「ドラマのように綺麗じゃない」人工肛門になった夫を7年7カ月介護した妻が漏らした本音
プレジデントオンライン / 2022年1月22日 11時15分
■「何とかご主人を言いくるめて、連れてきなさい」
始まりはトイレの便器に、血のような色が残っていることに気づいたことだという。
「主人に聞いてみると、『痔』だと言うんです。健康そのもので生きてきた人だから、病気を疑わなかったみたい」と、妻。
夫の市川さんは、「俺は健康だ」の一点張りで、会社を定年退職してから健康診断も受けていなかったという。だが妻は実兄を大腸がんで亡くしており、引っかかるものがあったようだ。自宅近くのかかりつけ医に相談すると、「何とかご主人を言いくるめて、ここに連れてきなさい」と言われた。
「健康診断を受けたいんだけど、心細いから一緒についてきてほしい」
妻はそう頼み、かかりつけ医のいる診療所に夫を連れていくことに成功した。
「市川さん、旦那さんも来たのか。ちょうどいい。旦那さんも検査しましょう」
医師や看護師が夫を取り囲んだ。「俺はなんでもないから大丈夫ですよ」と夫は抵抗したが、「まあまあ」となだめられて、あっという間にさまざまな検査が進められる。
■大腸がんで逝った実兄のレントゲン写真を思い出した
夫が検査を受けている間、妻は外の待合室にいた。
しばらくして呼ばれ、妻が診察室に入ると、テレビのような画面に大腸の写真がいくつも張り出されていたという。そこには点々と白い影が映っていた。妻は、大腸がんで逝った実兄のレントゲン写真を思い出し、息を飲んだ。
医師が夫に向かってこう言った。
「市川さん、これは大腸がん。即手術しないとダメだ」
夫はびっくりして、すぐさま言葉が出ない。
「いや、今日は女房の付き添いで来て……」
そう言うのがやっとだった。
「ついでに来て病気が見つかってよかったじゃない。命は一つしかないんだから。A病院とB病院、C病院の中でどこがいいかな。すぐに紹介しましょう」
つとめて冷静な口調で医師は説明する。
「……1日か2日、考えてさせてください」
夫が言うと、医師は首を横に振る。そばにいた妻が「先生、A病院でお願いします」と申し出た。自宅から一番近かったからだ。医師はその場で受話器をとり、A病院に連絡し、2日後に受診の予約をとった。
■すぐに入院し、大腸がんの切除手術を受けることに
「先生、(がんの診断は)間違いではないんでしょうか」
夫がなおもそうたずねる。
「間違いなら間違いでいいですから、とにかく2日後に大学病院(A病院)に行ってくださいね」
診療所からの帰り道、動揺を隠せない夫は「ヤブ医者だ」とぶつぶつ言っていたという。
「2日後の受診日の朝も『俺は大丈夫だから行かない』って駄々をこねて。私は『先生が紹介してくださったのに、ご迷惑をかけてしまう』と言いました。それでも動かないので、娘が『なんでもないなら、それはそれでいいじゃない。とにかく行ってきなよ』と説得してくれました」(妻)
実は市川さんは50代で前妻を亡くし、60歳の定年間近に現在の妻と再婚した。市川さん、再婚した妻、前妻との娘の3人暮らしだ。
紹介を受けたA病院を受診したが大腸がんの診断は変わらず、夫はすぐに入院し、がんの切除手術を受けた。
■どんなに食べても、だんだんと痩せていった
「手術後、医師から切除した大腸を見せてもらいました。がん細胞が点々とありました。お医者さんからは『本人は元気そうに見えるけど、相当進んでいますよ』と説明がありました。でも主人は本当に元気だったんです。1カ月くらい入院すると、『家に帰る』と言い始め、お医者さんも『大手術をして、これほど元気な患者さんははじめて』と驚くくらいの回復でした」
しかし自宅に戻ったものの、夫は手術で「人工肛門」になってしまったため、そのケア(ストーマケアという)に苦しんだ。人工肛門は、腹部に造られた人工肛門部に袋(パウチ)を貼り、そこに自然と便がたまっていく仕組みだが、パウチがずれたり、うまく取り換えられないと、水滴(便)が流れ出てしまう。人工肛門には肛門括約筋がないため、排ガスや排便を自分でコントロールできない。
「パウチが1枚1100円くらいするのですが、最初の頃はそれがうまく貼れなくて、何度も貼り直して……。人工肛門にパウチの中央を合わせて、周りの皮膚にしっかり密着させないとダメで、1ミリでもズレるともれてしまう。しかも主人がすっごく食べる。そして食べているとパウチがどんどん膨らんでいく。交換のタイミングが難しくて、いつもパウチを見ていたような感じでした。専門職の方に家まで来てもらって指導してもらったり、主人も時々病院で教えてもらったりして、だんだん覚えていきました」
夫は自宅で過ごしながら、抗がん剤治療のため病院に通う日々が続いた。しかし副反応らしいことは全くなく、誰が見ても「この人が病人?」と驚かれるほど元気だったという。
「食欲も衰えなかったですし、抗がん剤治療も苦しまなかったから最後まで続けられました。ただ、どんなに食べてもだんだんと痩せてはいきましたね」
■夫は「家に帰りたい」とはっきり訴えるようになった
7年7カ月の闘病生活——その間にA病院に緊急入院したことが5回あった。最後の入院は、亡くなる前年、2019年11月のこと。
突然夫に高熱が出たのだ。妻が慌てて担当医に電話して状況を説明すると、「病院まで連れてきてもらえないか」と言われた。タクシーでA病院に向かう。夫の血圧が低下し、危険な状態で即入院。だが本人は入院の部屋に連れていかれながらも、「うちに帰りたい。帰る。大丈夫」とうわごとのように繰り返していたという。
1カ月程度の入院で状態が落ち着くと、夫は再び「家に帰りたい」とはっきり訴えるようになった。
11月の終わり、妻がお見舞いにいくと、夫の部屋に医師や婦長をはじめ看護師が10人近く勢揃いしていたという。そして、
「もう最後かもしれませんから、おうちで看取ったらどうでしょうか」
と提案されたのだった。夫も、「俺も死ぬなら家で死にたい」という。しかし妻は「自信がありません。できません」と答えた。
■「これまでの介護で精神的にも肉体的にも限界なんです」
すると、娘が「かわいそうじゃない。こんなに家に帰りたいと言っているのに」と、妻に向かって言った。妻も負けずに言い返す。
「それならあなたは、仕事を休めるの? いつも出張になると10日から数カ月も留守にするのに……。仕事を休んで一緒に介護をしてくれるなら家に連れて帰ってもいいわよ」
「仕事は休めない。出張もやめることはできない。それなら私がデイサービスで預かってくれる施設を探します。私がいない間はパパをそこに預ければいいんでしょ」
「病人をそんなに簡単に動かせるわけがないでしょう。それに、いくら人を使っても無理よ」
終わらない言い争いに、担当医が「奥さん、隣の部屋で話しましょう」と割って入った。場所を移動して妻と二人きりになると、担当医がこう言った。
「ご主人は今までよくがんばってきました。ですが、さまざまな検査から判断し、もう生存できる可能性はありません。ご本人は『家に帰りたい』と泣きながら私に言いました。どうかお正月を家で迎えさせてあげてくれませんか。もうお正月までさえ、もつかわからない状態ですが……」
妻も譲れない。「でも先生、私もこれまでの介護で精神的にも肉体的にも限界なんです」と訴える。
「腰も痛い背中も痛い、夜中に主人に何度も呼ばれるから睡眠不足。娘は仕事優先で手伝ってくれません。主人のことはもちろん大切ですが、私が倒れたらアウトなんです。もう無理です。何と言われようと無理なんです」
■結婚して24年、夫からはじめて言われた「ありがとう」
しかし担当医は繰り返し説得を続けた。しばらくして看護師も部屋に入ってきて「大変なのはわかります。けれども奥さんならできるわよ。連れて帰ってあげてよ」と頼まれた。
ついに妻が根負けする。
「わかりました。引き取ります」
その瞬間、部屋にいた全員が拍手をしたという。職員は夫に近づき、「旦那さん、良かったわね。家に帰れるわよ」と報告した。その時だった。夫が妻に向かって「ありがとうね」と言ったのだ。結婚して24年、夫からはじめて言われた「ありがとう」だった。
「封建的な人ですから、便まみれのストーマを交換しても『悪いな』とは言っても、『ありがとう』や『ごめんね』は言いません。その時はよほどうれしかったのでしょう。『ありがとうね』と言われて、私は『しょうがないわね』と答えました」(妻)
■安らげる時間も場所もなく、ただただ疲れる日
2日後の12月はじめに、夫は自宅に戻った。無事、最後となる年末年始を家で過ごせのだ。しかし、それから翌年夏に亡くなるまでのおよそ半年の介護は壮絶だったという。
「電動ベッドですから機械でベッドを動かして体を起こせるのに、主人は私に『起こして』というんです。向かい合って両脇に手をはさんで起こすのですが、素人で起こし方が下手だから腰を痛めてしまって。トイレに連れていってあげようとして、フローリングで二人して転び、介護の方に緊急でわが家に駆けつけてもらったこともありました。主人は1階、私は2階に寝るのですが、夜にしょっちゅう私の携帯に主人から電話がかかってきて、『テレビをつけて』とか、いろいろな要求をされるんです。要するに寂しいし、話がしたいんですよね。自分の時間なんてないです」
![市川さんの仏壇。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/a/670/img_daab4f0bbc02fc06182f07ff5dd0db45485550.jpg)
「娘は仕事に忙しくしていて、私と主人、ほぼ二人きりの生活で朝から晩までマンツーマンで。介護の方にお願いして、自転車で買い物に出かける。2時間経たずに戻っても、主人から『遅いなあ! どこいってきたんだよ。なんで早く帰ってこないんだよ!』と怒られる。家の中には訪問医や訪問看護師の方、ヘルパーさん、お手伝いさんなどいろんな方が出入りして、自分の家であって家でないような感じでした。安らげる時間も場所もなく、ただただ疲れる日々でした」
疲労困憊の日々でも妻は、ひたすらがんばった。
■80歳を超えた妻が、夫のオムツを換えて、着替えさせる
時折、夫が「明日、太陽が見られるかな」と弱気な声でつぶやき、妻が「やっぱり生きていたいのね?」と聞くと、「生きていたい」とはっきり答えるからだ。通常のごはんづくり、洗濯などの家事に加えて、夫の食事の介助や体拭き。ストーマ交換の手伝いや、ストーマから水分が漏れて周囲が汚れれば、パジャマを着替えさせる。夜間だってストーマの交換が必要になる時もある。もちろんオムツ交換もある。80歳を超えた妻にとって、それらはどれほどの重労働だろうと思う。
「よく介護疲れで殺人事件が起きたりするでしょう。ああいう気持ち、よくわかるんです。患者も介護者もとにかく余裕がない。よく本やドラマではかっこよく描かれていますが、『看取る』ことがどれほど大変か……特に家族の人数が少なくて、二人とも高齢で」(妻)
■「旦那さん、今、息を引き取りました」
最後の会話は、死の3日前のことだった。
妻が夫の身の回りの世話をしていると、突然「手をにぎっていい?」と尋ねられたそうだ。
「どうしたのよ。この年になって……」と妻は苦笑いしながら、「いいわよ」と両手を差し出す。夫はその手をぎゅっと握りながら「悪いな、悪いな、こんなに迷惑かけて悪いな」と口にした。
「夫婦だから、別にいいのよ」
とはいっても、最後の数日は妻の心身は限界に達し、徐々に寝床から起き上がれなくなったという。そのため、24時間の介護サポートをお願いした。夜22時から朝7時までのサポートは1日2万円以上かかるため、それまで夜間だけは頼まなかったのだが、もはや誰かの手を借りなければ日常生活を送ることが不可能だったのだ。
ある日の明け方、2階で就寝していた妻の部屋のドアをトントンとノックする音が。「どうぞ」と妻が言うと、数日前からお願いしていた24時間の介護サポート者がそこにいた。
「旦那さん、今、息を引き取りました」
「えっ……」
妻は最期を看取れなかったことに絶句したが、その方に「眠るように亡くなりました」と告げられて、安堵したという。
■「自宅で命尽きたのは良かった」と思えるようになった
夫が亡くなって1年半——。今、改めて当時を振り返って妻はこう言う。
「一日一日が良くなっていけば楽しみがあるからいいけれど、看取りは命がどんどん縮まっていくから。それを見るのはつらかった。ただね、本人がどうしても家に帰りたいと言って、自分のおうちで命尽きたのは良かったことだったと思えるようになりました」
同じ大腸がんだった兄は最期まで苦しみ、「死にたい、死にたい」と言いながら病院で亡くなった。それに比べて夫は痛がったり苦しんだりすることがほぼなかったのだ。
家族の人数が少なく、まして前妻の子との同居だったため、皆で協力するという体制が作りづらかった面があったかもしれない。
市川さんの妻は元気で前向きな人だ。今、84歳というが、60代といっても通るほど見た目が若い。私がそう言うと「でも介護をきっかけに膝も腰も、全身がぼろぼろなのよ」とつぶやく。
「寂しいですか?」と私がたずねると、「そうね。うるさい人ほど静かになって寂しいかもしれない」と少し笑った。
「でも、これからは自分の頭がボケないようにデイサービスに行ったり、ジムにいって体を鍛えなきゃ。英会話の勉強もしたいのよ」
そう凛と話す。全力で介護したという気持ちがあるからこそ、前を向けるのだろうと感じた。(続く。第10回は1月23日11時公開予定)
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ジャーナリスト
1978年生まれ。「サンデー毎日」記者を経て、2018年よりフリーランスに。著書に『週刊文春 老けない最強食』(文藝春秋)、『救急車が来なくなる日 医療崩壊と再生への道』(NHK出版新書)、『室温を2度上げると健康寿命は4歳のびる』(光文社新書)など。新著に、プレジデントオンラインでの人気連載「こんな家に住んでいると人は死にます」に加筆した『潜入・ゴミ屋敷 孤立社会が生む新しい病』(中公新書ラクレ)がある。
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(ジャーナリスト 笹井 恵里子)
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