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「平家を捨て源氏に乗り換える」教科書には載っていない北条時政と源頼朝の篤すぎる信頼関係

プレジデントオンライン / 2022年2月6日 19時15分

歌川芳虎「大日本六十余将」より『伊豆 北條相摸守時政』(写真=Utagawa Yoshitora/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

北条義時の父・北条時政とは、どんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「NHK大河ドラマでは『ポンコツ』に描かれているが決してそうではない。冷徹で抜け目がない人物だった。彼がいなければ北条氏が興隆することも鎌倉幕府が確立することもなかった」という――。

■主人公・北条義時の父・時政はドラマのように「ポンコツ」だったのか

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、歌舞伎役者の坂東彌十郎演じる北条時政に注目が集まっている。劇中、時政は「(平将門も)最後は首チョンパじゃねえか!」「もう! なんだよなあ!」とひっくり返り、手足をバタつかせるコミカルな態度をとったかと思うと、頼朝と対面する場面では重々しく振る舞う。そのギャップある二面性が魅力だと話題になっている。

主人公・北条義時を演じる俳優の小栗旬は、時政はじめ北条家の人々を「愛すべきポンコツ」(意訳:使い古したり壊れたりして役に立たないが、愛嬌がある)と評している。

大河ドラマ『真田丸』(2016年)でも、主人公・真田信繁の父・昌幸の濃いキャラクターを作り上げた脚本家の三谷幸喜氏である。義時を「ポンコツ」に描いた脚本は新鮮だし、今後の時政にも期待したい。

しかし、史実から見る実際の時政は決して「ポンコツ」ではないと私は思っている。今回は、大河ドラマでは描かれていない時政の性質を史実に基づき、解説していきたい。

■意外にも謎が多い北条時政の出自

時政には謎が多い。いや、時政以前の北条氏自体にも不明点がたくさんあるといって良いだろう。

北条氏は、桓武平氏の平直方(生没年不詳。平安時代中期の武将)の子孫を称してはいるものの、直方から時政に至るまでの系図には齟齬があり、真実は分からない。時政の父の名にしても「時家」か「時方」「時兼」かの議論があるほどである。

このようなことから、時政以前の北条氏は、系譜が正確に伝わるような家ではなかったというのが、一般的な見方だ。

時政も、源頼朝と出会うまでは、どのような立場で何をしていたのかは、よく分かっていない。鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』(治承四年=一一八〇年四月二十七日条)には、時政について「上総介平直方朝臣、五代の孫、北条四郎時政主は、当国(筆者註=伊豆国)の豪傑なり」と記しているだけである。

よって、時政は官位を持たない、無位無冠の豪族だったとする見解も有力だ。

その一方で、国衙(こくが)(諸国に置かれた国司が執務する役所)の在庁官人(国衙で実務を担当する官僚)だったとする説もある。

北条氏の邸跡(円成寺遺跡)からは、12世紀後半から13世紀初めの出土品(舶来の陶磁器、京都系の土器など)が見つかっており、時政時代の北条氏が、朝廷のある京都との交流・繋がりを重視していたことも垣間見える。

■年下の女性を後妻に迎えたワケ

時政の最初の妻は、伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の娘(この女性が、北条宗時・義時を産んだ)である。

後妻には牧の方を迎えている。牧の方は、平家に使える牧宗親の娘だ。宗親の姉は、池禅尼(平清盛の父・忠盛の後妻)といわれている。

牧の方は時政よりもかなり若かった。だが、ドラマで描かれるように単に若い女性が好きだったというだけではない。時政が平家との縁を重視したからだと推測される。

当初から源頼朝に味方し、「源氏一直線」という印象が濃いかもしれないが、決してそうではないのである。

時政が娘の北条政子の婿に定めたのは山木(平)兼隆だったとされる伊豆国の目代(代官)であり、平時忠(清盛の義弟)との関係も深かった。

しかし、政子は、頼朝への思いを募らせ、兼隆のもとを抜け出し、頼朝のもとに走ったという。こうして、頼朝と政子は結ばれ、時政は頼朝の舅となった。偶然にも源氏と平氏、両方に接点を持つ立場になった(時政が山木兼隆に政子を嫁がせたのは、後世の創作との説もある)。

現代に生きるわれわれは、頼朝が源平合戦の最終的な勝者であり、鎌倉幕府を創設することを知っている。だが、当時の視点からすれば、頼朝は源氏の御曹司といえど、手兵わずかな一介の流人にすぎない。平家を打倒できるなどとは到底思われていなかった。

だが、どちらかに寄るでもなく両氏とつながりを持とうとした時政という人物は、なかなか抜け目ないといえよう。

■平家か源氏か…揺れる思い

治承4年(1180)、後白河法皇の皇子・以仁王が平家打倒を呼びかける令旨を発した。その令旨は、伊豆の北条邸にいる頼朝のもとにも送られてきた。

この時、頼朝は時政を1番に呼んで、令旨を開いて見せたという(4月27日)。とはいえ、頼朝は令旨を得て、すぐに挙兵していない。逡巡していたのか定かではないが、その間に、事態は悪化していった。

以仁王とともに挙兵した源頼政は敗死。平家は、その残党を追討することを、大庭景親(相模国の豪族)に命じる。いずれ自らも追討の対象となるのではと危ぶんだ頼朝は、ようやく挙兵に向けて動き出すのであった。

時政も頼朝に付き従うことを決めた。時政としては、このまま頼朝に味方して良いものか、平家に付いた方が得か、悩むところはあったであろう。しかし、最終的に時政は頼朝に付いた。その理由の一つは、頼朝の親族となっていたことが大きいと思われる。

頼朝は使者を東国の武士たちに送り、加勢を要請した。中には、それを蹴った上に罵詈雑言を浴びせてくる武士もいたという。平家の勢いがまだまだ強い当時の状況を踏まえれば、それらの武士の心情も理解できる。

頼朝は、わずかではあるが味方してくれた武士に対して「そなただけが頼りだ」と感謝の言葉を述べた。ただ、戦に関する重要な密事については、時政にしか話さなかったという。

侍のヘルメット
写真=iStock.com/mura
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mura

■初戦に勝利も石橋山の戦いで大敗し…

ついに頼朝は挙兵する。下準備を合わせて、時政が挙兵の「総括者」の役割を与えられていたと思われる。

彼は、娘婿になるはずだった山木兼隆とその後見役の堤信遠を攻撃し(1180年8月)、彼らを討つことになる(堤は、別働隊に攻撃させている)。挙兵初期の戦を勝利に導いたことだけでも、称賛に値しよう。

ただ、平家方の大庭景親との石橋山の戦い(1180年9月14日)では、頼朝・時政軍は大敗してしまう。

頼朝と別れ、箱根山中に身を潜めた時政は、箱根権現の僧侶・永実と会う。頼朝の身を案じる永実は、時政に頼朝の居場所を問う。

ところが、時政は「景親の囲みを逃れることができなかった」と、頼朝は既にこの世にないことをにおわす(実際には、頼朝は死んでいない)。信用されていないと感じた永実は「頼朝様が死んだとなれば、あなたもこうして生きてはいないはずだ」と時政を問い詰める。すると、時政は大笑いし、永実を頼朝がいる場所まで連れていったという。

『吾妻鏡』に載るこの逸話は、時政の頼朝との密接な関係と挙兵にかける強い思いをうかがうことができよう。それとともに、時政の用心深さというものも浮き彫りにしている。慎重に物事を進めていくタイプの人間だったのだろう。

石橋山の敗戦後、時政は甲斐国に派遣されて、同地の甲斐源氏を味方に付けるべく奔走する。それが成功したということは、時政は交渉力にも長けていた。

■慎重な性格の時政も、婿の不貞に激怒

慎重で抜け目のない行動をしてきた時政だが、突発的に感情に任せて動くこともあった。

養和2年(1182)、頼朝と亀の前との不倫に怒った政子が、牧宗親(時政の後妻で牧の方の父)に命じて、亀の前を襲撃した。

頼朝は牧宗親を詰問した挙げ句に、髻を切るという侮辱に及ぶ。これに怒ったのが、時政だ。彼は鎌倉を出て伊豆に帰ってしまったのだ。

時政がいつ鎌倉に戻ってきたのか、どのように頼朝と和解したのかは不明であるが、慎重に事を運ぶと思われた時政にしては「短慮」といえるだろう。この事件がきっかけで、時政は頼朝に重要な役職に付けてもらえず、干されたという見解もある。

頼朝が正治元年(1199)に亡くなるまでの時政の重要な仕事としては、京都守護の職務くらいであろうか。時政は、都の強盗たちを検非違使庁(都の治安維持を担う役所)に引き渡さず処刑するなど、大胆な行動に及んでいる。そうした「荒療治」も関係したのか、時政はわずか数カ月で、京都守護を解任される。

■もっと評価されて良いはずの武将

頼朝が亡くなった後、有力御家人同士の殺し合いが相次ぐ。その混乱を息子の義時がくぐり抜け、最終的に勝ち残ることができたのは、北条時政がいたからだと私は思う。時政が有力御家人を挑発し、謀反の疑いをかけ滅ぼしているからだ。

「鎌倉殿の13人」の1人、比企能員を殺す時などは「仏像供養においでください。その後、いろいろとお話しましょう」と自邸に誘い出し、丸腰でやって来た能員を殺害している。北条氏が勢いをつける基礎をつくったのは時政なので、もっと評価されて良いだろう。能力的にも義時にも劣らない、いや、義時を超えた武将だと私は評価している。

鶴岡八幡宮
写真=iStock.com/pisittar
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pisittar

以上、頼朝挙兵の場面を中心にして、時政という武将の性格を見てきた。

時政の実態はドラマと異なる。ポンコツという言葉で表現されるようなコミカルな人間ではなく、抜け目がない冷徹な人間だと史料を見ていて感じる。時政がいなければ、北条氏の隆盛も鎌倉幕府の確立もなかったであろう。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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