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「服を着たまま頭から浴槽に沈められる」鬼母が転がり込んだロクデナシ継父宅で中学女子が受けた虐待

プレジデントオンライン / 2022年2月5日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AndreyPopov

当時31歳の母親は父親と離婚し、会社経営をする男性宅に転がり込み、事実婚関係に。当時8歳(小3)だった女性(現在20代後半)は家事の全てを強制され、食事はひとり廊下で「ご飯とモヤシ炒め」のみ。妹が生まれると虐待はさらにエスカレートし、「お前なんか産まなきゃ良かった」「お前さえいなければ幸せだったのに」「この人殺し」「ブス」「クソガキ」「死ね」と暴言を浴びせられ、服を着たまま頭から浴槽に沈められた――。

■母親が離婚後、愛人との子を妊娠してから虐待被害を受けた

ひきこもりの子供を「いない存在」として扱う。夫の暴力支配が近所に知られないように被害者の家族全員がひた隠しにする……。

限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。

そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭に生まれやすいのか。具体事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破る術を模索したい。

今回は、母親が離婚後、愛人との子を妊娠してから虐待被害を受けた現在20代の女性の事例を紹介する。なぜ虐待を受けたのか。どのように「家庭」という密室から脱出したのか。

■母親の離婚

関東地方に住む20代後半の緑川由芽さん(仮名)は、建設会社に務める当時23歳の父親と、同年齢で同じ建設会社の事務員だった母親との間に生まれた。

父親は酒癖が悪く、母親はいつもイライラし、夫婦喧嘩が絶えない。殴り合いに発展することも多く、家の壁はボロボロで、あちこち血の痕がついていた。

ただ、そんな父親でも、幼い緑川さんをお風呂に入れることだけは欠かさなかった。母親は教育熱心で、緑川さんを2~3歳から幼児教室に通わせた。幼稚園に入ると、緑川さんに夜中まで勉強させ、期待に応えられない時はひどく怒られたものの、普段はやさしかった。

大きな転機が訪れたのは、緑川さんが8歳の頃。両親が離婚したのだ。父親の酒癖・女癖やギャンブルにハマって母親の実家に多額の借金をしたことがその理由だった。

緑川さんの親権は母親が持つことになり、31歳の母親は8歳(小3)の緑川さんを連れて、愛人の男性のところへ移り住んだ。男性は、母親が夫の借金に悩み、緑川さんの小学校の入学準備ができずに困っていたところ、力になってくれたという。

会社経営をしていた男性は44歳で既婚者だが、妻との結婚生活は破綻していた。妻が離婚を受け入れないため、緑川さんの母親は事実婚のような形で同居に踏み切ったのだ。

それから約3カ月後、母親に妊娠が発覚。妊娠してからというもの、母親は常にイライラし、「つわりがつらくて動けない」と、ほとんどの家事を放棄。そのしわ寄せは継父(便宜上こう表現する)に行き、食事は継父が買ってきた総菜ばかりになる。

母親が離婚してから1年ほど経った2月頃、緑川さんが学校から帰ってくると、玄関に鍵がかかっていた。鍵を持たせてもらっていない緑川さんは、家の前にある公園で遊びながら、母親か継父の帰りを待った。

17時をまわり、あたりが暗くなると、子どもたちは帰宅していく。緑川さんは家の前に座り込んだ。真冬の2月の夜、緑川さんは冷たい空気の中でガクガク震えた。次第に眠気に襲われ、何度も船を漕いでは寒さで目覚めた。

月明かりのハウス
写真=iStock.com/urbancow
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/urbancow

22時頃、ようやく母親と継父が揃って帰宅。母親は、「あら、いたの?」と言うだけで、悪びれる様子は全くない。2人はどうやら、生まれてくる子のために、ベビー用品を買い揃えに出かけていたようだった。

■「妹の誕生」は地獄の始まり

やがて、妹が生まれた。32歳になっていた母親は産後、妹ばかりを可愛がるようになり、緑川さんのことは放置。妹と関わることも禁じられ、母親の許可なしには妹に近づくことさえできない。「顔見に行っていい?」とたずねると、「今起きてるから、手を洗ってマスクをしてから行きなさい」と言われて、その通りにして初めて妹のそばに行くことができた。

妹誕生から半年が経った頃、母親は妹の世話にかこつけて、緑川さんのものの洗濯や食事の支度を一切しなくなる。10歳(小4)になっていた緑川さんは、洗濯も食事の用意も、自分でするしかなかった。

さらに、継父も変化していく。以前は厳しいながらも、大人として節度を保った言動をしていたが、緑川さんに対してあからさまに、「嫌々面倒をみてやっている」という態度で接するようになる。

妊娠した母親から家事を押し付けられるようになったのが気に入らなかったのだろう。ましてや会社経営をしていて多忙な人だ。この頃から継父が買ってきた総菜や弁当に緑川さんが駆け寄ると、「お前は最後だよ、図々しい」と言い放ち、常に不機嫌な様子。

あるときから、機嫌を損ねると浴室に連れて行かれ、執拗に顔にシャワーを浴びせられるようになる。緑川さんは大量に水を飲み、苦しくて何度も「死ぬのではないか」と思ったが、母親は助けに来ない。

やがて妹が1歳になると、母親と継父は引っ越しを決めた。歩き始めた妹のために、今より広い家に移ろうというのだ。

引っ越した後、母親は、妹に関わること以外の家事は一切せず、家政婦を雇い始める。

アジアの主婦とゴミ
写真=iStock.com/bee32
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

しかし、その家政婦も半年ほどで、「あの家政婦、費用が高い割には、私の持ち物や服装をジロジロ見て、品定めをしてくるようで嫌だったのよ」と被害妄想のような理由でクビになった。

■まるで家政婦のように家事を強制された10代

11歳(小5)になっていた緑川さんは、いつしか自分のことだけでなく、料理以外の家族全員の家事全てを押し付けられるようになっていた。

こと教育に関しては熱心だった母親は、元夫との生活は経済的に厳しいものがあったが、おそらく入学前から交際していた継父の援助を得て、緑川さんを私立の小学校へ通わせていた。そのためクラスメイトたちは、塾や習い事に忙しい。だが緑川さんは、授業が終わったら即帰宅して、買い出しや洗濯などの家事をしなければならなかった。塾や習い事のないクラスメイトと話したり、遊んだりしてから帰ることは許されなかった。

バスケットのランドリーを白背景
写真=iStock.com/DNY59
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DNY59

なぜなら母親は、毎週月曜日に担任に電話をし、毎日の授業終了時間を把握していたからだ。だが、担任の先生からは、「すごいお母さんだね」と言われただけだった。

緑川さんは中学受験をし、私立小学校卒業後は、私立中学に進学。

「妹ができるまで母は、夜中までつきっきりで勉強を見てくれるほど教育熱心な人でした。教育虐待と言われたらそうかもしれませんが、それでも、当時の私は幸せでした」

ところが、なんと母親は入学してたった1カ月で、掌を返すように中学を退学させ、有無を言わさず、公立の中学校へ転校させた。緑川さんが理由を問うと、「お前に使うお金がもったいないから」。

同じ年、母親は突然、「親権を実の父親へ変更する」と言い出す。理由は、「こんな奴は自分の子どもじゃないから」。

実の父親と緑川さんは、母親が時々電話しているときに、少し代わってもらって話す程度だった。

14歳(中学2年)になったばかりのある日、緑川さんは、よく状況が飲み込めないまま、家庭裁判所へ同行させられた。親権の移行は緑川さんの目の前で、「合意の上で親権を移行する」という体で行われ、とても「合意してない」とは言えない状況だったという。

「実の父は、私に暴力を振るうことはありませんでしたが、とにかく自由人。当時は私が虐待されていることを知らなかったし、私を引き取るという考えは全くなかったのでしょう。父のことは恨んでいません」

■服を着たまま頭から浴槽に沈められた

母親と継父から受けた虐待はこの頃からさらにエスカレートしていく。

母親からは毎日のように、「お前なんか産まなきゃ良かった」「お前さえいなければ幸せだったのに」「この人殺し」「ブス」「クソガキ」「死ね」などという暴言を浴びせられ、物を投げつけられ、暴力を振るわれる。

4歳になっていた妹は、泣き虫だった。自分で転んだり、どこかをぶつけたりしたときはもちろん、目当てのおもちゃが見つからないときや、物事が思い通りに行かないとすぐ泣いた。そんな妹が泣けば、「泣かせるな!」と平手打ちを食らい、母親の怒鳴り散らす声を聞き取れず、ひとたび聞き返せば、蹴りが飛んでくる。理不尽な理由で怒り狂った母親は、それを継父に言いつけると、継父は緑川さんを浴室に連行。服を着たまま、頭から浴槽に沈められる。

食事はいつも廊下で1人。緑川さんの食事は、白米一杯ともやし炒め、もしくはカップ麺などの手間も食費もかからないものばかり。当時緑川さんは、中学2年生の標準は身長155センチ、体重48キロ程度なのに対し、130センチ・23キロで小学校3年生くらいの見た目。継父は時々、デパ地下総菜や弁当を買ってきたが、妹や母親にはあっても、緑川さんにはない。それが当たり前になっていた。

「肉体的に一番つらかったのは、浴槽に沈められることでした。私の意識が朦朧としていてもお構いなしで、すごい力で頭を押さえつけられるので、いつも『死ぬんじゃないか』という恐怖と隣り合わせでした。精神的につらかったのは、家の中で母や継父に、自分を汚物扱いされることです。家の中でも私と接するときはマスク着用が必須で、常に『お前は汚いから』と言われていました」

貸室状況-色あせたバスタブ
写真=iStock.com/3D_generator
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/3D_generator

そんな緑川さんの唯一の救いは、母方の祖母だった。

当時60代だった祖母は、緑川さんの家の徒歩圏内に住んでいた。時々母親と継父と妹は、3人で旅行に出かけるため、その間、緑川さんは祖母宅に置いていかれた。だが、緑川さんにとっては、誰にも殴られず、食事も好きなだけ食べられ、お風呂も平和に入れる希少な時間だった。

「おそらく祖母は、私が虐待されていることは気付いておらず、純粋に孫として可愛がってくれていると思っていたので、私は家での虐待について話せませんでした。それは祖母に心配と迷惑をかけたくないという、私なりの配慮でした」

緑川さんの知る限り、祖母は祖父のDVにより離婚している。その祖父以前にも結婚していた人がいたようだが、祖母も母親も語ろうとしないため、真相は不明だ。祖母は離婚後、すぐに別の人と再婚したが、今度は祖母の妹と浮気されて離婚。

「男を見る目がないのか、ろくでもない男とばかり付き合うところは、祖母も母もそっくりです」

■なぜ、祖母は虐待に気づきながら何も言わなかったのか

祖母はしばしば自分の娘(緑川さんの母親)に対し、「なんであんなふうになっちゃったのかしら」とこぼすことがあるというが、目の前に娘がいると萎縮してしまい、強く言うことはない。

しかし祖母は、母親たちが旅行へ行くとき以外でも、母親や継父に隠れるようにして緑川さんに会い、「好きなものを食べなさい」と言って時々お小遣いを握らせてくれていたという。

虐待の事実を知らない人が、そんなことをするだろうか。筆者は疑問に思った。祖母はきっと、虐待について薄々気付いていたが、自分の経験上、娘(緑川さんの母親)の継父に対する立場も理解でき、孫を守りたい一方で娘に強く出られず、手をこまねいていたのではないかと想像する。

中学3年生(14歳)になると、緑川さんは日々の虐待に耐えかね、家出を決意。深夜にこっそり家を抜け出し、近所にあった山の中で夜を明かす。

緑川さんが通う中学校は遠かったため、母親の都合で早く帰らなければならないときは、「バスで帰ってこい」と言われ、母親からバス代をもらっていた。そのおつりをコツコツ貯めていたのと、時々祖母からもらっていたお小遣いでパンや飲み物を買ったが、2日で尽きてしまう。3日目の夜、空腹に耐えられなくなった緑川さんは、家に帰るしかなかった。

玄関を開けると、出迎えた母親は泣いていた。学校や警察に連絡したらしく、「家出は周りに迷惑かけるからダメよ。学校にも連絡したから先生に謝りなさい」と言われた。継父も心配した様子で、しばらくは虐待がなかった。だが、約3日後にはすっかり元通りだった。(以下、後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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