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「NHK大河ドラマでは描きづらい」激情の人・北条政子が源頼朝に迫った"とんでもない要求"

プレジデントオンライン / 2022年1月23日 18時15分

2021年1月14日、第32回ジュエリーベストドレッサー賞の表彰式に登壇した女優の小池栄子さん(東京都江東区の東京ビッグサイト) - 写真=時事通信フォト

北条義時の姉・北条政子とは、どんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「夫である源頼朝の不貞に激怒し不倫相手を殺そうとした激情の人だが、頼朝や息子が相次いで亡くなっても政治の表舞台に立ち続ける胆力をもっていた。『尼将軍』と呼ばれるのもうなずける」という――。

■頼朝と政子の結婚で日本史は大きく変わった

今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公は、鎌倉時代前期の武将・北条義時(演者は小栗旬)だが、義時の姉・北条政子にも注目が集まっている。

政子を演じるのは、女優の小池栄子さん。その小池さん演じる政子と、後に夫となる源頼朝(大泉洋)とのコミカルなやり取りや存在感が話題となり、初回放送時には「小池栄子」がツイッターのトレンドに入るほどだった。今後、波瀾(はらん)万丈の生涯を歩む政子を小池さんがどのように演じていくのか、私はとても楽しみにしている。

北条政子は、北条時政の娘として生まれた。政子は源頼朝と結ばれなければ、伊豆国の小豪族の娘として一生を終えた可能性が高い。また、北条氏も、執権として権勢を振るうことはなかっただろう。そう考えていくと、政子の結婚こそ、北条氏の運命を変えた、いや日本史を変えたといっていい。

■妹の見た吉夢を買い取る

鎌倉時代の軍記物『曾我物語』には、時政には娘が3人いたとある。その中の長女が政子で、同書によると美人と評判であったという。

政子には母が違う妹が2人いたが、その次妹がある日、変わった夢をみた。

「高き峰に上り、月日を左右の袂に収め、橘が三つ生る枝をかざす」というものであった。

この不思議な夢のことを、妹は姉(当時、21歳)の政子に話す。

すると政子は「おめでたい夢ですよ。我らの先祖は、今まで、観音菩薩を崇めてきたので、お月日を左右の袂に収めたのでしょう」と語った。橘は招福のシンボルであるし、月と日(太陽)を袂に収めるとは、天下を手中に収めることや、栄華を極めるとの意味合いであろう。

しかし、『曾我物語』に記されている、その後の政子の行動は、現代人から見れば、信じがたいものである。妹の見た夢を買い取ろうとしたのだ。

まず「この夢は、恐ろしい夢。よい夢は、3年は語らないものです」と妹を不安にさせる。そして、「夢を売り買いすれば、難を逃れることができます」ともちかけ、本当は妹が見ためでたい夢を妹からだまして買ったのだ。その代わりに妹には、北条家に伝わる鏡が与えられたという。

少し前までは、めでたい夢といっていたのに。その舌の根の乾かぬうちに方便を編み出し、目的を達する。政子、したたかな女性である。

■監視役の目を盗み、その娘と交際

同時期、伊豆の流人・源頼朝は、悲しみの底に沈んでいた。

平治元年(1159年)の平治の乱に敗れ、伊豆に配流されていた頼朝は、監視役である伊東祐親の目を盗み、その娘と交際して子までなしていた。

京都滞在中にその一件を知った祐親は激怒。頼朝と娘を強引に別れさせたばかりか、その二人の間にできた子を殺したのだ。

危うく自身も殺されそうになった頼朝は伊東のもとを逃れ、北条家にかくまわれることとなる。おそらく、そこで北条時政の娘たちと出会った。

鎌倉にある源頼朝像
写真=iStock.com/joymsk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/joymsk

■懲りない男・頼朝はまたも女性に接近し…

しかし、頼朝は、いつまでも悲しみに暮れているのもいけないと思ったのか、頼朝は北条家の19歳になる次女に手紙を送ろうとした。(時政の娘は3人いたが、なぜ19歳の次女と接点を持とうとしたかは分からない。17歳の三女では若すぎるとでも思ったのだろうか)

だが、頼朝のそば近く仕える安達盛長が「次女には悪女の噂がある。長女の方が良い」として、宛名を勝手に政子の方にして手紙を送ったのだ。『曾我物語』によると、これが機縁となり、頼朝と政子は出会い恋愛関係に発展したという。

京都にのぼっていた政子の父・時政は、京都から伊豆に下向途中に、このことを聞き、大いに驚いたとされる。

それにしても、頼朝は女性の父が留守の間に、その女性に手を出すということを繰り返している。伊東祐親の娘の時もそうであった。それで痛い目に遭っているのに、懲りないといえば懲りない男である。

■親が決めた結婚相手のもとを去る政子

源氏の御曹司を婿に取るのも悪くないかと思う時政だが、同行していた伊豆国の目代(代官)である山木兼隆(平家方)に「あなたを、この時政の婿にしよう」と話したばかりであった。

政子を頼朝に嫁がせてしまっては「源氏の流人を婿にした」と兼隆から平家に訴えられないとも限らない。そう考えた時政は、伊豆に着くと、政子と頼朝を無理やり引き離し、政子を山木に嫁がせてしまったのである。

ところが、政子は一夜もたたぬ間に、山木の家を抜け出して頼朝のもとに走ったのだ。まるで恋愛ドラマの一幕を見ているようだが、これに似た話は、『曾我物語』だけでなく、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも掲載されている。

『吾妻鏡』によると、頼朝と恋愛関係となった政子は、父・時政に一室に閉じ込められる。しかし、それでも、頼朝を恋しいと思う政子は、部屋を抜け出し、激しい雨が降る闇夜の中を頼朝のもとに走ったというのだ。(文治二年=一一八六年四月七日条)

■夫の不倫相手を殺そうとする

これらの話も、どこまでが本当かという話もあるが、『吾妻鏡』に載る他の政子の逸話を見れば、事実だったのではと思えてくる。同書に載る有名な「亀の前事件」(1182年11月)を挙げよう。

その頃、頼朝は亀の前という女性を、伏見広綱の邸に住まわせ、不倫をしていた。ところが、その不倫が、牧の方(北条時政の後妻、政子の継母)の告げ口により、政子の耳に入る。

怒った政子は、牧宗親(牧の方の父)に命じて、亀の前が住む広綱の邸を破壊させた。単に邸を破壊しただけでなく、亀の前を殺そうとしたという説もある(広綱と亀の前は落命せず、無事に脱出)

「亀の前事件」の紹介はここで終わっていることが多いが、その後の展開話も、政子の性格をうかがう上で重要である。

亀の前を頼朝の指示で住まわせていた伏見広綱は、政子の怒りを買い、遠江国に配流となったのであった。事件以後も、頼朝は亀の前の所に宿泊するなど浮気を繰り返していたので、政子の怒りは収まらなかったのだろう。広綱としては、とんだとばっちりである。

■頼朝の言いつけを守っただけなのに…

広綱のように、“とばっちり”をくらう例は他にもあった。

政子の娘・大姫は、人質として鎌倉にいた木曽義仲の嫡男・義高と恋仲だった。頼朝と義仲の関係が冷却化し、義仲が敗死すると、頼朝は義高の殺害を実行。

家臣を派遣して、姿をくらました義高を斬るのであった。実行したのは堀親家の郎党という。

大姫は悲嘆のあまり、病床に就くようになる。政子は「堀親家の郎従が悪いのだ。頼朝様の言いつけを守るといいつつも、内緒で義高殿の様子を姫に伝えて、うまく事を運べば良かったものを」と怒る。

そして、親家の郎党郎従を打首にすることを頼朝に強く迫ったのである。頼朝も政子の言葉にうなずくしかなく、その郎従は打首にされた。

郎党郎従としては、主命により義高殺害を実行したのに、それを後で「けしからん」ととがめられるとは、ひどいとばっちりである。

政子の言動を、わが子を思う母の想いと取れないこともないが、自らの意志を貫けない頼朝も「武家の棟梁」としては情けない。これでは、配流や殺害された部下がかわいそうである。

■的確なアドバイスで幕府軍を勝利に導く

『曾我物語』や『吾妻鏡』の逸話から見えてくる政子の性格は、したたかで、嫉妬深く、直情径行といったところであろうか。あまり良い性格とはいえないが、こうした性格の人は、ピンチのときに動じないところがあるし、機転が利く。

承久の乱(1221年)勃発の時、弟・北条義時は迷っていた。

『吾妻鏡』(承久三年五月十九日条)によれば、有力武士の会議で「関東にとどまって朝廷軍を迎え討つか、京都にまで出撃していくべき」との2案が出た。

関東にとどまるべきとの意見が優勢だったようだが、義時はどちらにするか、逡巡していたのだろう。

彼は2案を携えて政子のもとに行き、意見を尋ねる。すると、政子は「上洛しなければ、官軍を討つことは難しい。速やかに出撃すべし」と的確なアドバイスをしたのだ。その助言どおりに動いた義時は朝廷軍を撃破し、幕府を安泰のものとした。

建仁3年(1203年)9月には、2代将軍・源頼家(政子の子)と比企能員の北条時政追討の密談を障子の影から立ち聞きし、すぐに父・時政に知らせるように手配したという逸話がある。これも政子の先見の明や物事に動じない性格を示すものであろう。

北条政子のものと伝えられている墓
鎌倉市寿福寺にある北条政子のものと伝えられている墓(写真=Kamakura/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)

■「尼将軍」の名もうなずける胆力

やはり、政子という女性の生涯は波瀾万丈である。

夫・頼朝は平家に対し挙兵するという大博打に出て、事は成就したものの、幕府を創設して間もなく亡くなる。

息子・頼家は将軍となるが、程なくして北条氏と対立し、政界を追われた末に殺害される(頼家の殺害にも北条氏が絡んでいたといわれる)。次男で3代将軍頼家の弟・実朝も甥の公暁によって殺されてしまう。

普通の女性なら、悲嘆に暮れて隠遁生活を送ってもおかしくない。だが、政子は政治の表舞台に立ち続けた。これは、政子が並の胆力の持ち主でないことを示していよう。「尼将軍」という称号もうなずける。残された数々の逸話からは、政子の恐ろしく、すさまじい女性の情念を感じることができる。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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