殻が一時的になくなるんですから、すごく傷つきやすい状態にいる。わずかな刺激で傷ついて、血が流れる。だから、子どもたちにとって連続的に脱皮をするというのは、ものすごくリスキーなことなんです。

そのためには周囲の支援が必要なんです。殻を脱いで、剥き出しの裸になっている時に、「決して傷つけない」という保証をしてあげないといけない。「あなたがいくら無防備状態になった時でも、誰もあなたを傷つけない」という保証をして、「脱皮して変化することはあなたにとって不利益にならない」ということを納得させる必要がある。

■教員が日本社会の常識に異議を唱える

アメリカでは刑事事件で犯人を逮捕した時にまっさきに「あなたには黙秘権がある。あなたの供述は法廷であなたに不利な証拠として用いられることがある」というミランダ条項を読み上げますけれど、それと同じです。子どもたちに向かって教師が告げるべき最初の言葉は「あなたには成熟し、複雑化する権利がある。あなたが自分の殻を破って、傷つきやすい状態になった時にも私はあなたを傷つけないし、あなたを傷つけようとするものからあなたを守るために最善を尽くす」であると僕は思います。

だから、全国の教員の方たちが一致団結して、子どもたちがより複雑なものに成長してゆくプロセスを支援しようということについて意思一致して頂きたいわけです。これは結構大変なことなんですよね。だって、いままで日本社会で常識とされていることに対して異議を唱えるわけですから。例えば、「話を簡単にしよう」という人に対して、「いや、ちょっと待ってください。話を簡単にするのはちょっとご勘弁して頂きたい。それよりは、話をもう少し複雑にしてよろしいでしょうか?」と切り返すわけですからね。

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内田 樹(うちだ・たつる)
神戸女学院大学名誉教授
1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。著書に『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)『日本辺境論』(新潮新書)、街場シリーズなど多数。

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(神戸女学院大学名誉教授 内田 樹)

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