カリスマ経営者・永守重信の結論…「いくつになっても成長を続けられる人」の絶対条件
プレジデントオンライン / 2022年2月7日 7時15分
■反骨の心に火をつけてくれた“恩人”たち
逆境に負けず、困難にめげず、自分の志を貫き通すためには「執念」が必要である。意地、負けん気、闘争心、反発心……などといい換えてもよい。
どんな苦難に見舞われても「負けない」と思う強い気持ち、「なにくそ」とどこまでも食らいつく気概のことである。
自分の人生を振り返ると、闘争心を沸き上がらせ、反骨精神の太い根っこを植えつけてくれた人たちがいる。
いずれも、その場では憎しみと反発の対象であった人ばかりだが、あとから思えば、その人たちがいてくれたおかげで、私は自分を奮い立たせ、経営者としての第一歩を踏み出すことができたのだ。
そういう意味では、彼らは人生の“大恩人”たちである。
たとえば、一人は先にも述べた小学校のときの担任の教師である。
■「百姓の息子がそんなに勉強して役に立つのか」
とにかくえこひいきをする先生だった。授業中に私が手を挙げてもいつも無視し、テストで満点をとっても、通知表にはけっしていい成績をつけてくれなかった。昼になると、質素な私の弁当をのぞいて、「こんなものを食べているぞ」とみんなの前で恥をかかせた。
こんなこともあった。友人と学校から帰宅している途中、後ろから自転車でその先生が追いついてきた。その友人は、両親とも学校の先生という家の子どもだった。
先生は「後ろに乗れ」と、友人を自分の自転車に乗せて行ってしまう。私のほうには言葉をかけるどころか顔すらも見ないのだ。
中学に入ってから、オール五の成績をとったときのことだ。中学校の先生にいわれて、成績表を小学校のときの担任の先生に見せることになった。この成績なら、文句はいわれまいと自信満々で担任の家を訪ねた。
そのときにいわれた先生の言葉はいまも忘れない。「百姓の息子がそんなに勉強して役に立つのか」とボソッとつぶやいたのだ。
全身の血が沸きたち、頭に上った。「いまに見てろよ。必ず偉くなって見返してやる」と固く心に誓った。
それからはこの教師の写真を壁に貼って、死に物狂いの努力を重ねた。何にも負けまいとする“闘争心”を植えつけてくれたのが、この小学校の先生だった。
■生涯の師との出会い
もう一人の“恩人”は、職業訓練大学校時代の恩師である工学博士の見城尚志(たかし)先生である。見城先生は音響機器メーカーで精密小型モータの研究をしており、大学には講師として着任していたのだ。
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私より四つ年上の見城先生は、とにかく頭の回転が抜群に速く、自信にあふれていた。モータに関する膨大な知識をもち、意欲的に研究に取り組む姿勢には、頭が下がった。
そういう見城先生も、私のことを「バイタリティに富み、何でも一番でなければ気がすまない猛勉強家」と評価してくれていたようだ。年齢もあまり変わらないうえ、お互いが自信家とあれば、プライドをかけた真剣勝負がくり広げられたのも、当然といえば当然だ。
ある日、研究室に呼ばれて課題を渡された。
「君はいつも偉そうな口を叩(たた)いているようだが、このドイツ語の本を明日の朝までに訳してきなさい」
無茶な話だったが、私の闘争心も半端ではない。死に物狂いで訳して、翌朝には持っていく。「ほう」と先生は感心するが、私に対する難題はどんどんエスカレートしていく。それでも私は必死になって食い下がった。
卒業論文の執筆のときは、「物事に、これでいいという妥協があってはならない。たとえ学生でも、学会で発表できるような論文を書け!」と発破をかけられた。
■精密小型モータの魅力に取り憑かれた理由
私は何日も徹夜して必死になって論文を書き上げた。
ところが見城先生は、学友の目の前で「なんだ、この内容は!」といって、破り捨てる。「なにくそ!」と、私も歯を食いしばって食らいついていった。何度も書き直して論文を仕上げたのだった。
そんなことのくり返しだったが、そのたびに私はますます精密小型モータの魅力に取り憑(つ)かれていった。いつしか見城先生は、私にとってかけがえのない存在になっていったのだ。
大学卒業後、私は見城先生の推薦によって、先生が勤めていた音響機器メーカーに就職することになるのだが、その後も、このような緊張感をともなった師弟関係は続いた。
双方、自信家でお互いに譲ることがないので、会えば必ず論争になる。しかし心のなかでは、私がここまでくることができたのは見城先生のおかげだと感謝しているのだ。
先生もおそらく同様の思いをもっているに違いない。先生には大学校を定年退職後、当社の研究所の所長、そして特別技術顧問として、大いに力を発揮していただいている。
■成長を続ける人の絶対条件「闘争心を糧にして努力すること」
その後、経営が軌道に乗り出してからも、闘争心に火をつけられる場面には何度も出くわした。そしてそのたびに見返してやろうといっそうの努力をするというくり返しだった。
![ビジネスウーマンリーダー](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/5/670/img_15e1f5e9839fe0ba6d1967c9c34e43b7524745.jpg)
たとえば、ある大手電機メーカーである。創業当時、そのメーカーに製品のサンプルを納めたところ、その製品をそっくり真似されてしまった。そのうえ、逆に「日本電産が真似をした」といううわさまで流されたのだ。
「零細企業だからといって、ばかにしやがって」と悔しい思いを募らせたものだ。
しかし、それが「いまに見返してやる」という発奮材料になったのだ。
また、こんなこともあった。創業当時、お金を貸してほしいと銀行を訪ねたところ、支店長は、「お貸ししたいのはやまやまなのですが、本店がどうしてもウンといわないんです」という。だから、貸せないというのだ。要は方便を使って体よく断っているのだ。
しかし、そんな社会通念にうとかった私は、本店に乗り込んでいった。
担当者の席まで行って、「支店長は融資したいといっているのに、本店が反対していると聞いている、なぜですか」とやる。当然ながら、相手は「そんな話は聞いていません」という。
再び支店長のもとを訪れて「話が違うじゃありませんか」と問いただすと、「本当に本店に行ったのですか」といって目を白黒させている。そんなことは日常茶飯事だった。
■絶対に赤字を出してはいけないと訴える理由
とくに経営の現場では、銀行をはじめとする金融機関に不愉快な思いをさせられることも多かった。
たとえば、グループの傘下に買収した企業の話だ。経理担当者に聞くと、経営が行き詰まった末期には、十八もの金融機関から融資を受けていたというのだが、「いっさい人間としての扱いをしてもらえませんでした」と泣きながら訴えるのだ。
こちらも同情し、「わかった。どの銀行に腹が立っているのか、順番をつけて紙で出してくれ。その順に借金を叩き返して回ろう」ともちかけた。
後日、その紙を受け取ったところ、全部が「一番」になっていた。それを見て、担当者の悔しさが痛いほど伝わってきた。すぐに、すべての金融機関に借金全額を返済したことはいうまでもない。
また、これも銀行の管理下に入った大手電機メーカーの社長を訪ねたときの話だが、応接室のソファに穴が開いている。驚いていると、社長が「この修理にも銀行の印鑑が要るのです」とばつが悪そうにいっていたのが忘れられない。
私が経営をするうえで絶対に赤字を出してはいけないと訴える理由の一つはここにある。赤字が続くと、銀行が入ってくる。銀行が入るようになったら、企業は終わりである。
■苦境のなか手を差し伸べてくれた経営の恩師
しかし、どんな厳しい状況のなかでも、がんばっていれば、必ずその姿を見てくれている人がいる。力を貸してくれる人も出てくるものだ。
私にとってそうした心強い味方になってくださった恩人の一人であり、京都を創業の地とした大先輩として、言葉に尽くせないほどお世話になったのが、オムロン創業者の立石一真さんだった。
アメリカに何度も通ってスリーエム社から大量の発注をもらうことができた経緯はすでに述べた。それだけの注文が入ったのに、民家の一階部分だけの工場ではとてもまかないきれない。新工場建設の必要性を感じていたが、銀行を駆けずり回ってもお金を貸してもらえる見込みはなかった。
ちょうどその頃、京都の財界や金融機関が中心となって出資してつくった、日本初のベンチャーキャピタルが誕生したことを知った。渡りに船とばかりに、すぐに融資を申し込んでみることにした。
わが社の取り組みと成果、将来性について、一時間あまり担当者に熱く語って申し込みをしたのだが、「あなたの会社はあまりにも規模が小さく、歴史もない。審査には回しますが、あまり期待しないように」というつれない返事である。
ところが、数日後に連絡が入った。なんと、ベンチャーキャピタルのトップが直々に工場を視察したいというのだ。
■小さな工場から、世界企業へ
喜ぶべきことだが、私は内心ビクビクしていた。ちっぽけな工場に驚いて、融資の話が立ち消えになってしまうのを恐れたのだ。
![永守重信『成しとげる力』(サンマーク出版)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/c/200/img_dc17923757b04a5a9593c8a915e21acb209602.jpg)
この頃は、交渉が順調にいっている会社の担当者を工場に案内したとたん、商談をうち切られたり、音信不通になったりすることが続いていた。
何しろ、三十坪ばかりの民家の一階部分だけの工場、設備も古ぼけた中古品ばかりである。不安にかられてもおかしくはない。ベンチャーキャピタルのトップをお迎えして、またがっかりされるのではないかと危惧していたのだ。
しかし、それは杞憂(きゆう)だった。ひと通り見学を終えたその方はこういって激励してくれたのだ。
「創業一年でここまできたのですか。立派なものですよ。私が創業した頃の工場はもっとみすぼらしいものでしたから」
そういってにっこり笑ったその方こそ、立石一真さんであった。これがきっかけとなって、以来立石さんからは、折に触れて薫陶を受けるようになったのだ。
その後、そのベンチャーキャピタルから融資が決まり、京都新聞にそのことが大きく取り上げられた。これをきっかけに、金融機関の間で一気に日本電産の名が知られることになったのだ。
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日本電産 代表取締役会長
1944年、京都府生まれ。6人兄弟の末っ子。京都市立洛陽工業高等学校を卒業後、職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)電気科を首席で卒業。1973年、28歳で日本電産を創業し、代表取締役に就任。同社を世界シェアトップを誇るモーターメーカーに育てた。また、企業のM&Aで業績を回復させた会社は60社を超える。代表取締役会長兼社長(CEO)、代表取締役会長(CEO)を経て、2021年より代表取締役会長。著書に『成しとげる力』(サンマーク出版)、『人を動かす人になれ!』(三笠書房)など。
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(日本電産 代表取締役会長 永守 重信)
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