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「君たちは4時間寝れば十分」昭和の名門公立高校では常識だった"四当五落"のすさまじさ

プレジデントオンライン / 2022年1月30日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/miniseries

各都道府県には「旧制第一中学」と呼ばれる名門公立高校がある。これらの高校では、1980年代まで苛烈な受験指導が行われていた。教育ジャーナリストの小林哲夫さんは「平日の授業時間は8時間で、山のように宿題を出していた。睡眠時間は4時間以下があたりまえで、『四当五落』と言われていた」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

■英語の授業中は一言も日本語がなかった

猛烈な進学指導――県高、上野、鶴丸のスパルタ授業

1950年代から80年代にかけて、一中のなかにはかなり無茶な受験指導を行うところがあった。

新潟高校は1950(昭和25)年に東京大合格者を21人出した。目を見張る数である。この年、同校では初めて女子を受け入れた。その1人の回顧録が学校史に記載されている。

「入学してまず驚いたのは「君たちは4時間寝れば十分」という教師の一言であった。日比谷高校に追い付け追い越せの雰囲気で、たとえば英語の授業中は一言も日本語がなかった。中学では自信があった彼女も1年間はまごつき、午前2時前に寝たことはなかったという」(『青山百年史』1992二年)

いま大学受験の勉強で四当五落(睡眠は4時間までなら合格、5時間以上は不合格)を推奨する教員はどこにもいないだろう。

1960年代、大分上野丘高校も進学競争で過熱ぶりを示した。平日8時間(土曜日7時間)、学力別編成、早朝補習、テスト即日採点・翌日成績発表、クラス編成は1年生からコース別、実力試験で成績順に編成、ホームルームをなくして能力別授業を実施、試験で生徒のクラス「入れかえ」を行い競争心の植え付け、全校一斉放送による漢字書き取りテスト……などだ。

結果は出た。東京大合格者が1965年11人、66年15人、67年23人と増えた。学校新聞も「県下の俊英集まる」と見出しを掲げ自画自賛し、地元紙にも「意気高々と上野丘高 開校以来の大記録 肩を叩いて「よかった、よかった」」との見出しが躍った。

■私大を受ける生徒はバカ呼ばわり

大分上野丘は1950年代に進学実績で差をつけられた新設校の大分舞鶴高校の受験勉強方式(8時間授業や補習など「舞鶴方式」と呼ばれた)をすべて取り入れ、一部の学内行事を中止あるいは縮小するなど、受験指導に異常なまでに力を入れたが、学校史は「進学狂奔時代」という見出しをたて、こうふり返っている。

「生徒の側から見れば「高校は受験のための存在」であり、その印象は「灰色……」であった。こうした進学一辺倒主義によって、生徒の人間性・社会性を高め育てるという教育の根本的な面が二の次に回され、文化・体育のクラブ活動は沈滞した。そして文化祭や体育大会も、できるだけ授業に支障をきたさないように配慮?して実施された。〔略〕この時期の卒業生は「補習をするので、夏休みは無いも同然だ」

「1日8時間に加えてとテストぜめ」「ガリ勉が増え、部活動はべっ視された」「国立中心主義で、私大を受ける者はバカよばわり」などと当時を批判的に振り返る者も多い」(『上野丘百年史』1986年)

1970-80年代、鹿児島の鶴丸高校も受験指導は厳しかった。同校OGのミュージシャン・辛島美登里氏(1981年卒)の高校時代がこう描かれている。

「待っていたのは勉強漬けの日々だ。修学旅行はなく、授業時間に充てられた。クラブ活動をしているのは成績上位者だけで、あとの者は自習学習するのが常識だった。それでなくとも毎日、山のような宿題が出る。〔略〕しかも、各授業の開始前に小テストが行われるので、「休み時間」も休むヒマはなかった。/勉強、勉強で、わくわくする時間などまったくなかったけれど、「問題作成や添削をする先生だって大変なんだから、私も頑張らなくちゃ!」と純粋に机に向かっていました」(『読売ウイークリー』2008年8月10日)

■「鶴丸とは勉強するところなり」

鶴丸にはこんなエピソードがある。1951年、鶴丸の入学式後、在校生と新入生の対面式に次のようなシーンがあった。学校史が描く。

小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)
小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)

「生徒会長の南竹治郎は、壇上に上るなり左右をへいげいし、一呼吸おいて、前生徒会長徳満の「鶴丸とは勉強するところなり」ということばをぴしゃりと言い放った。がやがやとしていた新入生は、一瞬あっけにとられ、その顔から稚気がうせ、緊張がさっと走ったという」(『創立百年』1994年)

さぞ、びびったことだろう。「勉強する」ことが鶴丸の伝統なのである。

結果を出すことが求められる。そう意識したことで、一中は大学受験予備校の道をひたすら走ったのだろう。いまでも熱心に行われているが、ここまで狂奔していない。受験指導については「昔は良かった」と回顧するのはむずかしいだろう。いまの方がずっとましなのだから。

■かつては多くの一中が独自に予備校を経営していた

補習科の存在――“最強”の予備校、岡山朝日には健在

一中には学校が経営する予備校がある、と言ったら驚かれるだろうか。

現在は岡山朝日、松江北、高松などしかないが、かつては安積、日比谷、鳥取西、広島国泰寺、修猷館(しゅうゆうかん)、鶴丸などに設置されていた。「○○高校補習科」「○○学館」などと呼ばれていた。河合塾の前理事長、河合弘登氏は1965年に日比谷高校を卒業後、同校の補習科に通っていた。こうふり返っている。

「東大受験に落ちた私は、補習科に入る試験を受けると同時に、駿台予備学校の入学試験も受けました。なぜ河合塾ではなく駿台だったかというと、そのころ河合塾はまだ東京に進出していなかったからです。両方合格したので、日比谷高校の補習科に行くことにしました。同じく東大受験に失敗した仲間もみんなそうしたからです。/でも、補習科は、高校時代と教室も同じ、教える先生も同じ、周りも同じ顔ぶれ。何もかも高校時代と変わらないため、気持ちがうまく切り替わらず、結局、2度目の東大受験にも失敗。結果、併願していた慶応義塾大学経済学部に進むことにしました。あの時、補習科ではなく駿台を選んでいたら、東大に受かっていたかもしれないと後から思うことがよくあります(笑)」(NIKKEI STYLEキャリアリーダーの母校 2018年2月12日)

福岡では、修猷館高校が修猷学館、筑紫丘高校が筑紫丘学館、福岡高校が福高研修学園という予備校を持っていた。

福岡市早良区にある福岡県立修猷館高等学校
福岡市早良区にある福岡県立修猷館高等学校(写真=hyolee2/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■九州にいても東京の有名教授の講義が受けられた

1970年代前半、授業料が年間で修猷館卒は11万円、他校卒は14万円だった。ほかの地元予備校は20万円以上だったので、半額だった。メインとなる講師は修猷館を定年退職した教員だが、現職の教員もまざっている。修猷学館は受験に失敗した浪人生の救済という大義名分はあるが、一方で、退職した教員の受け皿という役割も担っていた。

事実上、県立予備校と言われていた修猷学館の存在を問題視していたのが、福岡県教職員組合である。修猷館の教員が勤務時間外に予備校で教えれば疲弊するだけで、教育労働者を守る観点から由々しき問題である。また、放課後、職員会議を開こうにも予備校で教えている教員が不在となれば、人が集まらない。教育運営上、これも由々しことだ、と批判していた。

1974年、修猷学館の校長だった樗木昇一校長は次のように話す。

「宣伝らしい宣伝はなんもしよらんとですが、生徒はよう集まりますな。他校からの生徒には修猷館4年生のつもりでおれ。一年間でええから修猷の生徒に混じって、その猷(みち)を修むる、修猷の心を学べ。そういうのですが、ま、予備校としては半プロですかな」(『週刊朝日』1974年4月16日号)

ブランドもあり、県下トップ校で教える教員のノウハウも期待される。しかも、授業料は半額だ。これではかなわない。地元・福岡の予備校も黙ってはいられない。

福岡の老舗予備校、水城学園は受験雑誌でこう謳っていた。

「東京の一流教授が常任講師として多数来講され、九州にいて東京の有名教授の名講義が聴けるという地方予備校の壁を破った予備校です」(『螢雪時代 全国大学受験年鑑』1975年)

■経営難を理由に次々と廃止されていったが…

一中にくっついた予備校は、その存在意義が問われるようになる。

日比谷高校補習科は、1967(昭和42)年に都教委から予備校機能を持たせるべきでないという行政指導を受けた。都内に日比谷、新宿、小山台、両国、上野の都立五高校に補習科があったが、1960年代後半までにすべて消滅する。

修猷学館は1995五年に経営難を理由に廃止となる。前年に駿台福岡校が誕生したことが決定打となったようだ。

2021年、岡山朝日高校補習科は健在だ。入学は岡山朝日卒業生のみで、1年以上は通えない。専用の教室、自習室、個人用ロッカーが完備。各大学の赤本などの書籍コーナーもあり、個別面談、3者面談を行っている。こう告知している。

「入科生のことをよく熟知した教員が、的確なアドバイスを行っています。3年生と同種の実力考査、校外模試を受けることで現役時との比較が可能です。年間4回の実力考査と、全員参加の校外模試、希望者模試を活用して成績の伸長を把握しています」(同校ウェブサイト)

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小林 哲夫(こばやし・てつお)
教育ジャーナリスト
1960年生まれ。神奈川県出身。95年から『大学ランキング』編集を担当。著書に『東大合格高校盛衰史』(光文社新書)、『高校紛争 1969―1970』(中公新書)、『中学・高校・大学 最新学校マップ』(河出書房新社)、『学校制服とは何か』(朝日新書)、『神童は大人になってどうなったのか』(太田出版)、『女子学生はどう闘ってきたのか』(サイゾー)、『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)などがある。

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(教育ジャーナリスト 小林 哲夫)

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