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「本を読んでも頭は良くならない」書店員が30年かけて気付いた"読書の本当の価値"

プレジデントオンライン / 2022年2月6日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yipengge

なぜ人は本を読むのか。書店員の三砂慶明さんは「私は本を読んでいたら、いつかは頭が良くなると信じていた。だが、失敗したり、挫折したときに偶然出会った本が、読書の本当の価値を教えてくれた」という――。

※三砂慶明『千年の読書 人生を変える本との出会い』(誠文堂新光社)の一部を再編集したものです。

■絶交したばかりの友人に電話するほど面白かった本

私は本に人生を何度も助けられてきました。

あるとき、なぜケンカしたのかも思い出せないような些細(ささい)なすれ違いで、親友と絶交しました。その帰り道、駅のホームで電車を待ちながら読みはじめた色川武大の『うらおもて人生録』があまりに面白過ぎて、絶交したばかりの友人にうっかり電話してあきれられました。

電話をかけるのは好きなのに、かかってくる電話を取るのが苦手で、アルバイトもろくにできませんでした。ため息をついていたら、なじみの古本屋さんが声をかけてくれました。

「座ってるだけでいいからさ、面白い本があったら教えてよ」とまるで筒井康隆の「耽読者の家」のようなアルバイトをさせてくれました。

予想通り就職には失敗し、やっとのことで入社できた会社も1年でなくなってしまいました。これから先どうしたらいいか。何を頼りに生きていけばいいのか。考えているうちに時間だけが過ぎていき、自分だけが取り残されているような気持ちになりました。貯金はあっという間になくなり、食べていくための仕事を続けるだけで精いっぱいでした。

■読書に教えてもらった世界の違った見え方

目の前に積み上がっていく仕事を夢中でこなしていくうちに、もし、このまま一生を終えてしまったら、私は自分の人生を支えてくれた本とかかわらずに生きていくことになる。どうしたらいいのだろう。

漠然と考えていたら、ある日たまたま開いた朝刊に未経験者可の書店立ち上げの募集広告が掲載されていました。思い切って履歴書を書きました。そして、今に至ります。

自分の人生をふりかえってみて思うのは、私はよく失敗しています。でも、考えてみると、人間は自分の人生を一度しか生きられません。だからみんな、やったことのないことにしか出会いません。

私たちは、はじめての人生を、ぶっつけ本番で生きるしかありません。本番に強い人もいますが、私は人前に立つと緊張し、頭の中が真っ白になって、身体がふるえてきます。

そんなとき本屋の中を歩くと、そっと手をさしのべるように、目の前を明るく照らしてくれる本と出会うことができました。ページを開くと、想像を絶する困難や不幸を乗り越えて、誰も歩いたことのない道を、一歩、また一歩と歩いていく著者とともにその風景を眺めることができました。

世界を変えることはできなくても、自分自身の言葉で、自分自身の人生を生きられたら、世界が違って見えるのだと、私は読書に教えてもらいました。

■読書の習慣を確立したアリストテレスの功績

不思議なのは、人生がうまくいっているときは、あまり本が視界に入ってこないことです。むしろ、うまくいかなかったとき、失敗したとき、目の前が真っ暗になったときに本と出会います。

ディオゲネス・ラエルティオスの名著『ギリシア哲学者列伝』には、「教養は、順境にあっては飾りであり、逆境にあっては避難所である」という古代ギリシアの哲学者アリストテレスの言葉が書きとめられています。古代言語研究の第一人者、フレデリック・ジョージ・ケニオンの『古代の書物』によれば、このアリストテレスこそが本を体系立てて活用した蔵書家の始祖であり、「アリストテレースと共にギリシア世界は口頭の教えより読書の習慣へと移った」と記されています。

クラシックな書籍
写真=iStock.com/alancrosthwaite
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/alancrosthwaite

かいつまんでいえば、私たちはアリストテレスのおかげで読書という習慣を手に入れることができ、アリストテレスは収集した本を読むことによって知の体系を紡ぎだし、世界を照らしだしたのです。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった古代ギリシアの哲学者の言葉が今も古びないのは、人間の文化の歴史がそこから今につながっているからだと思います。

■本屋で手に取る一冊は人類の歴史とつながっている

本には世界を変える力があります。何も入っていない本棚に一冊一冊本を並べ、本棚の前でお客様と話すうちにわかったことが2つありました。

どれほど恵まれた人生を歩んでいるように見える人でも「避難所」が必要であること。

そして、本は困難と向きあった人に新しい扉を開いてくれる、ということでした。

作家ヴァージニア・ウルフは『自分ひとりの部屋』で、

傑作というのは、それのみで、孤独の中で誕生するわけではありません。何年もかけてみんなで考えた結果、人びとが一体となって考えた結果として誕生します。ゆえに一つの声の背後には集団の経験があります。

と私たちが本屋で手に取る一冊が、実は人類の歴史と地下水脈のようにつながっているのだと教えてくれました。ウルフがいうように、「シェイクスピアはマーロウがいなかったら、マーロウはチョーサーがいなかったら、チョーサーは無名の詩人たちが道を拓き、生(き)のままの粗野な言葉づかいを直していなかったら書けなかった」のです。

■「この幸福感の前には后の位も何になろう」

千年前に書かれた『源氏物語』が、今も本屋の店頭で新刊として手に取られています。菅原孝標女の『更級日記』には、読みたいと願い続けていた『源氏物語』をおばから贈られたときの感動と興奮がありのままに綴られています。

それを戴いて帰るときのうれしさは天にも昇る心地だった。今までとびとびに読みかじって、話の筋も納得がゆかず、じれったく思っていた『源氏物語』を一の巻から読み始めて、邪魔も入らずたった一人で几帳(きちょう)の内に伏せって、櫃から一冊ずつ取り出しては読む気持、この幸福感の前には后(きさき)の位も何になろう。(『新編 日本古典文学全集26』)

1000年前から読みたい本を読む喜びは変わっていません。菅原孝標女の言葉を追いかけていると、本は何かのために読むのではなくて、楽しくて楽しくて、ページをめくるのがとまらなくなるから読むのだと、読書の出発点に何度でも立ち返ることができます。

■本との出会いは本当に「偶然」なのか

何より素晴らしいのは、菅原孝標女が読むのをとめられなくなったその本が、今も本屋の店頭や図書館で、気軽に手に取れることです。しかも、日本だけでなく、世界中で。

私たちはよく「偶然」本と出会います。しかしそれは本当に「偶然」なのでしょうか。

作家ミヒャエル・エンデは、『M・エンデが読んだ本』で、読者に問いかけました。

あなたが人生の岐路で悩んでいるとき、ちょうどぴったりの瞬間に、ちょうどぴったりの本を手にとり、ちょうどぴったりの箇所をあけ、ちょうどぴったりの答えを見つけるなら、あなたはそれを偶然だと思いますか?

私が、今回探求してみたいと願ったのは、なぜ人生には本が必要なのか、です。

私たちがたまたま立ち寄った本屋で、一冊の本と出会うことができるのは、本当に偶然なのでしょうか。

■「本を読む人生」が「読まない人生」よりずっと良い

村上春樹は『村上さんのところ』で、「本をよく読む人と、本をほとんど読まない人がいますが、どちらの人生が幸せでしょうか? 全般的に本を読まない人のほうが、楽天的で人生を楽しんでいるように感じますが、どう思われますか?(猫星、女性、40歳代、無職)」

という読者からの質問に、こう答えています。

「たとえ不幸せになったって、人に嫌われたって、本を読まないよりは本を読む人生の方がずっと良いです。そんなの当たり前の話ではないですか」

シンプルで美しい回答です。

「本を読む人生の方がずっと良い」

一体なぜでしょうか。その理由を自分なりに考えてみました。一言でいえば、私は本が読者を未知の世界へと連れだしてくれるからだと思います。この世で実際に会うことの叶わない人に会えたり、聞いたことのない話を教えてもらえたり、ただ単純に面白かったり、熱中してページをめくっているうちに、目の前の景色が変わっていきます。本を読んでいるうちに読者は自分だけの発見をします。自分だけの地図が少しずつ広がっていくのです。

開いた本の上にさまざまなアイデアや知識が浮かぶ様子
写真=iStock.com/RRice1981
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RRice1981

■人間の知識欲は生まれつきで、終わりはない

私たちは知らずにはいられません。明日の天気も、今、給湯器の温度が何度なのかも、郵便物がいつ着くのかも、となりの家の犬が何という犬種なのかも知りたくなってしまいます。日々の些細な出来事から、過去の記録や、まだ起こっていない未来について、何でも知りたい。知ってどうするのという細かい疑問は気にとめず、ただ知りたい。私たちの知りたいことに終わりはありません。

古代ギリシアの哲学者プラトンが知識とは何かを問うた『テアイテトス』では、ソクラテスに「驚異(タウマゼイン)の情(こころ)こそ智を愛し求める者の情」であり、「求智(哲学)の始まりはこれよりほかにないのだ」と語らせています。また、万学の祖アリストテレスは、哲学の第一原理、存在とは何かを考察した記念碑的主著『形而上学』の1行目を「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」からはじめています。

18世紀の中ごろ、スウェーデンの博物学者リンネは人類を霊長目に分類し、ラテン語で「ホモ・サピエンス」と名付けました。属名のホモが「人間」で、サピエンスは「知恵」をあらわしています。リンネは、人間を「知恵ある人」と呼んだのです。

■カフカが綴った「僕たちが必要とする本」

では、人間を人間たらしめるこの知とは一体何なのか。誰もがその人生で、毎日、同じことを繰り返すことに耐えられず、何かを発見したいのでしょうか。

作家、カフカはこの驚異への憧憬(しょうけい)を友人オスカー・ポラックにあてた手紙のなかで、「斧」にたとえています。

僕たちの読んでいる本が、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えて僕たちを目覚ませることがないとしたら、それではなんのために僕たちは本を読むのか? 君の書いているように、僕たちを幸福にするためにか? いやはや、本がなかったら、僕たちはかえってそれこそ幸福になるのではないか、そして僕たちを幸福にするような本は、いざとなれば自分で書けるのではないか。しかし僕たちが必要とするのは、僕たちをひどく痛めつける不幸のように、僕たちが自分よりも愛していた人の死のように、すべての人間から引き離されて森のなかに追放されたときのように、そして自殺のように、僕たちに作用するような本である、本は、僕たちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない。そう僕は思う。(『決定版カフカ全集9』)」

■人類が歩いてきた道を照らす記録の塊

人類は、5000年にわたって「僕たちの内部の凍結した海を砕く」驚きや発見を記録し続けてきました。良くも悪くも、私たちが知っていることは、何らかの形で記録に残っています。真っ暗な宇宙に浮かぶ星のように、「本」と呼ばれた記録の塊が星座のように連なって、人類が歩いてきた道を照らしています。

最初はメソポタミアで粘土に。ついで古代エジプトではカヤツリグサの一種、パピルス草の茎に。そしてペルガモン(現トルコ)では獣の皮に。インドやスリランカ、タイでは木の葉に。中国では骨や亀の甲羅に、ついで木や竹、絹に描かれました。

本棚にタブレットを置く人
写真=iStock.com/Prostock-Studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Prostock-Studio

やがて中国で「紙」が誕生し、グーテンベルクの印刷機の発明のおかげで私たちは皆、読者になることができました。そして、21世紀、タブレット型端末の出現により、私たちはポケットに無限の本をおさめられる世界に生きています。

本を開くと未知の世界の扉が開きます。読みはじめるまで見も知らなかった存在が、読み終わると既知の存在へと変化している驚きは何度味わっても奇跡としか思えません。

■30年間、本を読み続けても頭は良くならなかった

馬鹿馬鹿しい話ですが、私は本を読んでいたら、いつかは頭が良くなると信じていました。以来愚直に30年読み続けてきましたが一向にその兆しはありません。きっと本を読む量も質も、どちらも足りなかったのだろうと考えていたら、保坂和志の『言葉の外へ』に出会うことができました。

読書とは第一に“読んでいる精神の駆動そのもの”のことであって情報の蓄積や検索ではない。ということをたまに素晴らしい本を読むと思い出させられる。

読書とは「精神の駆動」である。想像の斜め上から飛んできた言葉に驚きました。駆動という言葉に引きずられたのか、保坂和志の文章を読んでいるときにずっと脳裏に浮かんでいたのは、小学生のころ、両親に連れていってもらった鈴鹿サーキットでした。

日曜日に、子ども用のゴーカートレースが開催されていて、運転なんかしたこともなかったのに、楽しそうな雰囲気に魅せられて両手をあげて参加しました。

■本を読む=サーキットをゴーカートで走ること

本物のレース会場を、乗ったことのないゴーカートで、アクセルをベタ踏みして、全力で走る。カーブが回りきれなかったり、縁石に乗り上げたりして結果は散々でしたが、アクセルを全開にしてハンドルを握って走るのは、楽しかったです。

三砂慶明『千年の読書 人生を変える本との出会い』(誠文堂新光社)
三砂慶明『千年の読書 人生を変える本との出会い』(誠文堂新光社)

読書というのは、これかと思いました。

サーキットに、それぞれのエンジンを積んだ車が一列にならんでいる。ページを開くとエンジンがかかり、それぞれのドライバーが、アクセルを踏み、ハンドルを操り、ゴールを目指す。順位をゴールに求める人もいれば、風景を楽しむ人がいて、一緒に走ることを喜ぶ人もいる。歓声が湧き上がることもあれば、ただ静かにテープを切ることもあります。でも、読み終わると、走りきった達成感が静かにこみ上げてきて、生きている感じがする。

もちろん、実際は、なぜこの本を手に取ってしまったのかと後悔する本もありますが、なぜ自分には本が必要なのか、その理由が言語化できるようになりました。

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三砂 慶明(みさご・よしあき)
「読書室」主宰
1982年、兵庫県生まれ。大学卒業後、株式会社工作社などを経てカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社入社。梅田 蔦屋書店の立ち上げから参加。これまでの主な仕事に同書店での選書企画「読書の学校」やNHK文化センター京都教室の読書講座にて「人生に効く!極上のブックガイド」などがある。「WEB 本がすき。」(光文社)などで読書エッセイを連載。(近影撮影=濱崎崇)

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(「読書室」主宰 三砂 慶明)

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