「かつては東大卒よりも価値があった」47都道府県に必ずある"超名門"公立高校の全一覧
プレジデントオンライン / 2022年1月29日 11時15分
※本稿は、小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。
■新制高校になってから築き上げた「一中ブランド」
旧制第一中学ではその地域の神童、天才、秀才が一堂に会する。それは難関大への合格実績にしっかり反映されてきた。都道府県別に、一中から東京大合格者をもっとも多く出した年をまとめてみた(図表1)。このなかで上位十校は次のとおり(※図表2は2021年における一中からの東大合格者数)。
![2021年、一中からの東京大合格者数](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/3/550/img_93a739b785526c6bb9509ba5b1b78eb1458863.jpg)
一中が戦前から継承された、そして新制高校になってから築き上げた「一中ブランド」効果といっていい。なかでも突出していたのが日比谷である。同校からの東京大合格者は1960(昭和35)年:141人、61年:171人、62年:186人、63年:168人、64年:193人、65年:181人だった。
なぜ、日比谷はこんなに強かったのか。
編集部註:初出時、「一中継承校の東大合格者数のピーク」の上位10校をまとめた箇所で、6位の「岐阜高校:34人(1975年)」が抜けていました。これにあわせて他校の順位も訂正しました。関係者のみなさまにお詫び申し上げます。(1月31日17時27分追記)
■9教科平均で90点を取っても合格できない
![小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/1/200/img_11f9f55027f1b754a79b3fa7402d3440381369.jpg)
このころ、日比谷に入るために中学生は猛烈な受験勉強をしていた。1956(昭和31)年から都立高校入試は9教科(国語、社会、数学、英語、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭)となっており、900点満点の試験で、日比谷に合格するためには830点以上必要と言われていた。
たとえば、1963年当時の資料によれば一科目平均92.2点であり、他の都立高校よりも明らかに高い(『青山学院高等部 最近5年間入試問題と解説付東京都立高校最近3年間入試問題』東京図書、1963年)。なお、都立高校を受験するためには、都内で定められた学区の中学を卒業予定でなければならない。そこで、他県からその学区の中学に転校してくる教育熱心な家庭が出てきた。越境入学だ。これは後述する。
また、東京教育大学附属駒場中学(現・筑波大学附属駒場中)を卒業して日比谷に入学する秀才もいた。いまでは考えにくいことである。
■「テストをたびたびすることは、自発的学習のじゃまになる」
東京大など難関大学に進むために日比谷に入りたい――。成績優秀な中学生の高校受験パターンとして、第一志望が日比谷、第二志望が開成、武蔵、麻布、早稲田大学高等学院、慶應義塾、東京教育大学附属(現・筑波大学附属)、東京教育大学附属駒場などの高校であることが少なくなかった(当時、武蔵や麻布では高校からの募集があった)。
![居間の宿題をしている日本の女の子](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/9/670/img_992cc5ad65204262f8d3e58fc74909f8416380.jpg)
1960年代前半、日比谷ではどんな授業を行っていたのか。同校の進学指導主任教諭が自著でこう記している。
ここで言及された「超学年制」とは、学年を超えて高校2年修了時に3年までの課程を修了させることである。先取り学習で、いまはめずらしくないが、当時はそれほど多くなく、東京大合格者数を急速に増やしていた灘高校などが採り入れていた。
日比谷は灘を「まちがっている」と批判したことになる。高校は受験予備校ではなく、日比谷はそんな野暮なことはしない、というプライドを持っていたのだろう。
■教壇に立っていたのは教養人や受験指導のプロ
日比谷の別の教員は、1964(昭和39)年の東京大193人合格についてこんな談話を寄せている。
同年、東京大に合格した日比谷高校出身者は、通信添削の増進会(現・Z会)機関誌の座談会でこう話している。
授業の大切さや予習復習の重要性を説いた内容である。教える側には前身の旧制府立一中から教壇に立っているベテランがいる。大学入試に精通した受験指導のプロ、学問分野をきわめた教養人などがいた。1970-90年代、受験の英語で一世を風靡した『試験にでる英単語』の著者、森一郎氏はその代表格であろう。
![日本の高校](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/7/670/img_e712a5a86bb54fb8ca42fc58b654b155989357.jpg)
■なぜ一中に地域のエリートが集まってきたのか
もっとも、他校の進路指導教諭は冷ややかに受け止めていた。日比谷は各地域の中学の1、2番が集まってくる、そんな秀才たちは自分で勝手に受験勉強を先取りするから、日比谷の先生は楽なんじゃないか。日比谷だからこそそんなスタイルの授業でも東京大受験に対応できるのであって、そのやり方がどの高校にも通用するわけではない、と。
ではなぜ、日比谷のような一中に地域のエリートが集まったか。そこには歴史的な背景、学校の事情があり、下記の要因が考えられる。
(1)ブランド力 東大より一中
1949(昭和24)年に東京大入試が始まってから、その都道府県内で東京大合格者数1位をほぼ続けてきた学校がある。入試制度、学区の変更などに影響を受けなかったところだ。山形東、浦和は1位を譲ったことがない。盛岡第一、秋田、宇都宮、高松は1、2回トップを逃した程度だ。
私立や国立大学附属が圧倒的に強く県下トップにはなれないが、進学実績面で長く2番手のポジションを守る一中がある。地元で「名門校」としての存在感をしっかり発揮しており、これらも記しておきたい(カッコ内は私立、国立大学附属の東京大合格者数1位校)。
千葉(⇔渋谷教育学園幕張)、金沢泉丘(⇔金沢大学附属)、松山東(⇔愛光)、修猷館(⇔久留米大学附設)、鶴丸(⇔ラ・サール)などだ。
■東大に進学するより価値があった
いくつかの学校は学校群制、通学区変更という政策でも受け入れ生徒の学力が大きく下がるということはなく、神童、天才、秀才たちが離れていくこともないまま一中のブランド力を維持できた。もちろん、伝統を継承してきた底力、時代の変化に挑んできた試みのおかげだが、地域の入試制度が一中を守った側面はある。
それを受けて、各中学校には、学年トップを一中に送り出すという不文律が引き継がれてきた。もっとも中学生天才児が一中ではなく、地方からも開成や灘に進むケースがあり、ブランド力は万全とはいえないが、一中が廃れるということはなかった。
また、いまでも都道府県、市町村の幹部に一中出身者が多いところがある。首長が一中出身というところも少なくない。知事では、岩手県・達増拓也(盛岡第一)、茨城県・大井川和彦(水戸第一)、新潟県・花角英世(新潟)、岐阜県・古田肇(岐阜)、和歌山県・仁坂吉伸(桐蔭)がいる。彼らはみな東京大出身である。
任期途中で病を得、辞職して闘病ののち亡くなった福岡県・小川洋(修猷館、京都大出身)も、大阪府知事、大阪市長をつとめた橋下徹(北野、早稲田大出身)もいた。一中出身者は知事選挙をうまくたたかえる。同校卒業生のネットワークが威力を発揮し、一中というブランドが特に効くからだ。
父、祖父、曽祖父など先祖代々、旧制中学時代から一中に入学してきたという家系もある。彼らにすれば、たとえば東京大や東北大よりも盛岡第一高校なのであり、その威光が消えることはないのだ。
■各都道府県に作られた「進学エリートコース」
(2)エリートコースの確立 番町小→麴町中→日比谷
1990年代まで、多くの地域では、通学できる範囲に制限のある学区制が敷かれていた。このため、特定の小学校と中学校を経て一中に進むケースが見られた。
1950年代後半から、高校進学率の上昇とともに、全国で教育熱心な親が現れた。子どもをなにがなんでも東京大へ行かせたい、という親の思いは、幼稚園、小学校選びから始まる。戦後の高度経済成長の恩恵を受けて世の中が豊かになったせいか、教育にお金をかけられる家庭が増えた。「教育ママ」ということばが普通に使われるようになった。
東京大、京都大や地元国立大学にもっとも多く入学する高校、そこにもっとも多く進学する中学校、そこにもっともにたくさん入れる小学校に通わせるため、各都道府県でエリートコースが作られつつあった(図表3)。
![1960.70年代に一中継承校へ多く進んだ小学校・中学校のコース](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/c/670/img_7c8c13bc572183387dcc781445a3e5d7510833.jpg)
なかでも、もっとも有名なのが東京の番町小学校、麹町中学校、日比谷高校である。しかし、これらの小中学校に通うためには特定の学区に住まなければならない。そこで教育ママたちが考えたのは、学区内にアパートを借りて(または借りたことにして)住民票を移すことだった。越境入学である。
■約6割が越境入学していた番町小学校
1959(昭和34)年、番町小は37%、麹町中は39%が学区外から通学していた(当時の新聞報道)。メディアは「よい学校」だから越境が増えると解説する。
1965(昭和40)年になると、番町小学校の生徒数約1700人のうち約6割が越境入学といわれた。番町小に通う小学生について、こんな記事がある。
このまま「A君」が番町小を卒業し麹町中に進めば、同中卒業は1974年になる。だがこのころ、麹町、日比谷をめぐる風景は一変していた。
■「番町小学校→麹町中学校→日比谷高校」というエリートコースの崩壊
1973(昭和48)年、日比谷からの東京大合格者は学校群制度によって29人(ランキング18位)まで落ち込んだ。このとき、メディアは麹町中教員の話として、1960年代半ばまでと当時(1970年代前半)の違いを紹介している。
「とにかく、この学校でも、すべてが日比谷に向かっていきました。学力のある子どもはすべて日比谷に行きました。教育大付属に受かっても、慶応高に受かった者も、わき目も振らずに日比谷に進学したものでした」
ところが、現在はどうなっているか。
こうして、番町小学校→麹町中学校→日比谷高校というエリートコースが崩壊する。いま、全国的に一中は学区が広がり、多くは都道府県内であればどこからでも通える大学区制になったため、特定の小学校、中学校から一中に進学する例はあまり見られなくなった。
一方で、各都道府県には国立大学附属小学校、中学校があり、ここから一中へ進むというルートは存在する。秋田大学附属中から秋田高、群馬大学附属中から前橋高、香川大学附属中から高松高校、熊本大学附属中から済々黌高校などである。
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教育ジャーナリスト
1960年生まれ。神奈川県出身。95年から『大学ランキング』編集を担当。著書に『東大合格高校盛衰史』(光文社新書)、『高校紛争 1969―1970』(中公新書)、『中学・高校・大学 最新学校マップ』(河出書房新社)、『学校制服とは何か』(朝日新書)、『神童は大人になってどうなったのか』(太田出版)、『女子学生はどう闘ってきたのか』(サイゾー)、『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)などがある。
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(教育ジャーナリスト 小林 哲夫)
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